明美の提案 P5
「良、こっち来い。」
杉野に呼ばれて良平はそちらを向いた。
「ほっぺた、血が出てる。」
「え?」
「さっき恭平さんに引っかかれてた。大丈夫か?」
「…気付かなかった。」
杉野はふっと優しく笑い、良平の顎を取った。
いつの間にか濡らした自分のハンカチで、良平の傷付いた左頬を拭う。
イテ、と良平は左目を閉じた。
「お疲れ様。よく頑張ったよ、良平は。」
「…ごめんな。」
「何が?」
「兄貴のあれ、杉野が原因じゃないからな。俺に対しても数日前はあんな感じだった。気を悪くすんなよな。」
「いいよ。逆に俺は、最適な役回りだなと思ってるよ。」
「最適な、役回り?」
「うん。家族より遠くて、赤の他人より近い。俺相手なら何度でも練習できるよ。」
「練習ってお前…」
「お前が知ってるかわかんないけど、あれに近い症状の人を俺は見たことがある。あそこまでひどくはなかったけどな。」
「…そうなのか。」
「うん。」
杉野が一旦言葉を止めたので、良平もそれ以上は聞かなかった。
良平の頬の傷は血が止まったようだ。
杉野は両手をそっと離した。
「恭平さん、いろいろ苦労してそうだね?」
「…。優しいからつけこまれるんだ。」
「それが恭平さんのいいところなんだけどね。」
杉野の言葉に、良平は固まった。
視線を合わせたまま徐々に頬を赤らめる。
「え?…何?」
杉野は固まった良平に合わせて自分も固まった。
無自覚だったため、笑顔のまま不思議そうに相手を見つめる。
杉野に兄のことを言われて、良いところを褒められて、少し照れただけだった。
「…お前に言われるとなんかアレだな。恥ずかしいな。」
「ん?」
「そうだよ。兄貴のいいところなんだよ。優しくて、誰にでも笑いかけて、相手が傷つくことは絶対にやらなくて。力弱いくせに責任感だけは強くてさ…」
「うん。」
「守らなくちゃって思う。少なくとも俺は、なんとしてでもあの人を守ってやりたいんだよ。」
守ってやりたくても力がなくて守れなかった、母親の代わりに。
聡平だって明美だって、例外ではない。
「うん。わかるよ。」
「でもさ、誰かはそんな兄貴のこと気に食わなく思うんだろうか?」
「…さあ。」
「そんな兄貴を、弱いあの人を、傷つけたいと思うんだろうか。思わせる何かが兄貴にあるのか?」
そこまで言って、良平はポカンと頭を叩かれた。
咄嗟にその箇所を押さえて杉野を見やる。
「何言ってんだよ。そんなわけないだろう。」
「いってーな!」
「恭平さんは大丈夫だ。お前が信じなくて誰が信じるんだよ?」
「…、」
「誰もが恭平さんのことをきちんと愛せるわけじゃない。方法を間違えたやつが何人かいたってことだろう。」
「…許せない。」
中には色欲しか頭にない人種もいる。
中学・高校といろいろ無茶した経験のある良平は、嫌というほどわかっていた。
今現在交友のある中でも、一歩間違えば危ない奴もいる。例えば赤城智哉はそちら側の人間だ。
親戚の中にも一人、その疑いのある人物がいる。
彼はかつて恭平を追いつめた。
そしておそらく、兄の恭平はそういった類の人間にとっては隙だらけなのだろう。
端正で中性的な顔立ちに自然な笑顔。
身長の割には華奢な体つき。
弟の良平が贔屓目に見ても心惹かれる容姿だと思う。時折明美が本気で心配しているのを笑ってられない時もある。
更に見た目通り力も弱く、おまけに足のこともある。
暴力に訴えれば逃げる術は無く、しかし頑なに心を開かない彼に加虐心は煽られるだろう。
そこまで考えて、良平は首を振った。
許せない。
絶対に許せない。
拳を握り怒りを抑える良平に相対してゆっくりと、落ち着いた声で杉野は語りかけた。
「良平は良平の方法で愛せばいいんだよ。」
「俺の、方法…」
「そのうち恭平さんも思い出してくるよ。今は強烈な何かのせいで忘れているだけだ。」
杉野の言葉は表情と同じで、いつも以上に柔らかかった。
「恭平さんの一番大事な家族が全員近くにいるんだ。前と同じにはならないかもしれないけど。必ず今よりはよくなるはずだろ。」
「…治るかな、兄貴。」
「前みたいに無防備な恭平さんには戻らないかもしれない。でも必ず、前みたいに笑えるようになるよ。良平と、聡平と明美ちゃんがそばにいれば、必ず。」
「お前が言うと、そんな気がする。」
心からそう思い、良平は頷いた。
嘘でも世迷いごとでも。今はその理想に甘えていたかった。
相談して良かった。
あとから兄貴もきっとわかってくれる。
顔を上げた良平に、杉野はそっと笑いかけた。