明美の提案 P6



恭平は30分以上かけて呼吸を落ち着かせることができた。
長時間に渡る過呼吸状態は、本人の自覚の有無に関わらず著しく体力を奪っていた。
全身がだるい。

しかしそれでも、意識を取り戻す前からずっとこの身を抱いてくれていた孝平の腕から離れたくなかった。

「恭平、落ち着いたか。」
時折掛けられる孝平の声を聞いているだけで落ち着く気がした。
精神が不安定で、それを隠すことができない。
返事をしようと思うと喉がつまり、しつこいくらいに咳が出た。
ヒュー、と自分でもわかるくらい苦しそうな音が鳴る。

「無理するな。眠るまでここにいる。」

孝平は言ったが、恭平は眠りたくなかった。
目を閉じれば、きっとまた先ほどの夢に出てきた人物が襲ってくる。
それは恐怖や悔しさを思い起こさせて落ち着かない。

孝平は空いた右手で恭平の前髪を避け、額に手を当てた。
大量の発汗のせいでベトつく。
熱いな、と孝平は頭の中で呟いた。

義父の家にいた頃は、家主の旭と孝平しかいなかった。
佐久間の家に帰ってきた途端、兄弟と、それから訪ねてくる近所の人や郵便配達の若者まで、恭平が接しなければならない世界が広がった。
その為か症状は一向に良くなっていない。

近くにいてやりたいという気持ちとは裏腹に、仕事のほうも佳境を迎えていて社長の自分がいないと困難が生じる場面にある。
良平から連絡があった今日も、孝平は迷ったくらいだ。
電話を受けたあの時、たまたま近くにいた竹本が背中を押してくれなければ危なかった。
今の恭平を見る限り、結果的には帰宅して良かったと思う。

孝平はふと、自分は帰宅して真っ先にこの恭平の部屋に来たので着替えも何もしていないことを思い出した。
ワイシャツとスーツが一着ダメになった。
クリーニングに出してもらいたいところだが、頼みの恭平がこんな状態ではどうすればいいのか孝平にはわからなかった。
…落ち着いたら聡平にでも相談してみるか。

「…ごめん。」
「え?」

恭平が声を発した。
それに驚いて孝平は腕の中にいる恭平のことを覗き込んだ。
「スーツが…」

この期に及んで恭平の発した言葉に孝平は息をのんだ。
同じことを考えていた。
その事実に驚愕する。
「こんな時に何を考えてる。恭平は自分のことを考えてればいい。」
「…聡平に、クリーニング頼んどくから…」
「…うん。頼むよ。」

何を言っても聞かない。
昔からそうだ。朝食作りも、洗濯も掃除も。
通常なら母親がやっていることに恭平が手を抜かないことは家族全員が知っている。
本当は今だって、兄弟の夕飯の心配をしているに違いない。

孝平は先手を打って聞いてみた。
「お腹は減っていないかな。」
「…俺はいい。それより父さんこそ…」
「ああ。少々減ってきた。」
「…何か、」
「いらないよ。外に良平と、それと…杉野くん、だったかな。彼らがいるから用意してもらおう。」
「…杉野、くん、いるんだ…」

何かを思い出したのか、恭平の呼吸が少し上ずった。
それを見逃さず、孝平はそっと指を頬に這わせた。
恭平の瞼が揺れて、火照った瞳が孝平を見上げる。
心なしかそちらに意識を引っ張られ、反面呼吸が落ち着いていく。

「責任を感じることはないぞ。どうも彼らは、君が何かしらの変調をきたすことを予期していたようだ。わかってて試したみたいだよ。」
「…参ったな。悪いことした…」
「そう思うなら、もう一度会ってやるんだな。」
「…、今は、いい…」

そうだろうね、と孝平は頷いて敢えて何も言わなかった。
こんなにも情緒不安定になるとは、おそらく当の本人が一番驚いたに違いない。
あと5分でも長く意識が戻らなかったらと思うとゾッとする。
おそらく先ほどの状態はいとも簡単に、少しのきっかけで再発するだろう。何度も目の当りにしたくはない。
体力が落ち、自信も無くし、生きる気力を失いかけている今の恭平はとても危うい状態に見えた。

「恭平。」

焦燥感にかられ孝平は名を呼んだ。
この腕に初めて抱いた赤ん坊の頃から、何度も繰り返し呼び続けてきた、愛しき名を。

彼は小さく瞬きをして父親を振り仰いだ。
孝平の妻であり彼の母親だった彼女に似た漆黒の瞳が、今は傷つき疲れ果てて霞んでいる。
彼の存在をこの世に留めておける方法があるならば、あらゆる手段を知りたい。
どんなことでもしよう。

「諦めるなよ。」
「…え…?」
「勝手に諦めるな。」
「…何を?」
「私の前から消えるな。しっかりしろ。」

それに対する恭平の返事はなかった。
逡巡するように瞳が揺れる。

孝平はこめかみに皺を寄せ、睨むような目つきになった。
そうすると少し、いつも見ている良平の目元に似ている。
「恭平、返事は?」
「…今は無理だよ。…歩け、ないし…」
「歩けたら実行しそうな口ぶりだな。まぁ恨まれても仕方がないが。」
「…うらむ?」

恭平が聞き返したところで閉じていたドアが開いた。
顔を出しのは良平で、手には水の入ったペットボトルとコップを乗せたお盆を持っていた。
「どう、兄貴?」
父に聞いた。
「だいぶ落ち着いたようだ。」
「杉野は入ってこないほうがいいよな?」
「…そうだな、悪いけど。」

そう、と少し残念そうに頷いて、良平は兄の勉強机の上にお盆を置いた。
「この前医者からもらってきた薬も、一応ここ置いとくから。」
「ありがとう。」

頷いて孝平は自分の腕時計で時間を確かめる。
良平はその様子を尻目に、ベッドに横たわる恭平を覗き込んだ。
肩から上だけは、未だに孝平の腕と膝の上に預けてある。
「兄貴、大丈夫か。」
恭平は返事の代わりに小さく頷いた。
「その…悪かったよ。急に杉野のこと連れてきて。」
うん、ともう一度頷く。
声を出して呼吸をし、また体がおかしくなるのが嫌だった。

「杉野なら顔も知ってるし、大丈夫だと思ったんだよ。ごめんね。」
「…、ん。」
「俺、今から買い物行ってくるから。ついでに杉野送ってくる。栄養になりそうなもの買ってくるけど、何がいい?」

今度は小さく首を横に一度だけ振った。
何も食べたくないし、何かを入れたら胃から逆流しそうだった。
しかしその些細な我儘を良平は許してくれない。
「わかったテキトーに買ってくる。果物でもジュースでもなんでもいいから、なんか食えよ。」
「…吐きそうだから、いらない。」
「馬鹿野郎。もし吐いても俺が始末してやる。」

ふん、と一息鼻から吐いて、良平は恭平から離れた。
「それでも駄目なら明日は病院だ。」

病院は、人がたくさんいるから嫌だなぁと、恭平はぼんやりとそう思った。


++次
++
+表紙+