始まり P10
恭平は、立ち上がった。
ずっと覚えていたようで、忘れていたことを思い出した。
「おじいちゃん。」
「…愛と、話はできたのかね。」
「うん。できた。…俺、帰ります。」
振り向いた恭平の顔は、ここに現れた時とは違って、晴れやかだった。
曇っていた空気が、輝きだした感じ。
和尚は、孫の元気な顔を見れて安心したように微笑んだ。
「待ちなさい。余っているお茶っ葉があるから…持って帰るといい。私一人では飲みきれないからね。」
「うん。」
いくら考えても、寺崎さんのこととか、父さんのこととか、答えが出るわけがなかったのだ。
自分の気持ちが、どこかへ行っていた。
俺が、今、一番求めているものは。
いつも、自分の中にあった。
「母さんは、こんな俺でも、助けてくれるみたい。」
ぼそりと独りで言ったつもりだった言葉に、和尚が笑って相槌を打った。
「当たり前じゃ。愛は今でも私の自慢の娘じゃよ。かわいいかわいい息子のために、手を貸さないわけがなかろうて。」
もっともだと、思った。
恭平は、その足で、会社に向かった。
毎日孝平が働いている、会社の社長室へ。
別に、抱きしめてもらえなくてもいい。
キスをくれなくたって。
顔を見れるだけで。
14階に辿り着いて、社長室の扉を開けると、そこにはいつもの孝平がいた。
資料に目を通しながら、机に半分腰掛けて、顎と肩の間に受話器を挟んで、誰かと会話をしている。
恭平は静かに近付いて、横から孝平の顔を覗き込んだ。
仕事をしている時の、真剣な横顔。
不器用だから、何をしているときも真剣で、一つのこと以外はできなくて。
同時に二つのことはできない。
突然視界に現れた恭平の顔を見て、一瞬言葉を失った孝平は、受話器を取り落としそうになった。
「な…っ。」
なぜ、お前がそこにいる?
孝平がその言葉を紡ぐ前に、恭平が人差し指を唇に当てて笑った。
受話器を指して、目配せをする。
孝平は大人しく受話器を拾い、仕事についての会話を進めた。
その隣で、恭平はじっとその様子を見ていた。
デスクの椅子に腰掛けて、何をするわけでもなく。
時には目を閉じて、孝平の、いつもの抑揚のない声を、聴いていた。
孝平が、電話を切った。
受話器を元に戻して、改めて恭平を見つめる。
恭平が閉じていた目を、ゆっくりと開けた。
「…なぜ、ここにいる?」
孝平は言葉を選ぶように、恭平に問うた。
「父さんの顔が見たくなった。どうしても、今。」
「…。」
孝平は何も言わない。
複雑そうな顔を隠して、黙っている。
「今日、母さんの墓参りに行ったんだ。」
「…ほう。」
「そこで俺、母さんと話してきた。一方的だけど、なんだか答えが見えたような気がした。」
「…答え?」
「うん。」
孝平が椅子から立ち上がり、孝平の前に近付いた。
机に腰掛けたままだった孝平は、立ち上がって目線のが上になった恭平を見上げた。
資料を持った手が、何故だか動かない。
まっすぐに見つめてくる瞳に、不覚にも魅了された。
「俺、わかったことがあるんだ。どうしても、伝えたい。」
「…え?」
恭平の伸ばした両手が、孝平の頬を捕えて。
拒絶する間もなく、目を閉じた恭平の唇が孝平のそれに覆いかぶさってきた。
遠慮がちで、それ以上進入してくることもない、触れるだけのキス。
久しぶりの柔らかい感触に、ドキリとした。
恭平の匂いが、鼻を掠める。
「もう、母さんの代わりは、嫌です。」
聞き取れないほど小さくて、しかししっかりとした意思を含んだ言葉が、孝平の耳に囁かれた。
なん、だって?
「俺自身を、抱いて。母さんの代わりじゃなくて、俺を。佐久間恭平として抱いてください。」
「…。」
「父さんが好き。」
恥ずかしそうに、しかしまっすぐと孝平を見て。
恭平は、呆然として動かなかった孝平にもう一度口付けた。
また、触れるだけ。
父さんの感触。
この告白が受け入れられなかったら、きっとこのキスが別れのキスになるだろう。
恭平は、今更ながらに、大変なことをしてしまった気がした。
急に悲しくなった。
唇が離せない。
孝平のことを引き寄せている手が、震えた。
離れなきゃ、もう、離れなきゃ…。
閉じた目から、涙が溢れた。
孝平の顔が、見れない。
長いようで短いキスを終えて、恭平は唇をゆっくりと離した。
一筋の涙が、頬を伝って落ちていく。
うっすらと目を開けて。
恭平は、父親の体から離れた。
「待って、ます。俺は、待てます。父さん以外の誰とも、一つになんてなりません。」
「…。」
呆然とするのを通り越してきょとんとしている孝平が、まっすぐと恭平を見つめてきた。
その視線に急に恥ずかしくなった恭平は、慌てて涙を拭って、踵を返した。
「そういうわけなんで…あ、あの、もう、帰ります。」
扉の方へいそいそと引き返し始めた恭平を追いかけて、孝平がデスクから離れた。
その長くて細い腕を取り、自分の方へ引き寄せる。
バランスを崩した恭平の体を包み込むようにして支えて、真剣な顔を恭平に向けた。
「あ、あの、ごめんなさい…その、勝手なことを…。」
反射的に謝ってしまう。
恭平は、さっきまでの自信に満ちた態度はどこへ行ったんだと独りで落胆した。
「7年だ。」
「…え?」
「お前は、それに気付くのに、7年もかかった。長すぎる。」
「え…?」
「俺はお前が愛の代わりだと思ったこともないし、言った覚えもないよ。お前は初めから、佐久間恭平だ。」
その言葉の意味がわかるまで、恭平の脳内はしばらく思考を停止しなければならなかった。
そして、このやり取りを隣の仮眠室で聞いていた人物がいようとは、夢にも思わなかったのだった。