笑顔の裏側 P2



孝介を追い返すことに成功した孝平は、しばらく部屋の中で立ち尽くしていたが、やがて思い直したように顔を上げると内ポケットから鍵を取り出した。
さきほどかけた、仮眠室の鍵。

それを使ってドアを開け、中に滑り込む。
そして再び、今度はノブで直接鍵を掛けた。

一つしかないベッドの上で、毛布に包まって向こう側を向き、静かな寝息をたてている恭平がそこにいた。
情事の疲れで眠っている。
眠り始めてからもうそろそろ二時間は経過している。

「恭平。起きなさい。」
孝平は声を掛けるとベッドに近付いた。
恭平からの反応はない。
「恭平。」
もう一度呼ぶと、その声に反応して恭平がうっすらと目を開けた。
視線を彷徨わせて、最後に孝平を見る。
ぼんやりと瞬きをしてから、我に返ったように飛び起きた。

「あれ?!俺、どうし…」
飛び起きた勢いで毛布が撥ね退けられ、何も纏わない恭平の上半身が露になる。
恭平は目の前の孝平の視線を感じて、慌てて毛布を引き上げた。
頬が微かに紅く染まる。

「あ、ごめんなさい…俺また寝ちゃったんだ…。」
「いいよ。それよりもう仕事に戻りなさい。」
「うん。服…」
「ここにあるよ。」
孝平はベッドの下の籠から恭平の衣類を取り出した。
脱がせたままなのでところどころ皺が寄っている。

「あーあ…やってしまった…。」
これじゃ、朝と違いすぎて目立つ。
ぶつぶつといろいろ言いながら袖に腕を通す恭平を、孝平は黙って見ていた。
「今なら秘書室には誰もいないから、すぐそこのエレベーターから下に降りるといい。」
「あれ?竹本さんは?」
ズボンのベルトを締めながら恭平が聞く。
孝平は一瞬言おうかどうか迷って、それでも平然と切り出した。

「たった今孝介が来てね。竹本に家まで送らせている。」

この一言に、恭平の動きがわずかに凍りつく。
見慣れていない人にはわからない、些細な変化。
恭平は一瞬にして気を取り直して、寂しそうに微笑んだ。
「そうなんだ。元気そうにしてた?」

「聡平がイギリスへ行く日に、言ってくれれば自分も空港に行ったのに、と言っていたぞ。」
「…そう。そういえば連絡しなかった。帰ってくるときは、教えてあげるようにする。」
そう言った笑顔は、普段と違って今にも壊れそうなほどもろい。
孝平は一瞬、恭平がこのまま泣き出すのではないかとさえ思った。

「…恭平?」
「ん?」
いつもと変わらぬように見せかけた、恭平の笑顔。

「お前…。」
「あ。」
突然、恭平の携帯電話が鳴る。
彼はベッドの脇にあった鞄から携帯を探り出し、画面を見た。
「良平だ。今日は遅くなるって。」
どうやらメールだったらしい。
恭平はしばらく携帯電話とにらみ合い、それからふと孝平の方を向いた。

「父さん、何か言いかけた?」
「いや。なんでもないよ。早く仕事に戻りなさい。竹本が帰ってきたらお前が面倒だろう。」
「うん。」
恭平は恥ずかしそうに笑って、荷物を鞄の中にしまいこんで部屋を出た。
しばらくじっと黙っていた孝平も、やがて電気を消して仮眠室を出た。


その日、恭平は夜の6時には仕事を終え、会社を出た。
帰り道にスーパーへ寄り、夕飯のおかずを買い込んで帰途についた。
最近は夜になると辺りは真っ暗でひどく冷え込むので、恭平はできるだけ急いで歩いた。

家の前まで来ると、台所の電気がついていた。
ドキリとする。

そういえば、今日孝介おじさんが会社に来たって言ってたな…

良平は帰りが遅くなると言っていた。
恭平はしばらく悩んだが、やがて意を決して玄関をゆっくりと開いた。
隙間から、中を覗く。

靴は一つしかなく、小さめの革靴だった。
紛れもなく明美のものだ。

恭平はほっと息をついて、怯えるように腰を引いていたことに苦笑した。
「ただいまー。明美。」
声を掛けて恭平が玄関の中に滑り込む。
そのまま鍵を掛けてしまった。

「恭平兄さん!お帰りー!」
エプロンをして、顔に生クリームをつけた明美が駆けつけてきた。
その顔を見て恭平が噴き出した。

「お前、顔に生クリームがついてるよ。」
「えっ…うそ〜。」
明美が慌てて鏡の方へ走っていく。
「明美。誰か来た?」
「んーん。あたしが帰ってきたのは4時くらいだけど、それからは誰も来てないわよ。」
「そう。」
恭平はそれを確認してから、靴を脱いで部屋へ上がった。

「なんで?」
「いや…新聞の集金、そろそろだから。」
明美は鏡に顔を近づけたまま、さして気にした様子もなくふーんと呟いた。

台所へ入るとスポンジケーキに生クリームを途中まで塗ったそのままの状態で、すべての道具が散乱していた。
冷蔵庫を開くと恭平の買った覚えのないイチゴやキュウイが並んでいた。

「ショートケーキでも作るわけ?」
「うん。練習してるの〜。」
恭平は散らかしまくった台所で軽く溜息をつき、今日は掃除が大変そうだと思った。
そしてふと目を止めた先に、またもや砂糖の代わりに塩が置いてあるのを見た。
ちらりと明美の方に目をやると、鏡を見たままこちらには向いていない。
恭平は手早く塩と砂糖を逆にした。
念のため生クリームを舐め取ってみると、やっぱり変な味がする。

「…明美ぃ〜!」

その日明美のショートケーキは作り直しとなった。


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