笑顔の裏側 P16



車に乗って運転すること二十分、二人は孝介の住む小さな家に到着した。

歩道に面した入口は小さなクリーニング屋になっていて、ガラスのウィンドウから彼の妻、照子が働いている姿が見えた。
小柄で、無表情な顔からは何も読み取れない。

恭平は挨拶をするために中に入ろうとしたが、その手を孝平に止められた。
「父さん?」
「裏側から回ろう。」
言って家の裏側に続く細い路地に入っていく。
恭平は慌てて後を追った。

カシャン…

家の側面にある裏口の戸が音が聞こえたので、六畳間の畳の上であぐらを掻いて、新聞の競馬予想の欄を眺めていた孝介が、顔を上げた。
誰か来たのか?
孝介は狭い庭の方向を見た。

裏口の方から突然現れたのは、いつものようにスーツ姿の兄。
自分と違って家庭的にも社会的にも地位のある、出来のいい兄だった。

「やあ孝介。」
呼ばれた孝介は、あまりに突然だったのできょとんとしている。

「……。こんなところまでよく来たね、兄さん。」
「今日はお前に話があって来た。大事な話だ。」
「お金貸してくれる気になった?」
「お前の態度次第では、考えてやらなくもないよ。」

孝平がちらりと、裏口の方に目線を移した。
つられて孝介も、そちらを見る。

「もっとこっちに来なさい。何故そんなところで突っ立ってるんだ。」

じゃりっと足の引きずる音がして、次に現れたのは恭平だった。
彼は首に巻いたマフラーに顔を埋めて、孝介の顔を見ずにとりあえず会釈をした。
寒さのためか、それともこの場の空気のためか、彼の頬は紅くなっている。
「……やあ、恭平くん。」
「こんにちは。」
恭平は目を合わせてくれなかった。

「それで、一体何の用?長くなるなら茶でも出すよ。」
「いや、すぐに終わるよ。」
孝平は、孝介のとぼけきった態度を見透かしたように笑みを浮かべている。

こういう表情の兄には、勝てる気がしない。
孝平は絶対の自信と強い力の籠った瞳で孝介を睨み、口を開いた。

「お前は恭平が俺のものだと知っていたか?」

突然の発言に、一緒に来た恭平ですら驚いて、身を縮めた。
何を突然そんなこと……
孝介は、まさか兄がいきなりそんなことを言うとは思ってもいなかったので、息を呑んだまま身動き出来ずに兄を見つめた。
孝平は構わず、恭平に向かって小さく手招きをした。
おとなしく父に近付いていく恭平。
孝平は孝介から目を逸らさずに言った。

「恭平からお前のことは大方聞いたが…鵜呑みにするのもよくないからな、確かめに来た。」
孝介がはっとして視線を恭平へ移した。

落とした視線を上げて、恭平が孝介を見据えた。
吐いた息が彼の前で白く舞い、中空に溶けて消えた。

いつかはこうなるだろうと予想していた、この日。

事が起こってから一週間ほど経ったので、今回も恭平がなんとか誤魔化したものかと考えていたが、どうやら違ったらしい。
孝介は自嘲して溜め息をついた。

「…なんのこと?恭平くんが兄さんの息子だということは、百も承知さ。」
孝介はわざととぼけて答え、首を傾げてみせた。

孝平がピクリと眉を動かした。
「それ以上のことは何も知らずに恭平に手を出した。と、そういうことだな。」

孝平の横で恭平が息を止めた。孝介は様子を伺うように、何も答えない。
ピリピリとした緊張感に、恭平は押し潰されそうだった。
本当のこと、言ってあるはずなんだけどな…

「そうなんだな、孝介。」
念を押す孝平。
兄にこう言い寄られては、孝介は頷くしかなかった。

「ふむ。」
次に孝平がとった行動。
それは誰も予想しないことだった。

片腕で、横にいた恭平を引き寄せる。
反対の手で、驚いて父を見上げた恭平の顎を取り。

そのまま恭平を覆い隠すようにして、唇を重ねた。

孝介の位置からは完全に重なったかどうかは見えなかったが、それは間違いなかった。恭平が事態についていけずに孝平の腕の中で硬直した。
孝介の持っていた新聞が畳の上に落ちる。

恭平は孝平の唇や舌の感触を感じて、目を閉じた。腕を伸ばして孝平の背広を軽く掴んだ。

孝介は目の前で起きている光景に愕然となった。
孝平と恭平が繋がっているのは知っていたが、まさか孝平のほうがこんな大胆な行動を取るまでとは思わなかった。恭平の片思いくらいの関係だと思っていた。
孝平はセックスだけは求められれば誰とでもやるのだろうし、その対象として息子の恭平も例外ではない、それだけなのだと。

思っていた………


呆然とする孝介に目もくれず、孝平と恭平は唇を重ね続けた。
しかししばらくすると恭平の頭に孝介の姿が蘇り、急に恥ずかしくなった。

誰かに見られながらキスしたのって、初めて……

恭平は身を捩って孝平から離れようともがいた。
それを感じて、孝平が唇を開放する。
舌が糸を引いた。

恭平と目を合わせてやってから、孝平は呆然と立ち尽くす孝介の方へ向き直った。
「こういうことだ。孝介、わかったな。」
「……っ!」
何も言えない。

顔を紅くして視線を彷徨わせている恭平から手を放して、孝平は言った。
「釘をさしておくが、これ以降に俺と、妻の愛が残したものを傷つけるようなことをしたら許さないよ。いいね。」

いつもの命令口調。
孝平の強い瞳に見られてこう言われてしまうと、いつも孝介は逆らえないような気がしてしまう。それは恭平も、そしてその兄弟も同じであった。

「話はそれだけだ。それからたまには照子さんの店を手伝うんだ。」
孝平は恭平を促して、入ってきた裏口の方へ向きを変えた。
孝介はまだ動かない。
いや、動けなかった。

「叔父さん…お邪魔しました。」
恭平の細い声が、後になって聞こえてきた。
はっと気付いた時には二人はもうすでにいない。

ちょっと、悪戯がすぎたかな…
孝介はしばらくの間、呆然と立ち尽くして庭を眺めていた。


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