雷雨 P1



竹本と恭平の乗る車に戻ってきた孝平は、部屋にあった恭平の持ち物の一切合切を腕に抱えていた。
竹本の乗る後部座席の扉を勢いよく開ける。
驚いた秘書官が目を丸くして振り向いた。
その傍らでぐったりと横たわる恭平の姿が、孝平の視界に入った。
浴衣から覗いたうなじに、赤く引っかいたような跡が見える。その上に玉のような汗をかいていた。

「社長。」
竹本が何か言ったが、孝平の耳には入らなかった。
竹本の上に乗り出して、恭平の肩に手をかける。
「恭平。起きろ、大丈夫か。」
少し揺さぶると、恭平がぼんやりと目を開けた。竹本の膝の上から頭を上げる。顔は伏せたままだったが、孝平はひとまず安心した。
ほっとして手を離したら、その手を恭平に掴まれた。
予想外に強い力で、親指のあたりを握りしめられる。
「父さん…」
「ああ、そうだよ。悪い竹本、運転を頼む。」
「はい。」
竹本はもとよりそのつもりだった。
孝平から荷物を受け取り、場所を譲る。彼を待っている間、恭平は意識があるのかないのか不明な状態でしきりに父親を呼んでいた。探していた。
竹本は今の恭平の状態と自分を置き換えて、苦笑する。
こんな風に社長に甘えられる気がしない。立場と性格が、違いすぎるからだ。

竹本は助手席に荷物を置き、反対側に回って運転席へ入った。
恭平が泣きながら何かを言っているが、聞き取ることができない。
孝平も困ったように頷きながら、落ち着けとか後で聞くから、などと言って宥めている。
竹本はキーを回し、車を出した。


「眠ったな…。」
孝平が呟くように口にしたのは、ホテルを離れて5分と経っていなかった。
竹本はちらりとバックミラーに目をやった。

「…言葉が見つかりません。眠った方が、体は休まると思いますが。」
「そうだな。」
孝平は低い声で頷いた。
長いため息。

目を閉じる。

「竹本…」

「はい。」

竹本は返事をしたが、それ以降の孝平のコメントはなかった。
考えこむように窓の縁に肘を当て、手を口元にやりながら外の景色を眺めている。
いつもと変わらぬ端正な顔だが、焦りと困惑がにじみ出ていることを、竹本は痛いくらいに感じた。
彼の眉がピクリと動き、俯いた。どうやら膝元の恭平に目をやったようだが、肩から下の動きは竹本からは見えなかった。
実際は、孝平の手は恭平の額にあてがわれている。

「社長。」
「うん?」
竹本は声を出した。
沈黙に耐えられそうに無かった。

「…この後のことですが。」
「あぁ。」
「いかがいたしますか?」
「予定通りにしよう。会社へ戻るよ。」
「…。」
「だが、やはり恭平は無理だろうな。熱もあるようだ。」
「ご自宅へ寄られますか。」
「あぁ…いや、だめだな。一人ではおいておけない。」
「では…いかがします。」
「…。」
孝平は恭平の額から手を離した。
掌に汗が滲んでいる。
これは恭平のものか、それとも自分のものか。

横たわる恭平を見下ろしながら孝平は、こういう時に愛がいれば、とふと考えた。

ここ何年も抱いたことのない考えだ。
愛がいれば、少なくとも恭平を一人にしてしまう心配をすることはない。目覚めた時に寂しい思いをさせることもない。
二人で支えてやることもできる。

「…まずいな。」

弱気になっている。
この俺が?

目の前で傷つけられた恭平を見て、怖じ気付いたのか。
目の前がくらくらした。
突如として世界が遠ざかる。じわりと闇が忍び寄る。

笑顔を失うことのつらさを、俺は誰よりも知っていたはずだったのに。
二度と失ってはならないものだ。
一方的に相手が悪い状況だが、本当にそうだろうか。
もっとできることがあったはずではないのか。
腕の中にある大切なものが、するりと抜け落ちていく…


「社長?」

竹本の声に、孝平ははっとした。顔を上げる。
「社長、大丈夫ですか?少し顔色が…」
「うん。私は平気だよ。それより寄ってもらいたい場所がある。」
「は。」
「うまく話をして、できれば恭平を預かってもらおう。もちろん詳しい話は恭平が目覚めて落ち着いてからだが。」
「…かしこまりました。では、道のりのご指示を。」

孝平は、詳しい話を聞きだそうとしない竹本に、安堵と感謝の気持ちを覚えながら微笑んだ。


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