swan dive



 初めはホモの変態なのかと思った。少し話してみて、金持ちの変人なのだと思った。とはいえなんの仕事をしているのかいまいち分からないから、やくざだろうかと少し疑いもした。でも今は、仙人だろうかと疑っている。
 親の反対を押し切って進学した俺に実家からの仕送りはなく、安アパートでの生活を維持するためにバイトはなんだってした。大学に入学してしばらくは二つのバイトを掛け持ちしていたが、勉強の兼ね合いから深夜のコンビニをメインに時々短期のバイトを入れるようになった。
 大変だね、と着飾った女の子は言う。偉いね、と。言われるたびに俺は思う。親の望む道を行きたくないばかりに我を通している俺が本当に偉いのだろうかと。親父は俺に工場を手伝ってほしかったのだ。跡を継いでほしかったのだ。分かっていて、俺は家を出た。夢があったわけじゃない。やりたいことなどなかった。だからずっとうしろめたい気持ちがあるのだ。
 忙しくしていれば生活に対する苦悩はない。ただうしろめたさゆえにむなしさが乗算されていくのだ。疲労は生活に対するむなしさを忘れさせはしなかった。
 なにしてんだろう。そんな気持ちで日々を暮らしている時に、あの不思議な男に出会ったのだ。須藤恭一。名前までカッコイイ。
 田舎町ではちょっと浮いてしまうほど整った容姿をして、そのくせ性格は穏やかというかぼんやりというか。無職だというのに金に対する焦りもなく、生活感もまるでなく、世間に対する常識もあまりない。一体今までどうやって生きてきたのだろうか。金持ちのおばちゃんがパトロンでもしているのだろうか。それともやはり仙人なのだろうか。
 仙人だとしたら、その正体を問うことをしてはいけない。昔話でも、おとぎ話でも、正体を隠している人を暴いたらその物語は終わってしまうのだ。鶴も天女も空へ飛んでいってしまう。須藤さんが空を飛んだって俺は驚かないだろう。
 そして今、件の仙人さまは俺の目の前で恰好のよい目を瞬かせ、なにか言おうと開いた口を静かに閉めた。
「ダセェっしょ、このかっこ」
 店内にはクリスマスソングが流れ、俺はサンタの赤服を着ている。世間ではキラキラしいクリスマスイブが開催されているのだ。
「今日も働くんだ」
「予定ないっすもん」
「意外だな」
「そうでもないです」
 会計金額を伝え、金を受け取る合間に話す。須藤さんもクリスマスイブとは思えないほど普段通りで、ややもすると寝癖がついていたりで普段以上に気負いがない。
「この後も空いてんの?」
「お察しの通りですよ」
「じゃあメシ食おう」
「うぃっす」
 いつもの流れで予定を決める。釣りを受け取ると須藤さんはじゃあ後で、とさっさと店を出ていった。
 不思議なものだ。生活の中に他人が馴染んでいる。そして俺もまた相手の生活に入り込んでいる。お互いにお互いの素性をほとんど知らないのに、だ。
 実家を出てから彼女と別れ、友達付き合いも薄くなっていたから、こういう些細な交流が俺にもまだできるというのが嬉しい。
 時間になって上がるときに店長が残ったクリスマスケーキをくれた。こんなのは逆に面映ゆいだけだけど、ありがたく頂戴した。須藤さんはいつも通り店の前で待っている。寒いし中に入ってればいいのに、と以前言ったことがあったが「恥ずかしいから」と頑なに入ってこない。そんなに待ってないし、と重ねて言われてしまうと俺も無理強いするようなことは言えなくなってしまう。友達とも違う、バイト先の人とも違う、名付けがたい距離感が俺たちの間にはあった。
 店の扉を開け、須藤さんがこちらへ顔を向ける。自然と微笑むのがカッコイイ。
「ケーキ貰ったんでうちで食いません?」
「うち? 行っていいの?」
「いいっすよ別に。すっげぇ狭いですけど」
「うちも狭いよ」
「須藤さんちどこらへんですか?」
「あっちの方」
 漠然とした方へ指をさす。これは家を知られたくないのか天然なのか。多分天然なのだろう。三丁目だっけ? と俺に訊いてくる。どうやって生きてきたのか不思議に思うくらい色々なことに大雑把なひとだ。どこかの貴族か王族だと言われても納得してしまうだろう。
 帰り道に二十四時間営業のスーパーマーケットに立ち寄り酒と半額になったチキンをカゴへ入れる。須藤さんはキョロキョロと辺りを窺いつつ俺の後をついてくる。
「スーパーあんまり来ませんか」
