仕事と関係 P1



あの時。
父さんが俺を抱き締めて、お互いの気持ちを確かめ合ったあの瞬間に。
俺は勝手にも、父さんがそのまま俺のことを抱くかと思っていた。

いや。

むしろ俺の方が抱かれたかったのかもしれない。
あの場はいつもそういうことをし慣れてしまった社長室だったし、何より感情が高ぶっていて周りが見えなくなっていたから。
奥深くまで探るような父さんのキスに応えながら、服を脱がされるのを待っていたんだ。

それなのに、父さんは。
途中でキスをやめて、俺のことをぎゅっと抱き締めただけだった。
「まだ仕事が残ってる。今夜まで、待てるね?」
耳元で囁かれてこの場で初めて恥ずかしくなった。
同時に残念に思う自分がいて、更に恥ずかしさが増す。
無意識に目を伏せて頷いたけど、俺の顔は真っ赤だったに違いない。

そんな俺の気持ちを見透かしたように、父さんは笑った。
「なるべく早く帰るよ。」
そう言い残し、父さんは社長室の扉を閉めた。
まるで追い出されたかのようだったのに、その時の俺は、まだ父さんのキスに痺れてた。

でも俺は見た。
いつも閉じてある仮眠室の扉が、あの時は少しだけ開いていたのを。
…妙に胸が苦しくなってしまうのを抑えられないので、あまり考えないことにする。


恭平はその日、普通に家に帰り、帰り道に寄ったスーパーで買った食材を調理した。
たまたま同時に帰ってきた良平と聡平が、もれてくる匂いに誘われて、順番に台所へと顔を覗かせた。

「おーっ!兄貴、今日のメニューは何?」
「コロッケだよ。」
「俺一個多くして!」
嬉しそうに良平が声を張り上げて、鞄を置きに二階へ駆け上がっていく。
後に残った聡平は、兄の何気ない様子を見て首を傾げた。
「どうしたの、兄貴。何かいいことあった?」

恭平は少し驚いた顔をして聡平を見、目を細めてふふっと笑った。
「いつも通りだよ。」
「そう?」
恭平はにっこりと笑って、右手に持った包丁に目線を戻した。
その口元が、まだ笑っている。
聡平は不思議そうにその光景を見ていたが、ひとまず兄が楽しそうにしているのは久しぶりだったので、胸を撫で下ろしてその場を後にした。

階段に足をかけると上から慌しく良平が降りてきて、聡平を見て言った。
「俺が先だからな、風呂!」
「じゃんけんだよ。」
「…よっしゃ!じゃーんけーん…」
十数回のあいこの末、勝ったのは聡平だった。

ぶーぶー文句を言って台所をうろつく良平を、恭平は追い出すこともなく話の相手をしてやっていた。
二階から降りてきた聡平が、ぶつくさ言う良平を見てうんざりした顔をして、恭平を見た。
「うるせぇよ良の奴!風呂くらいでいちいち文句言うなっ。」
「じゃ譲れよ!俺の方が先に降りてきたのにっ。」
「やだね〜。」
聡平はペロリと舌を出して、バスルームへと消える。
良平はそれに腹を立てて、中指を立ててむかつくだの早くしろだの文句を投げつけた。

「まあまあ。じゃんけんは時の運だから仕方ないよ。今日くらい我慢しろって。」
「時の運だから余計に悔しいんだよ!兄貴はわかってないなぁ一番風呂の気持ちよさを!」
恭平の言葉にも耳を傾けない良平に苦笑して、恭平は水道の蛇口を捻った。

「ああ、そうだ。」
良平が思い出したようにポンと手を叩いて、ポケットから携帯電話を取り出した。
慣れた手つきでそれを開き、しばらくの後に台所の恭平にそれを見せに来た。
「ん?なに?」

見せられた文面には、明美からのメールで、孝平は今日帰宅するのかと書いてある。
恭平はそれを見て困ったように溜息をつき、目を離した。
「帰ってくるよ、父さんは。」
「…そうなのか。じゃあ明美は帰ってこねぇかもなぁ…。」
良平はそれを聞くとつられて溜息をつき、メールの返信を打ち始めた。

「明美の父親嫌い、なんとか治らないものかな。」
ぽつりと恭平が言うと、それを聞き逃さなかった良平が視線だけを恭平に向け、首を振った。
「何を言っても駄目だろうな。もう、ある意味アレルギーだもん。」
「…はあ。俺のせいかな。」
恭平の台詞に良平ががくりと肩を落とし、包丁を持っているにも関わらず恭平の背中をドンと叩いた。

「いたっ!」
「兄貴のせいじゃねぇっつの。なんでもかんでもそう言うなよ。」
「り、良!…ティッシュ!ティッシュ…ばんそうこ!!」
「……えっ?」

驚いて見ると、恭平の左手の指先から血がぽたぽたと流れていた。
良平はゲッと反射的に飛びのいて、慌ててティッシュ箱を取りに走った。
「どんくせぇな〜っほんと…!」
「今のは良平が悪いだろ!!」
「ご、ごめんなさい。」

いつもの日常が、恭平の周りを包んでいた。


++
前++
+表紙+