雷雨 P12
雷を伴った集中豪雨のような天候は、途中に休憩を挟みながらもほぼ一週間ほど続いた。
土日の休日も天候がすぐれなかったため、週末の外出を楽しみにしていた人たちはさぞ残念だったことだろう。
テレビやネットのニュースでも、天候が悪く洗濯物が乾かないことをしきりに報道していた。
いつものベッドの脇に太陽の日が差し込み、閉じた瞳に明るさを感じて恭平は目を開けた。
今日は何日だっけ、と考える。
浅い眠りにしかつけていないものの、今日は幾分か気分がいい気がした。
布団を持ち上げ、肘を後ろ手について起き上がる。
右足の付け根のあたりに、うっと痛みが走ったが、じっとしているとすぐにひいた。
良平に抱きかかえられて無理矢理連れて行かれた病院では、事前に電話がしてあったのか幼少期からの恭平を知る主治医が待ち構えていた。
具合を見て渋い顔をしたのは覚えているが、そのあと何かしらの薬を打たれ、疲れ果てた恭平は気を失った。
その間に何がなされたのか覚えていないが、結果的には幸いなことに大事ではなかった。
偶然傷つけられた箇所が、常人であれば内出血か筋肉痛で済むところ、古傷を抱えた恭平の弱っている部分にあったのだ。
傷つけられたのは偶然だが、もしかしたら恭平が無意識に庇ったのを察知して、わざと痛みが走るようにしたのかもしれなかった。
最中は無我夢中だったので恭平は覚えていない。
思い出したくもなかった。
ただでさえ、目を閉じると悪夢のように嫌な気分が繰り返されて泣けてくるのだ。
自分の体が自分のものでないような、嫌悪感さえ覚える感覚に恭平はほとほと参っていた。
病院から戻ってきても、家に閉じこもってばかりいる。
仕事もしばらく休んでいた。
痛みをやり過ごし、ようやく上体を起こした恭平はそのままゆっくりベッドから左足を出した。
ベッド脇に揃えて置いたスリッパに足を通し、次いで、全身で引っ張るように右足も出した。
寝巻の代わりに動きやすいようにと弟妹が準備してくれたジャージの下にはサポーターが巻きつけてある。
これと痛み止めの薬のお陰で、恭平は幾らか自分の意志で動くことができた。
できれば動かず痛みが引くのを待ちたい気持ちもあるが、それでは筋肉が衰えて最終的にもう一度動き出すのに労力が必要となる。
これまでの経験からも、少しずつでもいいので毎日動いたほうが良いのだ。
ふう、と一息ついてから恭平は立ち上がった。
ベッドに手をついて、左足から。
ゆっくりと歩きだす。
部屋を出ると、家族の中で恭平の次に早起きの聡平がいた。
壁に手を付きながら歩いてくる兄の足音に、洗面所から歯ブラシを加えたまま顔を出した。
「あにき。」
「お早う、聡平。」
「はいひょうぶ?」
「うん。はは、ちゃんと磨いてからにしろよ。ソファのとこ行くだけだから。」
そう言って恭平はリビングのソファを指差した。
聡平は、ふん、と頷いて洗面台に顔を引っ込めた。
バシャバシャと水音がしているのを後ろに聞きながら、恭平はおそろしくゆっくりソファに向かう。
座ったと同時くらいで、聡平も洗面台から出てきた。
濡れた顔を拭きながら、恭平の横に立つ。
「あー、スッキリした。」
「ふふ、良かったね。」
「大丈夫か?昨日はあんまり調子よくなさそうだったけど…」
「今日はなかなか。」
「そうみたいだね。」
聡平は恭平の顔を覗き込んで安心し、機敏な動きで踵を返した。
やがて戻ってくると、恭平に熱いタオルを投げてよこした。
「使いなよ。」
「サンキュ。ありがとう。」
もらったタオルで顔を拭く。
温かさが気持ちよかった。
ふあ、とあくびを一つして、聡平は台所へ向かった。
「兄貴もなんか食う?」
「うん。悪いけどお願いします。」
「おう。」
聡平のさりげなさはとても心地よい。
やがてトーストと、ベーコンが焼ける匂いが漂ってくる。
恭平は机のペン立てに立てていた体温計に手を伸ばした。
「兄貴の今日の予定は?」
「ん。…特にないよ。」
「そう。じゃあ俺、今日早く帰ってくるから。」
「うん。…予定があるならいいよ、無理すんな。」
「やだよ。遅く帰ってきて家で兄貴が倒れてでもしたら、俺、どうしたらいいかわからなくなるもん。」
「縁起でもないこと言うなよ〜。」
恭平は緊張感なく笑ったが、傍から見ていると今の彼にはそれくらいの危うさがある。
聡平にはそれが何だか、恭平が病院から帰ってきても未だに皆目わからないが、良平はわかっているようだ。
彼の場合必要があれば聡平にも相談してくるはずだから、それを信じて待っている。
相談してこないのは、まだ必要ないということだ。
あの日、雨の降りしきる中バイクで出て行った良平から電話があったのは夜遅くなってからだった。
頼まれた兄の保険証を持ち、家に明美一人置いておくのも忍びなかったので二人で家を出た。
妹は終始無言で、それでも聡平から二歩も離れずついてきた。
ピピッと体温計が微かな音を立てた。
辛うじて聞き取った聡平は顔を上げた。
ちょうど恭平が脇から体温計を取り出すところだった。
「何度?」
「んーと、七度三分。まぁまぁじゃない。」
「そうだな。まぁまぁだ。」
聡平の返事に頷いて恭平はふう、と息をついて目を閉じた。
カチャリと音がして、部屋から父が出てくる。
視界の隅に映った聡平は気付いたが、背後だった恭平は気付かなかった。
孝平は寝ぼけた頭を少し振り、後ろ手にドアを静かに閉めた。
振り向かない恭平の後ろに立ち、しばらくそのつむじを観察する。
手に持った体温計の温度が見え、ふむ、まぁまぁだ、と思った。
おもむろに手を伸ばし、後ろから恭平のおでこに手を当てた。
「ぅ、わぁ!!」
大袈裟なほど悲鳴を上げて、恭平はビクリと肩を強張らせた。
額で熱を測り、自分の手の温度より高いことを確かめる。
恭平はぎゅっと目を閉じて、体を固くした。無意識に息が上がる。
言い知れない恐怖が恭平の内から沸き起こる。
何かが目を塞ぎに来たようにしか感じられない。
誰の手かなんて、考えられなかった。
「やだ、なにっ…」
「お早う。」
耳元で聞こえた声音がじんと心の奥に響く。
「父、さん、」
「今日は元気そうだな。」
聡平とほぼ同じ感想を述べ、孝平はあっさりと手を離した。
掌から伝わったのは熱だけではなかった。
やはり、震えている。
恭平の異変に気付かない聡平は、洗面台へ向かった父に声をかけた。
「父さんも、朝飯いる?」
「うん。よろしく。」
「了解。兄貴の分が先だけど、いい?」
「構わないよ。」
先食べていいよ、と恭平は言いたかったが、声が出なかった。
周囲に気付かれないように呼吸を落ち着けるのが先決だった。
恭平は聡平のいる方向から顔を反らし、窓を見た。
太陽の光は、どこか心が落ち着く気がする。
「兄貴、ほら、朝飯できたよ。」
しばらくして掛けられた聡平の言葉に、恭平は優しく微笑んで振り向いた。