あるクリスマス P6



しばらく飲み交わしているうちに、気分が良くなってきた。
恭平はトイレへ行こうとテーブルを離れた。
その後を矢吹が追いかける。
「危なっかしいから付いてくよ。」
矢吹は言った。
事実、頬をピンクに染めて矢吹を見つめる恭平には一挙一動がどこか妖しい。
矢吹の目を惹きつけ、胸の鼓動を高まらせた。

トイレの入り口で誰かとすれ違った。
恭平がその人物を見て目を見開く。その途端、逃げるように早足になった。
彼の手を、男は掴んだ。
「あ!」
「恭平くん…」
「いやだ、はな…っ」
男の手に掴まれた腕を、恭平は体の方へ引いた。
矢吹は咄嗟に恭平の肩を支えた。上から腕を伸ばして、男の手を振り解く。
「なんだ、あんたは!」
見れば判るほど恭平が嫌がることはほとんどない。何者かはわからないが、用心せねばならない相手らしい。

矢吹の横で恭平が言った。
「ごめんなさい、矢吹さん。怒鳴らないで。ちょっと驚いただけだから。」
予想外なほど小さな声。震えを悟られないためだ。
手を掴んだ男…佐久間孝介は、矢吹の出現に驚いたものの、それを隠すように言った。
「久しぶり…元気そうだな。」
「ええ。」
「良平くんたちも来てるのかい?」
「いえ…良平は来てません。聡と明美なら…」
「そうか。聡平くんには留学の土産話を聞きたいから会ってくるよ。…悪かったね、驚かせて。」
「いえ…。ごめんなさい。」
「じゃあ、また。」
表面的とも取れる会話。
矢吹は戸惑い気味に恭平を見た。
彼は顔をしかめたまま足早にトイレの中に入った。
慌てて後を追いかける。
中には誰もいなかった。

恭平は手洗い場の蛇口をひねり、冷たい水に両手を突っ込んだ。すくって顔に浴びせた。ひんやりとした感触にざわついていた心が幾らか静まる。
「恭平、くん。」
背後から矢吹が声をかけた。
水を滴らせたまま、恭平が振り返った。
「…ありがとう。」
「え?」
「矢吹さんがいて…助かりました。」
言って掴まれた手首を握った。矢吹はその手が少しだけ震えていた気がした。

「あの人と、何かあったの?」

静かに聞いた。
恭平は動じなかった。
正確には動けなかった。
脳裏に孝介との淫らな記憶が蘇る。
消しても消せない傷跡が、心だけではなく身体にも残っている気がした。
引き寄せられた時、矢吹がそばにいなかったらどうなっていたのだろう。
近くに父はいなかった。
トイレの個室はすぐそこだった。二人きりになる秘密の場所はいくらでもある。
恭平を見る孝介の目は、昔と変わらない、むしろ以前より深い闇を抱えるようになっていた。

それが、怖い。

「あのさ、さっき恭平くんの態度がちょっと変だったから…気になっ……」
何も知らない矢吹は、続く言葉を止めた。
恭平の顔に滴る水に紛れて、頬を伝うものがあった。
「き、恭平くん?大丈夫?」
矢吹の優しい顔が滲む。恭平は顔を逸らした。
洗面台の水を止めて、胸ポケットからハンカチを取り出した。
「顔洗ったら、酔いが覚めたかも。ふふ。」
無理に笑った。
水を拭き取って、鏡越しに自分と目を合わせた。
情けない顔。

今すぐ会いたいな。
父さん……


がばっ
「!」
突然、後ろから矢吹が恭平を抱き締めた。力強い腕と暖かい体温が恭平を安心させる。
「やぶ、き…」
名前を呼んだら、なお一層強い力で包み込まれた。
恭平は目を閉じた。
不思議と心が落ち着くのが感じられた。

ずんと深いところから、安らいでいく………


「恭平くん。」
「ん…」
耳元で低音が響く。
「つらいなら言わなくてもいい。ごめんな。」
「……うん。」
「だから…泣きたい時は泣いていいよ。無理して笑うな。」
「………。」

恭平は目を閉じたまま黙っていた。
頷けない。
そんなに優しくされたら……

「恭平。」
囁かれて恭平はゆっくりと目を開けた。すぐそばに矢吹の顔。
男らしくて、元気のある顔がこの時は少し違って見えた。
静かで大人の顔。

矢吹の唇が動く。
近付くに連れて、恭平は目を細めた。ピントが合わなくなる。
そのまま目を閉じた。

触れる唇。柔らかい。

矢吹は後ろから抱きついていた腕を解き、唇を重ねたまま恭平の前へ回った。
屈んでいた膝を伸ばし、恭平の肩を掴む。
一度離れて角度を変えた。恭平の息遣いが舌に伝わる。
矢吹は今の自分が信じられなかった。
自分は今、想い焦がれた人物と口付けを交わしている。
職場の人間で、会社のボスの息子で、家庭では尊敬されている兄である男。
いつでも笑顔で人に優しく、思いやりに溢れている。自分より細くて柔らかいこの身体に自分にはないものがたくさん詰まっている。

そして。
この整った顔にすっとした首もと、シャツから覗いた鎖骨、細い腰に少し不自由な足。
これら全てが、矢吹の思考を惑わせてきた。

恭平の唇が呼吸を求めてわずかに開いた。
無意識に矢吹が舌を這わせる。
体温が混ざる。
熱い。

「…っ。」
恭平が鼻を鳴らした。苦しいらしい。
矢吹は我に返り、恭平を解放した。
「……っは…ぁ。」
溜め息。
矢吹は、苦しそうに息を上げた恭平を見た。
少し顔を赤らめて、閉じていた目を開ける。それからゆっくりとこちらを見上げてきた。
矢吹は慌てて恭平から手を離した。
「ご、ごめん。つい…!ごめん!!」

恭平は口元だけで笑顔を見せた。
急に恥ずかしくなった矢吹は首から額まで、耳まで含めて真っ赤になった。
今更ながらに心臓が痛いくらい高鳴り始める。

「い、行こっか!弟さんたち待ってるかもだし…っ?」
「あ、待ってください!」
「え!何?!」
「ちょっと待ってください…俺、済ませたいんです。」
ドキーッ!!
矢吹は目を点にして驚いた。
「す、済ませる?!…って何を?!」
「トイ…」
「だめだよ僕たち!まだ君のお父さんのこともあるしっ越えちゃ行けない一線ってあると思うんだ!」
「……。」
「そりゃ俺も君と、さ、最後まで済ませちゃいたいなぁ〜なんて願望はあるけど!…って、なんだって?」

矢吹の動揺ぶりに恭平は吹き出した。
「ぷふーっ!あははっ。トイレですよ。用を足したいんです、俺は。」
「あ、あそう…。」
ショックを隠しきれない。

恭平は一通り笑ってから、洗面台から離れてベルトに手をかけた。
無意識にその姿を追いかけて、再び我に返った矢吹は、静かにゆっくりと明後日の方向を見つめながら恭平に背を向けた。


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+表紙+