笑顔の裏側 P15
「言い訳をするわけではないけれどね。」
恭平に食欲が戻り、熱も七度代までに下がった日の夜、帰宅した孝平は自分の食事を恭平の机に並べながら言った。
今日の夕飯は、夕方頃に恭平が作ったものだった。
当の恭平は、ベッドの上でカーディガンを羽織って枕にもたれて座っている。
「言い訳?」
「ああ。言い訳するわけではないが…私の親は、中学の時に離婚してね。」
「…」
「私…いや俺は父親に、孝介は母親に引き取られた。」
「ふーん…。」
恭平は膝を抱えて縮こまった。
孝平は恭平に背を向けて、食事を始める。
「父親は厳しい人で、貧しい自分を責めて俺に勉強ばかりさせた。まあ…嫌いじゃなかったから苦ではなかったがね。」
「うん。」
今の孝平を見ていれば、なんとなくわかる。
「一方母親のほうはというと…どうも手癖が悪かったらしい。俺が大学に入った頃、孝介が訪ねてきて、かなり暴力を振るわれていると聞いた。」
恭平は体の奥から震えてくるのを感じた。
それを隠すために、布団の中に蹲った。
孝平は背を向けているので、気にもせずに続けた。
「俺は子供の頃の心の傷とか…トラウマとかいうものはよくわからんが、もしかしたら孝介にはそれがあるのかもしれない。そう思って、今まであいつが何をしててもあまり干渉しないようにしてたんだ。」
孝平が夕飯の箸を止めた。水を一飲みして、恭平の方を振り返る。
恭平は怯えるように少し引いて警戒した。
それに気付いて、孝平が眉を上げた。
「なんだ。孝介を庇っているわけじゃない。あいつのやったことは許さない。お前の心に傷をつけたことは一生かかってでも後悔してもらうよ。」
「…」
「ただ…お前にも知っておいてもらいたかっただけだ。よくわからないまま暴力を受けたのよりは、傷の癒えが早いかもしれないと思ってな。」
言って孝平はまた背を向けて、食事を再開した。
恭平は複雑そうな顔をしたが、警戒心は自然と薄れるのがわかった。
いくら孝平に言われたからといって、今までの孝介を受け入れる気にはなれない。
どうしても知られたくなかった孝平に知られてしまったのだから、もうこれからは愛想笑いをする必要もない。
…でも、孝平にとってはただ一人の弟なのだ。
その事実は変えられない。
恭平は、黙って食事を続ける孝平の背中を見つめた。
「…父さん。俺、もう寝るね。」
孝平が振り向く。
口に入れたものをコリコリと噛んでから飲み干して、また水を飲んだ。
「ああ。おやすみ。」
それを聞いて恭平がカーディガンを枕元に置き、ベッドに横になった。
孝平が立ち上がって部屋の電気を消した。
机に灯った明かりだけが室内を照らす。
孝平は、恭平のベッドの近くに戻って、言った。
「明後日の土曜日に、もしお前の体調がよかったら一緒に孝介の家を訪ねよう。いいね。」
「…はい。」
「ではおやすみ。」
土曜日になると、一週間近く寝込んでいた恭平の体調もほぼ全快し、体の傷も見えるところはほとんど癒えた。
朝起きて朝食を珍しく四人揃って食べた。
明美が不思議そうに孝平のことをチラチラと見ていて落ち着かなかった。
「明美、お醤油取って。」
「あ、うん。」
恭平兄さんと良ちゃんはなんでいつもと変わらないのかな?
不思議でならなかった。
朝食後、その場にいたたまれなくなった明美は外出し、良平は久しぶりのバイトだと言って昼ごろに家を出た。
残されたのは恭平と孝平の二人。
新聞を読んでいた孝平は、やがて読み終わって顔を上げた。
恭平は台所で食器を洗っている。
終わりそうにないので、孝平はしばらく庭を眺めて待った。
こんなにのんびり時間が流れているのは初めてかもしれない。
やがて水道の水を止めた恭平は、洗面所へ入り、洗濯機から洗濯物を取り出して庭に運び始めた。
足のせいもあるが、これまたのんびり歩いてやるので、時間がかかりそうだ。
孝平は立ち上がって手伝い始めた。
「あ、いいよ父さん、俺やるから。座ってて。」
「のんびりやり過ぎだ。」
言われて恭平は、へへっと恥ずかしそうに笑った。
何にせよ、手伝ってくれるのは嬉しかった。
「俺が寝てる間に随分たまってたらしくてさ。昨日から洗濯機フル稼働してるんだけど…なかなかたくさんあるんだよね。」
「聡平の分がないだけマシだろう。」
「…聡平がいたら、毎日代わりにやってくれてたと思う。」
一番の協力者。今ごろ聡平は元気でやってるかな。
二人でやると作業が早い。洗濯物は見る見るうちに庭にいっぱいになった。
「上出来っ。」
恭平は腰に手を当てて、満足そうに笑った。
曇りのない笑顔。
孝平は、この笑顔を守るためにやらなければならないことがあった。
「恭平。」
洗濯物を入れて運んでいた籠を取り上げて、孝平が呼んだ。
恭平が庭から孝平に視線を移した。
「はい。」
「…孝介に会いに行くぞ。」
「……はい。」
恭平は、まっすぐに孝平を見て頷いた。
信じています。
彼の瞳は、そう言っていた。