外へ P9
「聡平。」
「な、何?」
突然の笑顔に照れくさくなって、聡平の声がうわずった。
「イギリス。」
「は?あ、ああ…。」
聡平はこの事件のせいですっかり忘れていたことを思い出した。
「あれはさ、別に今じゃなくても…。」
「俺…お前が少しの間でもいなくなるの、嫌だ。」
恭平にしてはハッキリとした物言いで、しかし笑顔のまま言った。
「…そう。兄貴が反対なら、俺、無理には行かないよ。」
聡平は少し残念そうに肩をすくめたが、素直に頷いた。
恭平はティッシュを一枚取り出し涙を拭いて、また聞いた。
「…何しに行くの?」
「語学研修。教授に推薦されて、学科で二人だけ行けることになってさ。いい機会だから…」
「一か月?」
「うん。正確には二十八日間。」
聡平は不思議そうに恭平を見た。
彼は自分の瞳を真っ直ぐに見返していた。
「ちゃんと…帰ってくる?」
「は?!当たり前だろ、向こうでずっと住めって言うのかよ…。」
聡平は半ば呆れたように言い返した。
いつの間にか近くで良平と明美が耳をそばだてている。
孝平は黙っていた。
恭平は一旦考えるように視線を下げて、やがて決意したようにもう一度聡平を見た。
「俺さ。」
「うん?」
「お前がいなくなるの、嫌だ。」
「それ聞いた。」
「だから一か月で絶対帰って来るって約束して。」
「え…。」
「絶対帰って来て。いい?絶対だ。」
聡平は恭平の勢いに押されて何度も頷いた。
「絶対だぞ聡平。」
「絶対だぞ聡ちゃん。」
良平と明美も恭平の口真似をして念を押す。
聡平は照れて、眉を上げて二人を睨んだ。
睨まれた二人は素早く恭平の背後に逃げ込み、顔だけだして笑った。
聡平が軽く肩を上げて溜息をついた。
「わかってるよ。こいつら二人の世話は兄貴一人じゃつらいからな。」
「なんだとっ」
「なにそれっ」
良平と明美が恭平の両側から抗議の声を上げた。
恭平が苦笑して、頷いた。
それを見た明美がまたもや声を上げる。
「ちょっと!恭平兄さん、その“うん”っていうのはあたしたちが世話かかるって認めたってことなの?!」
「えっ…」
恭平が答える前に、良平が口を挟んだ。
「おい明美。“たち”とか言うなよ!お前は世話かかるが、俺はかけてねぇ!」
「いやぁ…それのほうが無い、かな。」
これは恭平が逸早く否定した。
良平の顔が引きつる。
「兄貴ひでぇ!差別だ!虐待だ!!」
「自業自得だろう?」
「うっせ聡平。俺に黙って一人で海外行きやがって。末代まで祟ってやる!!」
「じゃ来いよイギリス。ま、金があればだけどね。毎回飲み明かしてる良平ちゃん?」
「むっ。む、むかつく…!!」
「これで良ちゃんより明美のほうがしっかりしてることが証明できたよねぇ〜。ねっ、聡ちゃん!」
「それも…どうかな。」
「えぇーっ!!」
はしゃぐ三人を外から見ていた恭平は、ちらりと孝平を盗み見た。
孝平は腕を組んで三人の方を観察しながら無表情だ。
不器用なのだと思う。
「父さん。」
「うん?なんだ、どこか痛むのか?」
孝平は三人から目を放して、恭平を見た。
「違う。」
「そうか。…竹本に車を取りに行かせてる。それに乗って、先に家に帰りなさい。」
「えっ…。父さんは?」
「私は後処理が残ってる。」
言った孝平は、よく見ると疲れがたまっているようだった。
恭平は申し訳なさそうに下を向いた。
「あの…。ごめんなさい。また迷惑をかけちゃって…。」
孝平は驚いて恭平を見つめ直した。
「迷惑?…ああ…まあ今回は間接的だが私に責任があるようだからな。お前が気にすることは何もない。」
孝平の言い方はぶっきらぼうだったが、恭平を安心させる力を持っていた。
「もう…危ないことはしないでね。」
「私はしていない。」
「……うん。」
俯いたままの恭平から目線を放し、他の三人の息子娘を見てから、孝平は言った。
「それじゃ、竹本が来るまで警察の人と待っていろ。みんなを頼むよ。」
「はい。」
孝平がしんどそうな溜息をついてから、踵を返して子供たちから遠ざかっていった。
恭平は見送りながら、目まいがした。
今日の体験はそうそうできるものではなかった。
思い出しただけでも寒気がする。
「あ。」
途中まで行った孝平が、何故か駆け足で戻ってきた。
「恭平。これ、返しなさい。」
言って恭平のシャツにとめてあったネームプレートを外した。
「え…。」
「社員には内緒だが、これが実は発信機になってる。」
「?!」
「職務怠慢を見つけるためにつけておいたんだがね、こんな形で役に立とうとは思わなかったよ。」
「な…!ちょ、それってヤバイんじゃ…?」
「全員についてるわけじゃない。重役と、チェックパーソンだけだ。毎月一度、更新してる。」
「…?」
「お前には毎回ついているがね。あ、言っておくがだからといって真面目に働けと言っているわけではないよ。単なる気紛れだ。」
恭平は不審な目で孝平を見た。
バレたら犯罪のような気がする。
しかもどこに行ってもバレていると思うと、自由に行動するのも憚られる。
「お前が資料室に入ったきり出てこなくなったら心配だろう?社内での浮気はできないと思う程度でいいんだよ。」
孝平は意地悪そうに笑って恭平に囁いて、プレートをポケットにしまった。
そのまま去って行く。
「な…な……。」
恭平は顔を真っ赤にして立ち尽くした。
吉住は仲間のうちに裏切り者がいると思い込んで動揺していたが、まさか自分が発信していた本人だったなんて。
恭平は何もかも孝平の手の中にいるのではないかという気がした。