仕事と関係 P2
孝平は恭平と約束した通り早く帰ろうと、いつもよりもさっさと仕事を片付けた。
処理し終えた書類を渡すために、内線を使って秘書の竹本を呼び出す。
彼は5分もしないうちに、社長室の扉を叩いた。
「お呼びですか、社長。」
彼の顔からはいつもの笑みが消え、どこか憂鬱そうな表情をしている。
孝平はちらりと目をやってから、渡すはずだった書類を竹本の目の前にかざした。
「明日の会議で必要になる。お前も目を通しておいてくれ。」
「…わかりました。」
頷いて手を伸ばした竹本から、孝平はひょいと書類を遠ざけた。
「…社長?」
「明らかに落ち込んでどうする。お前なら、当の昔に知っていると思っていたんだが。」
孝平の言葉に竹本の体が強張った。
目を見開いて、まるで何かを疑っているような目付きで目の前の孝平のことを見つめた。
それを受けて孝平が軽く肩をすぼめる。
「なんだ、知らなかったのか。」
「…どなたか、私以上に想われている方がいらっしゃるとは、思っておりましたが。」
遠慮がちに竹本が切り出す。
ぽつりぽつりと消え入りそうな声で喋るので、近くにいる孝平ですら聞き取るのがやっとだ。
「まさかそれが。……恭平くんだとは、思いも寄りませんでした。」
孝平との久しぶりの交わりの後、タイミングを見計らったようにデスクの電話が鳴ったのだ。
ほとんど服を脱いでいなかった孝平は、一回目のコールの間に身なりを整え、しばらくしてから鳴った二度目のコールで仮眠室を出て受話器を上げた。
竹本はその間孝平の残り香を逃すまいと布団を被り、電話が終わって彼が戻ってくるのを待つつもりだった。
もう起きろ。仕事をするぞ。
そうやって、急き立てて来るのを待つつもりで、いた。
孝平の言葉の調子から相手が誰か、用件が何かは容易に想像が付く。
長年孝平を支えてきた習慣と鍛練の賜物で、竹本の自信でもあった。
そんな幸せなはずの時間を見事にも壊してくれたのは、最愛の孝平の、実の息子だった。
何も言わずに社長室へと入り、慣れた様子で孝平の隣で微笑んでいた。
今まで竹本自身も、孝平のことを想うが故にそれと同じくらいに大事にしてきた恭平が。
目の前から景色を奪われたかと思った。
孝平はともかく、恭平の話すいつもどおりの線の細そうな声が、竹本の心に突き刺さった。
息子の告白を受け入れて彼のことを包み込む孝平の声は、例え本人が否定したとしても、竹本には満足と幸福感を含んでいるように聞こえた。
今までにない声の響きだ。
仕事における信頼度は誰にも負けない自信があるのに、そちらの方の関係では微妙に納得のできなかった理由が、ここにあったのだと確信した。
孝平にとっての、身体の関係で言うところの最も大切な人物は恭平なのだ。
自分ではなく。
「…どうして。」
しばらく沈黙した後に、次に言葉を紡いだのは竹本の方だった。
「どうして、恭平くんなのです…。」
竹本が悲壮な声を発して、孝平の腕にすがりついた。
いつも孝平と同じくらい冷静な竹本が、珍しく感情を露わにして孝平を見た。
その表情には知ってしまったやり切れなさと疑いと、嫉妬が複雑に渦巻いている。
「竹本…。」
「どうして、恭平くんなのですか。どうして…!」
なぜ、よりによって、実の息子なのか。
竹本は肝心の言いたいことを言葉にできず、言葉を詰まらせた。
悲しそうに俯いて、孝平の胸に頭を押しつける。
…もしかしたら、薄々気付いていたのかもしれない。
口に出すと真実になってしまうようで、できなかった。
今も、きっとそうだ……
声を詰まらせた竹本の頭に、孝平はそっと手をあてた。
「なぜかとわかっていたら、自分のことすらわからなくなりそうだ。」
「え…?」
孝平が囁いた言葉に、竹本が怪訝そうに眉をひそめて顔を上げた。
「恭平は不思議な子だ。…お前はどう思う。」
「…どう、思うかと言われましても。」
「お前から見た恭平は、どんな男だ。私の息子だからとか、おかしな気遣いはいらないよ。」
「恭平くんは。」
貴方の息子であるのに、傷つきやすく繊細で。
小さい頃から苦労して生きているせいか妙に大人っぽくて、それでいて同時に未発達な感情を持っていて、そこに他人ですら取り込んでしまう魅力がある。
目が合うと必ず微笑み、父さんのことをよろしく頼みますと何度も頭を下げる。
「…お世辞など言わずとも、イイ子だと思います。」
でもそれは、貴方の息子だから。
今までは、そう、思っていた。
「イイ子か。」
孝平は、その言葉の裏に感情を含めない、いつもの抑揚のない声調で答えると、ふっと溜息をついた。
「私もそう思うよ。イイ子で…イイ男だ。いろんな意味でね。」
孝平の言葉が竹本に重くのしかかる。
それは、きっとセックスも含めるということだ。
体の関係が始まったのは、竹本自身が気付かなかっただけで最近の出来事ではないのだろう。
きっと、だいぶ前から。
…時間には勝てない。
他の点でも、勝てないのだろうか。
いや、きっとそんなことはない。そう信じたい。
「竹本。」
「…はい。」
「私はこれからもお前とは共に仕事をしていきたい。できれば、ずっと一緒に。」
「…。」
これは孝平の本心だろう。
でも。
黙っている竹本を見透かしたように見つめて、孝平は表情を変えずに、掴まれていた腕を解いた。
するりと力が抜けて、竹本の手が孝平の腕から離れる。
「頼りにしているよ。」
孝平はそう言っていつものように好感のもてる独特の笑顔で微笑み、竹本の方をポンと優しく叩いた。
そして、壁にかけてあったコートを取り、用意してあった鞄を持ち上げた。
「私はもう帰る。何かあったら連絡するように。いいね。」
「…はい。」
この口調には逆らえない。
彼の息子、佐久間恭平ならば、首を振ることも可能なのだろうか…
「また明日。」
「はい、また明日。」
軽く手を振って社長室を後にする孝平を、竹本は静かに頭を下げて見送った。