仕事と関係 P16
恭平の声が、時々漏れて聞こえてきた。
矢吹は煙草を口に銜えながら、振り返れずにいた。
はあ、どうして俺ってこういうシチュエーションが多いんだろう。
いつか、正面から恭平を見てその体を抱きしめられる日が来るのだろうか。
そんなことを考えて、妙にむなしくなった。
口元から煙草を外し、ふーっと白い煙を吐き出す。
静かになったかと思うと、ドアが開かれ、孝平が出てきた。
それに気付いた矢吹は、煙草を地面に落として踏み潰した。
そのゴミを拾ってエチケット袋の放り込み、孝平と向き合う。
「その…どうも。お疲れ様です。」
何を言っていいかわからずに矢吹が声をかけると、孝平はふっと噴き出した。
なんだか、この人に笑われてばかりのような気がする。
「君は不思議な人だな。いや、そのギャップがなかなか好きだよ。」
そう言って、自分より背の高い矢吹の肩をポンと叩いた。
矢吹には何故褒められたのか見当も付かない。
「竹本は来た?」
「いえ、まだです。」
「遅刻だな。まあいい。」
孝平は首を傾げて言ってから、車の中を見た。
その視線につられて矢吹も車内に目を移した。
車体の前であるここからでは見えなかったが、後部座席には恭平が眠っているものと思われる。
「気を失ってる。悪いが、このまま家まで送っていってあげてくれるかい。」
「え…あ、はい。でもこの車、正式には会社のなんですけど…」
営業時に矢吹が愛用している車であって、出社時以外は使ったことがなかった。
「構わないよ。私は社長だからね。」
「…はあ。じゃあ、遠慮なく運転させていただきます。」
「ああ。あ、それから。」
孝平は思いついたように矢吹を見、右手を差し出した。
「よく知らせてくれた。感謝する。」
「…。」
知らせる前に奪い取ろうかと思った矢吹は、苦虫を潰したような顔をして、差し出された右手を握り返した。
「いえ、その…ご迷惑をおかけしました。」
「こちらこそ。」
孝平はそう言って笑い、ふっと表情を引き締めた。
表のビルの角を曲がり、竹本が荷物を持って歩いてくる。
表情を引き締めると、先程の笑顔とは異なり近付きがたい雰囲気になる。
やはり会社を一つ持つトップだと、矢吹は感心してしまった。
「では、恭平のことをよろしく頼むよ。家に誰もいなかったら、恭平を起こしたので構わないから。」
「あ、はい…。お気をつけて。」
間の抜けたような矢吹の発言にまた破顔して、孝平が笑った。
「君も気をつけて。」
原因はよくわからないが、孝平はどうやら矢吹のことを相当気に入ったらしい。
孝平は軽く手を上げて竹本に合図を送ると、小走りになって彼の元へ去っていった。
矢吹はしばらくその光景を見ていて、もう一本だけ煙草に火をつけ、半分も吸わないうちに足でもみ消して運転席へと入った。
後部座席で眠る恭平の顔には、安堵が浮かんでいた。
竹本と合流した孝平は助手席へ、竹本は運転席へと座り、ドアを閉めてシートベルトをかけた。
「急ぎましょう。ギリギリかもしれません。」
「そうだな。安全運転で頼むよ。」
「誰に言っているのですか?お任せください。」
竹本はそう言って、エンジンを入れた。
駐車場を出て、一般道路へ。
しばらくいかないうちに、孝平が窓を開けて外の空気を吸った。
「…竹本。」
「はい?」
「…恭平は、最後までお前の名前を言わなかったぞ。」
「…え?」
目の前の信号が赤になり、二人の乗る車もゆっくりと停車した。
竹本の運転は安全かつ的確なので、この日も寸分の狂いもなかった。
「…なんのことでしょう。」
「私にとって、お前は大切な仕事仲間だ。お前が望めば恋愛相談もセックスの相手もしてやる。だが、それも私にとってプラスであるからこそだ。」
「…。」
「こんなところで時間をくって今日と明日の会議に失敗したら、それは私にとってマイナスだ。これがどういうことかわかるかい。」
「…はい。」
マイナスになるのなら、例え竹本伸彦といえども、切るということだろうか。
竹本の中に心のうちから恐怖が生まれた。
仕事から切り離されてしまっては、次からは何を目標にして生きていけばいいのか。
セックスはおろか、仕事まで奪われてしまっては、手足と羽を奪われた無力な昆虫と同じだ。
竹本が顔を青くして黙っていると、その不安を打ち消すように孝平が、優しく、気遣うように付け足した。
「マイナスにならないように、これまで通りのサポートをして欲しい。もはやお前抜きでは私は前に進めないんだ。」
「…っ。」
何気ない一言が、竹本の中に一滴の奇跡の水を落とした。
ざわついていた水面から、一気に雑念と波を消す、一粒の雫。
「おい、前。信号…青だ。」
孝平が左肘でドアにもたれたまま、右手を上げて信号を指差した。
言われて竹本は慌てて車を発進させ、しばらく行ってからウインカーを出して左に停車した。
歩道脇とはいえ、大通りのど真ん中だ。
他の車に迷惑なことこの上ない。
いつもなら軽く叱る孝平も、このときは黙ったまま前を見つめていた。
顎を手に乗せ、体重を預けている。
「…竹本。泣くな、みっともない。」
「…っ。す、すいませ…っ。」
竹本が鼻をすすって、ハンドルを掴んでいた右手を目頭に当てて背を座席に預けた。
「…申し訳ありません。自分が…恥ずかしいです。社長…っ。」
「わかったから、泣くな。俺が悪いみたいじゃないか…。」
「いえ、社長は悪くありません。私が、未熟なのです。まだまだです。」
ハンカチで涙を拭いて、竹本が表情を改めた。
どいつもこいつも泣き虫が多い、と孝平は心の中で密かに毒づく。
溜息をついて、竹本を見た。
「まだまだなのは百も承知だ。それでいいから。…前を見ろ。遅刻するぞ。」
「はい。」
どこまでも、貴方についていきます。
社長。