始まり P2



そして、唯一助けになってくれていた恭平が自由に動けなくなったことが、愛の精神的にも肉体的にも大きくのしかかったことは明白だった。
朝から恭平のリハビリに付き合いながら、明美と聡平、良平の世話をしなければならなかった。
聡平が恭平の代わりをしようと頑張っていたが、年齢や体力が気持ちに伴わない分、完全に補うことは無理だった。

恭平がつらいリハビリに成功し、一人で歩けるようになった頃には、愛は度々倒れるようになっていた。
検査のために何度か入院したりもしていた。
愛は決して言わなかったが、その頃から死因になった病気が進行し始めていたに違いない。

愛が黙ったまま時は過ぎ、恭平は近くの中学校に進学した。
入退院を繰り返すようになっていた愛の代わりに料理も覚え、毎日洗濯をして掃除もした。
低学年の明美を迎えに行ったりもした。
「おかあさんは、ママ。きょーへいにいちゃんは、パパみたい。」
明美が無邪気に笑って言う度に、恭平は苦笑しながら叱っていた。

2年生になったある日。
恭平は母の見舞いに行くために、良平、聡平、明美の3人を迎えに制服のまま小学校へ行った。
低学年の明美はすぐに校門に姿を現したが、双子の弟たちはなかなか出てこない。
よく校庭を見てみると、仲間と数人でサッカーをしている二人を見つけた。
「あーあ。サッカーしてるよ。明美、どうする?」
「んー。じゃあ、おいてく。先にいっちゃおう!」
「いいのか?知らないぞ、二人に怒られても。」
「そしたらきょーへいにいちゃんがまもってね。」
「なんだよ、それ。」
恭平は笑って、明美の手を取って歩き出した。
校庭にそってぐるりと半周して、二人に近くなったところで手を振った。
聡平が気付いて、一人で近寄ってきた。

「聡、良は?」
「一緒にいるよ。呼ぼうか?」
「いや、いいよ。先に病院行ってるから。二人はちゃんと電車乗れるだろ?」
「うん。大丈夫。」
「気をつけて来て。怪我しないようにな。」
「うん!」
聡平は仲間に呼ばれて校庭の方へ戻っていった。

足のせいで満足に運動できなくなった恭平とは違って、他の3人の兄妹は運動が比較的得意だった。
それが少しうらやましかったりもする。
「明美、行こうか。」
「うん!あけみとにいさんの、でーと。」
「そうだね、デート。今日は明美が切符買うんだよ。抱っこしてあげるから。」
「わかった。やる!」
今から考えても、呑気な妹だったと思う。
父親が毎日いないことになど疑問も持たないで育ってきたのだ。

病院へ着くと、母の病室あたりが妙に騒がしかった。
どうしたのかと思い、ひょっこりと顔を出すと、それに気付いた看護婦さんが恭平の元に近付いてきた。
その表情が深刻そうだったので、恭平は明美とつないでいた手が強張るのを感じた。

「恭平くん。たった今、お母さんの容態が急変して。至急にお父さんを呼んでもらえるかしら。」
「え…?」
「できるだけ早く、こちらにいらっしゃるようにと伝えて。あと、できれば他のご家族の方もお呼びして…できる?」
「は、はい。できます。」

力強く頷いたものの、その手は震えていた。
「きょーへいにいちゃん、どうしたの。さむいの。」
明美が恭平の手の甲をペチペチと叩いて、その震えを止めようとしていた。
「あ、明美。」
「はあい。」
「抱っこ、してあげる。おいで。」
恭平は明美のことを担ぎ上げ、電話ボックスの前に立った。

「おでんわ?」
「そう。…静かにしてるんだ、いいね。」
「はい。」
恭平は受話器を上げて肩と顎の間に挟み、テレフォンカードを差し込んだ。
震える手で孝平の会社の電話番号をプッシュした。

…容態が急変して、家族を呼ぶ。
これがどういうことか、中学2年生の恭平には、なんとなく理解できる気がした。
理解できても納得はできない。

愛に直接会って、毎日見ていた笑顔が見たいと思った。

愛の両親と、孝介夫婦が病院に到着したのはそれから間もなくだった。
孝介に連れられて、良平と聡平も、どろんこの格好のまま恭平に駆け寄ってきた。
「兄貴。お母さん、どうしたの?」
良平の問いに、恭平は俯いたまま言葉を詰まらせた。
「きょーへいにいちゃん、さっきから泣いてるの。どこが痛いのか教えてくれないの。」
「ばか、明美、だまれ。」
聡平が静かに明美を引き寄せて黙らせた。

孝平の到着は、愛が息を引き取る直前だった。
まるで、愛の体力が孝平の顔を見るまで引き伸ばされていたという感じだ。
孝平の手を掴みながら、涙を流して愛が目を閉じた瞬間を、恭平は今でも覚えていた。
笑っていた。
私は幸せでした、と言っていた。
あなたと、たくさんの子供に囲まれて、幸せでしたと。
最後までついて行けなくてごめんなさいと。
かすれた声で、孝平だけに囁いたのを聞いた。

孝平が声を殺して押し黙った。
それを見て、恭平は愛が死んだことを悟った。
静かで、時が止まったような瞬間だった。
一度に悲しみの波が訪れて、気付いたら目の前が涙でいっぱいになっていた。
その時のことはよく覚えていないのだが、翌日目が腫れ上がるまで涙が止まらなかったことは覚えている。
良平と聡平、それに明美が恭平の側を離れずにいたのを覚えている。

悲しみの意味のわからない明美がうらやましいとさえ思った。
それだけ彼女を失った悲しみは深くて重く。
心にぽっかりと穴が開いたような感じだった。


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+表紙+