非日常 P10
後日談A
36.4℃。
今朝の良平の体温は、やっと平熱に落ち着いてくれた。
「やったー!もう寝っぱなしの生活とはオサラバだ!そろそろ寝るのにも飽きてたんだよね。」
良平は嬉しそうに布団を跳ね除け、腕を伸ばして体を反らせた。
その横で、目玉焼きの乗った皿をを両手に持った杉野が笑う。
「よかったね。ほら、目玉焼き。」
「ありがとありがと。」
「食べさせてあげようか?」
「…いらんて何度言ったらわかるんだ。」
良平が眉間に皺を寄せて、ニヤニヤと笑う杉野を見上げた。
妙子のお陰で一度味を占めた杉野は、良平が寝込んでいる間、食事の度に食べさせてあげる食べさせてあげるという台詞を繰り返した。
良平は呆れを通り越して、もう何も言えなかった。
看病のために一日仕事を休んだ杉野は、今日はその分残業することを覚悟していた。
それを知ってか知らずか、良平が目玉焼きを頬張りながら遠慮がちに切り出した。
「俺、今日家に帰るから。兄貴にも悪いしな。」
「おう、それがいいと思う。」
「…サンキュな、杉野。」
「うん。」
素直に感謝を述べた良平に、謙遜も恩着せがましくすることもなく杉野は平然と頷いた。
まるでこのことは問題の一つにも取り上げないような自然さ。
良平は杉野のこういうところが、居心地がいいと思った。
杉野は毎朝の習慣で、机の上に新聞を広げながら箸を口に運んでいる。
新聞を読むのを嫌っていた杉野も、就職してから速読には慣れたらしい。
もの凄く集中しているのはわかっているのだが、良平は、今この時に彼に言っておきたいことがあった。
「あの…さ。」
「うん?」
新聞から目を上げて、杉野が良平を見た。
頭では今読んでいた記事が反復しているに違いない。
「いつか、お前が都合のいいとき、俺んち来いよ。」
「……えっ?」
「あ、いや…感謝っていうか。今回は、お前には何から何まで世話になったし。」
「…。」
お世話をする生活にはもう慣れていたが、良平にこんなことを言われたのは初めてだった。
それなりに成長してるんだなー、なんて良平に言ったら年寄り臭いと煙たがられそうなことを考える。
「…いいの?」
「うん。聡平は追い出しとくから、その…。」
「…。」
「俺の部屋に、泊まってって。」
ぽかんとして、開いた口も塞がらない。
え、
何、
もしかして、
俺は、今、誘われてる……?
杉野の頭の中から、今日の新聞の記事は全て吹き飛ばされた。
目の前にすわって目玉焼きを箸でいじっている良平を、まるで珍しいものをみるような目つきで何度も何度も見つめ直した。
穴の開くほど見つめられて、照れて困った良平がふいと顔ごとそっぽを向いた。
「嫌ならいい。」
「もちろん行く!行くに決まってるじゃん良平くん!!」
「こ、声がでかい。」
良平は更に恥ずかしそうに肩をすぼめ、慌てて箸を口に運んだ。
目玉焼きが冷めてきて少し冷たくなってる。
食事を終えた杉野は、出かけるためにスーツに着替え始めた。
それを何気なく見ていた良平が、ふと気付いて、杉野に近付いた。
足元に手を伸ばし、パジャマのズボンを、右の足首の辺りからペロンと捲りあげた。
「ぬぁっ?!」
シャツのボタンを留めていた杉野が、驚いて足を引いた。
「な、何をするのさ良平。」
「これ…痣になってる。どうしたの?」
良平の指差した箇所は、足首から弁慶の泣き所中央付近までに大きな青痣ができていた。
杉野は気まずそうにズボンを下げて、さっと良平から身を引いた。
「なんでもないよ。思ったより痛くないし。」
「…。あやしいな。なんか蹴った?」
「…。」
「なんか蹴っ飛ばしたろ。しかも無理矢理。違うか?」
さすが良平。
杉野はもうわかっちゃってるんだろうなー、なんて思いつつ、情けないし恥ずかしいしで自分からは言うまいと固く決心していた。
「もーいいのいいの。気にするなっ。」
「まさか…」
「う、うるさいよ良平。男にはね、言えないこともあるの。」
そう。
普段人なんて蹴ったことないから。
良平を守るために必死に出した右足が、まさか青痣になるなんて思ってもみなかった。
本当にそんなに痛くないし、二、三日したら治るだろうが、そんなことは良平には口が裂けても言えなかった。
喧嘩慣れしている良平にはこの気持ちはわからないだろうと思う。
「…ごめん。」
良平が、小さな声で謝った。
申し訳なさそうな、悲しそうな表情。
良平のこんな表情は、はっきり言ってあまり見たいものではない。
杉野はどうにかして良平の元気を元に戻そうと、わざと意地悪そうに笑った。
「気にするなって。それよりさ。」
「うん?」
「良平の部屋に泊まった暁には、えっちさせてくれるよね?」
突然標準外のことを言われ、良平は思わず反論もせずに絶句した。
なんでこの男の口からはこんな内容のことしか出てこないんだと、今更ながらに呆れてしまう。
「なっ…。ば、馬鹿じゃねぇの!」
「いいってことでしょ?そうだよね?そうだろ?」
「し、し、知るかよ…!!」
良平が途端に杉野から距離を取り、顔を真っ赤に染めて警戒態勢を取った。
たぶんもう足の痣のことなんて脳裏から吹っ飛んでいるだろう。
杉野はさらに口の端を歪めて楽しそうに笑った。
「いいよな。消毒しなきゃいけないもんな。」
「…えっ?」
「良平は俺のもの。誰にも渡さないよ。」
「…っ。」
今更何を言っているのだろう。
杉野が人を蹴ったとき、気を失っていた良平にはこの会話が繋がっているようには聞こえなかった。
いつもの戯言だとしか思えなかった。
「消毒って…。」
「いーっぱい、キスしてあげる。いーっぱい、マーク残すから。」
良平の顔が、これでもかってくらいピンク色に染まっている。
ああ、そんな顔するからやめられないんだよ。
杉野は今にもキスをして押し倒したい衝動をどうにかこらえて、洗面所に入った。
鏡で髪の毛を整えて、ネクタイを正し、ガスを消して靴を履いた。
「じゃあ行って来ます。また連絡してね、良平。」
「わ、わかった。」
なんとか心を落ち着けて、良平が答えた。
着ていたジャージのポケットに両手を突っ込んで、無愛想に杉野を見ている。
玄関のドアノブに手をかけた杉野に、良平は、声をかけた。
「おい杉野。」
「え?」
呼ばれた杉野がくるりと振り返る。
そのネクタイを引き寄せて、良平は軽く背伸びをして唇を奪った。
「!」
一瞬の出来事に、目を丸くするだけの杉野。
彼を見上げて、良平はいたずらっぽく笑った。
「消毒ね。いってらっしゃい。」
杉野の心を魅了して止まない魅惑の少年は、今日も、元気に笑っていられるようだ。