「うん。コンビニのが近いから」
「安いっすよ、コンビニより」
「ほんとだ」
 カップ麺が百円以下なのに驚いている。俺にしてみればコンビニ価格のカップ麺など恐ろしくて手が出ないが。
「菓子なにが好きですか」
 振り返り問うと、須藤さんは壁一面の袋菓子の棚をぼんやり眺め、どれがおすすめ? と問いを投げ返してきた。須藤さんと話していると時々あることだ。なにが好きか、どれが一番か、なにが欲しいのか。訊いても須藤さんは答えない。俺に気を遣っているのか、俺に合わせてくれているのかとも考えたがそれ以前に、須藤さんは自分の好きも欲求も分かっていないようだった。重ねて問うても須藤さんは困ったように笑うから、俺は俺に問われた好きを答える。
「俺はピザポテト」
「じゃあそれにしよう」
 ピザポテトをカゴに放り込む。レジに並ぶ。読み上げの声とともに商品が機械の前を通過していく。なんとなく黙り込んでいると、須藤さんはあ、と小さく声を上げた。
「ライターあるかな」
 三つ隣のレジ前に、と言う店員の目線の先を追う。
「どんなのがいいですか」
「なんでもいいよ」
 ライターを一つ取ってレジに戻ると皿の上にはすでに札が置かれていた。ライターがレジを通り会計が読み上げられる。気休めに端数の三円だけ払う。
 割り勘にしようと言っても須藤さんは俺の方が大人だからと譲らない。申し訳ないと感じつつ、ありがたいと思う心もあるのだ。懐の苦しさゆえに疎遠になった友人たちは何人もいる。それに須藤さんも金だけが俺の関心を繋ぐ方法だと思いこんでいる節があった。そこまで見くびられているのか、と思いもしたが、須藤さんはそれしか知らないようだった。俺たちを繋ぐのは確かに金の力なのだ。けれど俺たちの間にあり続ける薄い膜の正体も金であることは間違いない。他人ではないけれど友達にもなれない。なのに俺はこの関係に居心地のよさを感じている。
 恥知らずとは俺のことか。うしろめたさから目を逸らし、鈍感を装っていればいずれそれが本当になる。きっとそのうちなにも感じないようになる。人を傷つけることに苦痛を感じなくなるはずだ。果たしてそんなことが有り得るだろうか。
 須藤さんはレジ袋の口を開けられずに手こずっていた。俺はそれを請け負う。レジ袋の口は開けられないスパイラルに入り込むとなかなか出てこられないのだ。すごいね、と須藤さんは言う。
「いつもやってますもん」
「袋に入れるのも早いよね」
「いつもやってますからー」
 商品を袋に詰めて店を出る。ケーキを須藤さんに持ってもらい、俺はスーパーで買ったものを自転車のカゴに入れた。晴れた夜空に月が明るい。静かだね、寒いねと俺たちは声を潜めて夜道を歩く。自転車を間に挟んだ距離が俺と須藤さんに適切な距離だった。
 歩く先にアパートが見えてくる。隣の須藤さんをちらりと窺い見ると築数十年は過ぎたアパートが殊更古ぼけて恥ずかしいものに見える。呼ぶんじゃなかったと今更な後悔をする。
「あれ、俺んち。ボロいっしょ」
「うちも同じようなもんだよ」
「そんなこと言ってオシャレなマンションに住んでんじゃないですか」
「全然。ワンルームのアパート」
「信じられないな」
 須藤さんが俺と同じようなところに住んでいるとは思えなかったがそもそも須藤さんに生活の気配自体がなかった。仙人のすみかを暴いて天に帰られても寂しい。自転車を留め部屋へ案内する。
 軋む床板の上にいる須藤さんがアンバランスに見えて笑ってしまう。この人ほんとにカッコイイんだなと改めて思う。そういえば寝癖が収まっている。風呂に入ったのだろうか。
 小さなテーブルの上にケーキとチキンを載せるとそれで一杯になった。缶チューハイを一本渡すと「俺酒弱いんだよな」と独白めいた告白をする。
「酔うとどうなるんですか」
「寝ちゃう」
「可愛いもんじゃないですか。いいですよ、寝ていって」
 言うと須藤さんは顔をしかめたようにする。怒らせたのかな、とは思わなかった。尖った唇が子供っぽくて、照れているんだろうと思った。
「橋本くんは?」
「俺? 酔っても変わらないっすよ」
「ずるいなぁ、そういうの」
 笑いながら乾杯する。男二人の侘びしいクリスマスに、と音頭をとったがそんな空気はまるでなかった。恋人同士からあぶれた者同士、というコメディは須藤さんには馴染まなかった。
「須藤さんはイブに予定なかったんですか」
