夏の海 P1



その年の夏は暑かった。
雲一つない青空に、輝く太陽からの日差しが肌の上を容赦なく照りつける日々が続いていた。
好きなことには余念がなく、いくら疲れを知らない年頃だったとしても、こうも暑ければ集中力も欠けてくるというものだ。
クーラーの効いた部屋から一歩外に出ることすらも億劫である。

外へ会議へ出ていた孝平は、朝方から太陽の昇る直前まで、珍しく仮眠を取っていた。
しばらく家へは帰っていなかった。

そんな時に鳴った一本の電話が、孝平の人生に変化をもたらした。



恭平は、部屋に入って来た足音に目を覚ました。
足音で無意識に父親の孝平であるとわかる。
「父さ…」
「しっ。恭平、おいで。今すぐ。」
「え…?」
「急いで。」
恭平はチラリと時計に目をやって、時刻が朝の4時半であることを確認した。
「どうしてこんな朝早くに…」
「着替えるんだ。出かけるよ。」
「え?」
寝惚けた目を凝らして見ると、孝平はいつものスーツ姿だった。
そういえば昨日は会議が入って帰らないと連絡があったんだっけ。
じゃ、なぜ今ここにいるのか。
どういうことだろう?

何はともあれ孝平に言われては仕方がない。
恭平はタンスからタンクトップとジーンズを取り出して、暗闇の中で着替え始めた。
ぼんやりとした景色の中で、孝平が腕にはめた腕時計で時間を確認しているのが見える。

「…何?」
「着替えたか。では行くぞ。」
孝平はすっと先に部屋を出ると、音も立てずに玄関へ降りた。
慌てて恭平も後を追う。

外はまだ暗かった。
空にほんのりと明かりが浮かび、もうすぐ夜明けであることを告げている。
孝平は庭を突っ切って車の横まで行き、運転席へ乗り込んだ。
恭平も慌てて助手席へ滑り込んだ。

「父さん?」
「いいから。酔うなよ、酔ったら台無しだ。」
「う、うん。いやでもそれは父さんの運転次第かな…。」
なんとも頼りない声を上げて、恭平はシートベルトをはめた。
孝平がエンジンをかけてギアをドライブへ入れ、アクセルを踏んだ。

恭平は眠気の残る頭をフル稼働して、孝平が突然に何故こんな行動に出ているのか考えた。
強引に恭平を振り回すのは今に始まったことではないが。
夜中に襲われたのならともかく、早朝に起こされた記憶など今までになかった。
どこへ行くのだろう。
どういうつもりなんだろう。
…何かいけないことをしたかな?

恭平の疑問など気にもせず、運転をしている孝平の横顔はとても楽しそうだ。
その横顔を見て、恭平も思わず目を細めて微笑んだ。

きっと、何かいいことが待っているに違いない。


孝平が車を停めたは、家を出てから20分ほど経った場所だった。
停めるなり車を降りた孝平に続いて、恭平も慌てて助手席から飛び降りる。
ドアを閉め、ボンネットの上から顔を出した瞬間、恭平は息を呑んだ。

潮風が髪を優しく撫でる。
目の前には、小さな海岸と、大きな海が広がっていた。
海岸には人っ子一人おらず、小波が寄せては返している。
その先にある真っ青な深みのある海は、ずっと向こうで空と繋がっていた。

「…海だ!」

恭平は上ずった声を上げて頬を赤らめた。
時計を見ると、5時ちょうど。
ドキドキと高鳴る胸を押さえて、恭平は孝平のことを見た。

「おいで、こっちだ。」
孝平はニヤリと独特の笑みを浮かべて、海岸へと降りる道に足を踏み入れた。
そこは斜面になっていて、おまけに足元は砂でバランスが取りにくい。
「滑るな。気をつけなさい。」
孝平の言葉に頷いて、恭平も父の後に続いた。
ザザーン、と波の寄せる音が耳へ響いてとても心地よい。

孝平は海岸の上へ降り立つと、遥か向こうの水平線が見渡せる位置で溜息をついて腰を下ろした。
右足を引きずっているため大幅に遅れてやってきた恭平も、彼の隣に静かに座った。
来た道を振り返ると、ちょうど木の陰になっていて車の位置が見えるか見えないかという感じだ。
だいぶ降りてきた、という気がする。

「見ていなさい。もうすぐのはずだよ。」
「え…?」
「日の出だ。」

見つめていた孝平の横顔が、太陽の光に照らされて輪郭がはっきりと見えた。


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