女社長 P1
孝平の経営する会社のライバル会社に女社長が誕生したらしい。
隣へ越して来た篠田父子を玄関で迎える中、恭平は竹本が父へ伝えた言葉を耳にした。
そのことがどういう意味を持つのか。
女性が社長になったっていいじゃないか男女平等で、くらいにしか考えの及ばなかった恭平には、知る由もなかった。
その日、恭平は上司に頼まれた大量の印刷物を刷るために印刷機の前に立っていた。
ガシャンガシャンと一定のリズムを刻む印刷機を見ていると眠くなる。
ついウトウトしてしまいそうになり、慌てて首を振ったところへ孝平の秘書・竹本がやってきた。
「恭平さん。社長がお呼びです。」
はっとして振り向いた時には竹本はすでに踵を返している。
「わかりました。」
その背中へ返事を返したが、聞こえていたのかわからない。
振り返ろうともしてくれなかったから。恭平は嘆息し、ちょうどタイミングよく印刷を終えた用紙を取り出して残りをダンボールへ戻し、台車の上に積んだ。
適度に重さのある台車を押して印刷室を出て、カードキーで施錠する。
腕時計で時刻を確かめ予想より早く終えられたことに満足し、恭平は彼特有の歩調で歩き出した。
社長室へ行くと、実父である孝平がいつになく無表情で恭平のことを出迎えた。
いつもなら意地悪そうに、もしくは楽しそうに微笑んで迎えてくれるものだから、恭平は瞬時に何かを察して緊張した。
叱られる子供のように、彼の真剣なまなざしには逆らうことができない。
そんな恭平の心情を知ってか知らずか、孝平はデスクの引き出しからA4サイズの茶封筒を取り出したて言った。
「恭平、頼みたいことがあるんだが。向こうがどうしてもお前に、といってきかなくてね。」
「向こう?」
「これからこの封筒を持って、行ってもらいたい場所がある。」
そう言いいながら渡されたのは例の茶封筒と白い紙の上に書かれた地図。
「近くまで行ってここの番号にかければ迎えに来てもらえるそうだ。」
孝平の指が無造作に指し示した箇所には電話番号が書かれていた。
恭平は頷いて、落としていた視線を上げた。
「わかった。何をすればいいの?」
「茶の付き合いだ。」
「は?」
「一緒に食事をとってくればよろしい。この封筒はついでに渡しておいてくれ。」
恭平は呆然として孝平を見つめた。
普通は順番が逆なんじゃないか?
食事はついでで、目的は封筒なのでは……。
「先方がお前と食事がしたいと言ってきたのだから、仕方がない。断るわけにもいかないしな…。行けるな?」
「うん…行くのは構わないけど。どうして俺なの?」
「さあ、知らん。そこが気に食わない。」
孝平は見逃し兼ねないほど小さく眉間に皺を寄せた。
あ、と思った瞬間には元の表情に戻っているから、恭平は思わずふきだしそうになった。
「…にやにやするな。」
「ごめん。じゃ、ここでお昼を食べてくるね。他に何かやってくることはない?」
「ない。そんなことよりできるだけ早く帰ってこい。いいね。」
「わかった。じゃあ行ってきます。」
恭平は小さく肩をすくませて微笑み、部屋を出ようとした。
すると孝平の手が恭平の腕を捕らえ、下方へ引いた。
恭平がバランスを崩す。
「あ…!」
孝平は倒れ混んで来た恭平を受け止めて、その顎を取り唇を寄せた。
ふわりと浮いたネクタイが重力に従って垂れ下がるまでの一瞬。
恭平は孝平の腕を勢いよく掴んだ。
孝平の唇が離れる。
「ふふん。驚いたか?」
「…。」
呆れてしまって開いた口が塞がらないとはこのことだ。
なのにみるみるうちに顔が熱くなっていくのがわかる。
やだな、まるで喜んでるみたいじゃないか。
「その反応好きだよ、恭平くん。」
「ば、ばか。」
「親に向かって馬鹿とは失礼だな。」
「ちょ…っ。ごめんなさい。」
「許してもらいたかったら…わかってるね?」
孝平は言葉を止めて、恭平の体を押し返してまっすぐに立たせた。
恭平やっと赤い箇所が頬だけになった顔をはにかませた。
「すぐに帰ります。」
「ああ。」
迎えた時とは違い、孝平は笑顔で恭平のことを送り出した。
右足を軽く引きずるようにして遠ざかる恭平の背中を見送って、孝平は扉を閉めた。
疲れたように肩に手を当てて揉み解しながら、恭平に手渡した茶封筒が入っていたのと同じ引き出しを引く。
そこにはもう一枚、小さな紙切れが入っていて。
こう書かれていた。
三枝玲子
三枝建設 社長
それは孝平にとって見覚えのある名前だった。