始まり P1
恭平は、洗濯籠を膝に抱えたまま、庭先のベンチに腰掛けてぼんやりとしていた。
朝日が庭中の朝露に反射してキラキラと輝いている。
小鳥がどこかで囀っていた。
矢吹が孝平に真正面切って反抗の態度を取ってから一週間。
世界は何事もなく回っていた。
寺崎は会津に旅立っていったが、矢吹はいつも通り会社に通っている。
孝平と竹本以外の社員は、まさか矢吹があんな大それたことをやってのけたとは夢にも思っていないので、普段通りに接している。
恭平もまた、それは同じだった。
いつもと変わらぬ曜日に出社し、いつもと同じ仕事をこなす。
時々は社長室に呼ばれたが、孝平が無理矢理触れてくることはなかった。
そう。
何事もなさすぎるのだ。
恭平にとっては、静か過ぎることがかえって不気味だった。
だが、だからどうしたいとかどうしてほしいとか、そういった答えが見つかるはずもなく。
いろいろ考えているうちに、気付いたらぼんやりとしてしまっていた。
「兄貴。俺出かけるけど、大丈夫?」
聡平が普段着に帽子にマフラーをした格好で、ベランダの窓からひょっこりと顔を出した。
「あ。うん。」
恭平は慌てて立ち上がり、窓の隙間から体を滑り込ませて室内に戻った。
「いってらっしゃい、気をつけて。」
「…ああ。今日兄貴はどうすんの。」
「俺は…。」
考え事がまとまらない。
「…母さんの墓参りにでも行こうかな。最近忙しかったから。」
「そう。じゃあ、行ってきます。」
「はぁい。」
悩み事がある時は、恭平はいつも母の墓参りに行くことにしていた。
なんだか彼女が天から助けてくれる様な気がして。
…でも今回の問題は、手を貸してはくれないような気がするな。
恭平は苦笑して、洗濯籠を洗面所の元の位置に戻した。
父さんとの清い関係のことならともかく。
性交も含めた関係のこととなると、唯一の妻である愛が助けてくれるはずなどなかった。
そんなことを考えながら、恭平の足は自然と愛の墓のある寺へと向いていた。
寺の和尚に声をかけると、元気のいいおじいちゃんの笑顔が見えた。
「おお、恭平か。よく来たね。」
「こんにちは、おじいちゃん。」
ここは、愛の実家なのだ。
墓参りでもしない限りほとんどあうことはないが、和尚と恭平は実の祖父と孫であった。
「愛の墓参りかい。」
「うん。突然ごめん。お墓の方、勝手に入るね。」
「ああ、待ちなさい。私も一緒に行こう。」
和尚は袈裟懸けに草履をつっかけて、恭平と一緒に外へ出た。
桶に水を汲み、二人で彼女の墓の前に立った。
恭平が墓石に十分水をかけている間に、和尚が線香に火をつけた。
「何か、悩み事でもあるのかね、恭平?」
線香を手渡すとき、和尚は優しく言った。
その言葉に、恭平は胸が詰まる思いがした。
「うん…まあ。」
「言ってごらん。悪いようにはしないよ。」
「うん…でも、言えない。ごめんね、おじいちゃん。」
恭平がどうやっても言いそうにない雰囲気だったので、和尚は残念そうに黙った。
「…では、愛にだけは、心の中で包み隠さず教えてあげなさい。お前の母親じゃ。悪いようにはせんだろう。」
「……うん。」
恭平はしゃがみ込んで線香を上げ、手を合わせた。
母さん。…聞こえますか。
親不孝な恭平です…悩み事が、あります。
まだ愛が生きていたころ、孝平は今以上に仕事の虫だった。
家にはロクに帰らず、出張、出張、出張。
たまに帰ってきたと思えば死んだように眠りこけ、起きた途端にまた家を飛び出していった。
恭平の記憶に残る父というものはほとんどなくて、家庭の中で大部分を占めていたのは愛だった。
だが小学生でも、彼女の体があまり強くないことは理解できた。
父親が仕事の虫なので金銭的に困ることはなかったが、子供たちの世話は思った以上に体力を要する。
特に明美は夜泣きがひどかったので、母はいつでも寝不足だったようだ。
「恭平くん。お母さん、頭が痛いからお薬買ってきてもらえるかな。商店街の、薬局。わかるわね?」
そう言われて、何度か薬局やスーパーへお遣いに行かされるのが常だった。
足の後遺症が残る事故にあったのも、確か学校帰りに買い物を頼まれていて、急いで無理に横断歩道を渡ったからだった。
今でも思い出せる、トラックが自分に迫ってくる瞬間を。
どうなったかはとてもではなく覚えていないが、目を覚ました時に母の泣き顔が一番に目に入ってきたのを覚えている。
右足が思うように動かないことよりも、母親が毎日泣いていることの方が恭平を苦しめた。
そして、忙しそうにしていた孝平が1日だけ休みをとって、自分のそばにいてくれたこと。
何度も会社から電話がかかってきて、その都度席を外しては、その何分後かには平然とした顔で目の前に戻ってきてくれた。
そんな二人を見て、これからは迷惑をかけないようにしないと、と固く誓ったことを覚えている。