小説>本編>夏の海>夏の海 P5



しばらくすると、孝平が戻ってきた。
手にはタオルと、ペットボトルのお茶を持っていた。
「ほら、これで体を拭いて。喉が渇いたらこっちだ。」
孝平はタオルを恭平に差し出して腰を下ろした。
「ありがとう…。」
素直に受け取って、恭平は体の砂をはたき始めた。

孝平は腕時計を見た。
時刻は5時半を過ぎていた。

「…お前が生まれた時。」
「え?」
「お前が生まれた時。私は病院にいなかった。愛の近くにいなかったんだ。ちょうど今くらいの時間に、会社を出た。電話をもらってね。」
「…そうなんだ。」
「愛は笑って許してくれたけど、お前はそうもいかなかったみたいだな。俺が抱き上げると泣いてばかりいたよ。」
「ぷふっ。」
恭平は思わず噴出して拳で口元を押さえた。
孝平は海を見つめたまま苦笑している。


青い空がうっすらと太陽に照らされて、白い雲が浮かんでいたあの日。
海沿いの車道に車を走らせ、病院に駆け込んだ。
新しい命などまったく実感がわかないという顔をして病室へ入って来た孝平を見て、愛が微笑んだ。

「孝平くん。間に合わなかったね。」
「…。」
「本当はね、孝平くんが帰ってきてから陣痛を迎えようかと思ってたんだ。でもやっぱうまくいかないもんね。一人で生んじゃった。ゴメンネ。」
ベッドに横たわり、あまり顔色のよくなかった愛は精一杯の笑顔でそう言った。
言葉を探して黙り込んでいると、紡ぐ間もなく看護婦がやってきた。

「お父さんですか?!」
「え。あ、はい?」
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」


いつもクールな孝平くんが、あの時ばかりは普通の男の人みたいにアタフタしてたって、しばらく愛が笑い話にしていたっけ。


孝平はふっと自嘲して目を閉じた。
「なぁに?今、何か思い出して笑ったでしょ?何?」
「いや、こればかりは言えないな。それより早く服を着なさい。続きがやりたいのか?」
恭平ははっとして、タオルで体を隠そうとした。
隠しきれなかった肩や長い足は木の陰の下でとても色っぽく見えた。

ぷっと膨れて、孝平の傍にあった自分のズボンを慌てて引き寄せ、恭平はその足も隠してしまった。
孝平は残念そうな顔をして、再び海に顔を戻す。

蝉がうるさいくらいに鳴り響く、8月の終わり。
夏の海。
晴れ渡る空。
そして……

「恭平。」
孝平は、横で砂とズボンと悪戦苦闘していた自分の長男の名を呼んだ。
きょとんとした表情を向けて恭平が振り向く。
すでに大人になっているとしても、その顔は孝平にはあどけなく純粋に見える。

「なに?」
「誕生日おめでとう。これからも元気に生きなさい。」

恭平は心臓が飛び出そうになって、チャックを閉める手を止めた。
肩からズルリとタオルが滑り、砂の上に落ちる。
慌ててチャックを上げきって、孝平の横顔を見つめた。

恭平を祝った孝平の横顔は、自分と同じく海からの光を反射していて。
息子だということを忘れるほど、凛々しくて、格好よくて。

明美や良平にも見せてあげたい。


「ねぇ…父さん。」
「なんだ?」
「俺はいつでも父さんのそばにいるよ。これから何年先も、きっと父さんのそばにいるから。」
「はは。それは迂闊なことはできないな。」

孝平は目を細めて笑い、海から目を離した。
「着替えたか。」
「うん、もう大丈夫。体中が砂っぽいのは変わらないけど。」
「帰ったらシャワーを浴びるといいよ。私もこのスーツは着替えないと出社できないな。」
「じゃ、帰ろっか。」
タオルとペットボトルを拾い上げ、恭平が先に立ち上がった。
右足を引きずるようにして、足場の悪い砂の上を歩いていく。
その後姿を追っていた孝平は、やがてすっと立ち上がって彼の後を追いかけた。

「恭平。」
「なに?あ、ちょっと待って、ここ登りにくい…。」
左足だけでバランスを取って立っていた恭平の体を後ろから支え、孝平は顔を覗き込んだ。
「あ、ありがとう。」

次の恭平の声は発せられることはなかった。
二人は唇を重ねて、小波の打ちつける海岸の真ん中に、しばし立ち尽くしていた。


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