笑顔の裏側 P1



平日の三時ごろ。
孝平はいつものように社長室のデスクに座って机に積まれた書類に目を通していた。
明日の会議での打ち合わせの最後の見直しだ。

そんな時、内線に繋がる電話のベルが鳴った。
書類から目を離さずに受話器を取り、顎と肩の間に挟む。

『社長ですか。』
「ああ。なんだ。」
予想通り、隣の部屋にある秘書室の竹本の声だ。
外からの連絡はすべて、秘書室の電話を経由してから孝平の元に繋がるようになっている。

『フロントに孝介様が来ているとのことです。』
「孝介が?…またか。」
『どういたしますか。』
孝平は一旦手を止めて、また書類に集中した。
「仕方ないな…。ここへ呼んでくれ。」
『かしこまりました。』

竹本が電話を切るより早く、孝平は受話器を元へ戻した。
軽く溜息をついて持っていた書類をファイルに戻し、立ち上がって仮眠室を覗く。
しばらく中を覗いてから、ポケットから鍵を取り出した。
扉を閉めて、外から鍵を閉めた。
そのまま鍵を元の上着の内ポケットにしまい込む。

そして何事もなかったようにデスクに座り、腕を組んだ。
弟の孝介が持ってくる用件は聞かなくてもわかっていた。
問題はどうやって押し返すかだ。

しばらくすると廊下から足音がして、社長室に孝介が入ってきた。
オフィスビルに乗り込んできたというのにも関わらず、いつもと変わらずラフな格好のままである。
少しくらい身だしなみと言うものを教えてやればよかったかな。

「兄さん、久しぶり。」
「ああそうだな。」
相手が礼儀も何も考えていないので、孝平も椅子を離れず笑顔も見せずに言う。

「なんか相変わらず毎日忙しそうだね。」
「まあな。」
「この前兄さんの家に遊びに行ったけど、聡平くんイギリスに行ってるんだってね。」
「ああ。」
「言ってくれれば空港まで見送りに行ったのに。」
「忙しかったんじゃないのか。私も行っていないからな。」
「へぇ、兄さんも?」
孝介は意外そうに目を見開いて孝平を見た。

実は、孝平は行こうと思っていたのだが前日に突然会議が入って行けなくなったのだ。
孝介に知らせなかったのは孝平も知っていた。
なぜかはわかっている。
…恭平が電話をしなかったからだ。

そういうことは、こちらに迷惑をかけないよう恭平が自分で処理しようとするので、今までもこれからも彼に任せきりだ。
孝平は何があっても大抵は口を出さない。

なぜかとも、聞かなかった。

「まあ、帰ってくるときには俺も迎えに行かせてよね。」
「勝手にすればいい。」
孝平は孝介の方を向いたまま視線をそらさず言った。

「孝介。早いところ用件を言え。私はお前と違って忙しいんだよ。」
「せっかちだなぁ。」
「お前とここで世間話をするつもりはないんだ。」
「はいはい。」

孝介は肩をすくめて一歩前へ出た。
「いつものことなんだけど…少しでいいからお金を貸してくれないかな。」
「…。」
孝平は眉すら動かさなかったが、心のうちでは深い溜息をついていた。

弟は結婚していて自営業を営んでいるくせに、その店のことは妻に押し付けてばかりいてろくに手伝っている気配もない。
その代わりにどこで使っているんだか知らないが金回りはよく、時々足りなくなって兄のところに工面しに来ていた。

孝平が忙しい時は断るのも諭すのも面倒なので、適当な額を渡して帰らせていたが、それだから最近はどうも簡単に貸してくれるものだと勘違いしているような気がする。
渡した金が返ってくるとは思ってないが、こちらとて湯水のように持っているわけではない。
しかも今月は聡平のイギリス留学のために何かと出費がかさんでいるのだ。
ここらで孝介のことを戒めておかないと、どんどんエスカレートするに違いない。

「なんに使う金だ?」
「まあ、ちょっと、ね。」
孝介はいつもこう言って使い道を明かさない。
どうせどこかのクラブとかに通っているのだろう。
「たまには自分でなんとかしろ。」
孝平は腕を組んでデスクに座ったまま、命令するように言った。

孝介が怯む。
こういう時の兄は、頑固で何を言っても聞いてくれない。
それでもわざわざ会社にまで押しかけたのだから、孝介にとってもこのまま引き下がるわけにもいかなかった。

「そこをどうにかさぁ。」
「無駄だ。今日は帰れ。」
「…。」
取り付く島もない。
孝介はなんとか案を巡らせて、こうなったら長期戦に持ち込もうと考えた。

「ちぇっ。わかったよ。それじゃ、ちょっと疲れてるから奥の仮眠室を少しだけ貸してくれないかな。」
孝介が突然そう言って仮眠室に近付いていくと、孝平の表情が初めて少し動いた。
「帰って寝ればいいだろう。」
「それじゃまたカミさんがうるさいんだよ。少しだけでいいから…」
孝介がドアノブに手を掛けて、止まる。

鍵が?

そのままハッとして孝平を見る。
彼の兄は意味ありげな様子でにやりと笑って、椅子から立ち上がった。

「先約がいるんでね。悪いが今日は本当に帰ってくれ。竹本に家まで送らせよう。」
ここまで言われては孝介が帰らない術はなかった。


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