「なかった。から、ラッキーだった」
 ラッキー。また馴染まぬことを言う。
「ラッキーですか」
「ラッキーだよ」
 なにが、とはあえて訊かなかった。世間知らずな彼が時々こぼす俺への親しみの情は俺が思うものとはきっと違うのだろう。受け取り方を間違えないように俺は一つ呼吸をおく。
「俺の方こそラッキーでした」
 須藤さんの目が流れてくる。缶チューハイを傾ける。
「お酒飲めるとは思ってなかったし」
 静かな微笑みを浮かべて須藤さんも缶チューハイを傾ける。彼との静かでゆっくりとした時間が好きだった。その時間に浸っている間は日常の自分を忘れられた。夢の中にいるみたいに、曖昧でやわらかい空気の感触をいつまでも味わっていたいと思った。
 チキンを食い、ケーキを食い、一頻りクリスマスっぽさを味わった後は食べきれなかったケーキを冷蔵庫へしまい、机の上にウィスキーを置いて飲みの体勢を整える。須藤さんは弱いと言うだけあってペースはゆっくりだった。
「須藤さんは欲しいものなんですか」
 酔いに浮ついた心で訊いてみる。きっと返答は、と立てた予想はその通り当たる。
「なんだろう……、ないなぁ」
 心の底からなにも望んでないように言う。酔って力の抜けた身体をベッドに背もたれて、気取りもなく、てらいもなく、この人には欲しいものがなにもないのだ。欲求がないということは恐ろしいことだと俺は思う。この人の足を土の上に留めおくものがなにもないということだ。
「愛が欲しい?」
 冗談めかして訊いてみる。他になんでもよかったが、他になんにも浮かばなかった。須藤さんは冗談に応えるように微かに笑んで、どこか遠くを見るようなおぼつかない眼差しで愛が欲しいとつぶやいた。
「抱きしめられたいなぁ、なんか」
 夢を語るような口振りで、諦めたように言う。どうしてたったそれだけのことを、空を飛びたいと言うのと同じように言うのだろう。そんなことは願望にもならない。すぐに叶えられることだ。力の抜けた身体を抱き寄せると、硬い骨の感触がした。須藤さんは腕の中で身体を縮めてなにも言わない。強ばった身体から伝わってくる緊張は俺の懐でなにか意味を持ち始めている。急に居たたまれないような気持ちになって腕の力を抜く。ほんの少し離れた距離に須藤さんは溜息のような息をついた。
「違った?」
「ち……、がわないけど、びっくりした」
 俯いたまま、須藤さんの髪の毛の隙間から見える耳は赤くなっている。俺もものすごく恥ずかしくなってくる。背中に回した手を浮かせ、もっと距離を離そうと身じろぐと須藤さんの手が弱い力で俺の服の裾を掴んでいるのに気づいた。
「あの、……もっと、ぎゅうって」
 尻すぼみに消えていった声を問い返しはせずに、俺はまた背中を押した。一体なぜ、酔っている、訳もなく、衝動で。頭の中の混乱と肉体で感じる男の身体の硬さとがチグハグだった。雲のような仙人のような、得体の知れない存在は俺の腕の中でただ一個の人間だった。服越しに伝わる体温と髪から香るシャンプーのにおいに気持ちは意識の外においた。須藤さんは肩口に頬を擦り寄せる。その仕草は猫がするように自然だった。俺は俺が分からなくなる。どうかしている。白々しく思いながら、抱きしめる腕に力を込めた。
「ごめん」
 どうして謝るのだろう。
 しばらく抱き合ったままでいた。徐々に力を抜いた腕をただ回しただけでいる。懐のうちに呼吸の音を聞いている。言葉になりそうな混迷がある。いつまでもこうしていたいような気持ちになる。
「ありがとう」
 身じろいで俺の腕から抜け出した須藤さんはいつものように捕らえどころのない口振りで言った。
「甘えちゃった」
 仙人の笑顔で冗談めかす。
「別に、これくらい」
 俺には俺のエゴがあった。形にならずに散った言葉は一体どこへ行くのだろう。須藤さんは酒を飲み日常のポーズへ戻っていく。ならって俺も酒を呷った。忘れていたピザポテトを開ける。
「橋本くんはなにが欲しい?」
 そんなこと、今はとても答えられそうにない。もう一杯とグラスを差し出すと須藤さんは水割りを作ってくれる。気づいてもいい。気づかなくてもいい。頭の片隅に浮かんだ言葉を水割りと一緒に飲み下す。須藤さんが酔って眠るまで、自分のペースも忘れて飲み続けていた。このまま夜が明けなければいいのにと、心のどこかで考えながら。



(11.12.20)
置場