ジギタリス



 時折雪の落ちる音に思い出される時間は零度に凍りついているようだった。駐車場の隅で大場はポケットに手を入れて立っていた。
「なにしてるの」
 問えば口を歪めるように笑う。薄氷のような笑い方だと思った。
「早く帰りなさい」
 雪を踏みしめて車に向かう。大場がこちらへ歩いてくるのには気付いていた。それでも鈍感を装いキーを回す。
「危ないから」
 傍らに立つ大場に言う。馬鹿げた感傷で大場を無視しきれない俺は大人になりきれていないのかもしれない。俺を見上げる大場の黒目はまっすぐに俺の目を覗く。寒さのために鼻先も頬も耳も赤らんでいた。伸ばされた指先も赤く染まっている。白くまだ少女のような幼さを残す指先の赤さにやましいものを見たような気になって目を逸らす。大場はかすかに笑ったようだった。
 冷たい指先が唇に当たる。俺はどうして唇を開けたのだろう。
 中指が舌を押す。それを避けるために舌をずらすと阻むように人差し指が添わされる。二本の指は冷え切って、氷のように舌に張り付くことはなかったがいつまでも冷たいままだった。冷たさを感じる部分が変わるたび、不随意に動く舌がどんな風に絡んでいるか想像し後ろめたさが募っていく。
「んっ、……あ」
 口蓋を指腹でくすぐられ寒気とは違う震えが背筋に走る。角度を変えた指先から俺の唾液が伝う。大場がひとつ踏み出したのを雪の潰れる音で知る。指を抜かれた瞬間に唇が重ねられた。冷やされた口内に大場の舌は熱く、鈍麻した感覚は移された熱に目覚めさせられる。
 時折雪の落ちる音を聞く以外は口づけと吐息の音だけがあった。いつまでそうしていたのかは分からない。身体を離すと大場は口の端を歪めるような酷薄な笑みを浮かべた。俺以外にもこんな顔をするのだろうか。頭の片隅に浮かんだ言葉を飲み込む。
「送ってよ」
 それまでの時間をまるでなかったかのように大場は言った。
「……乗って」
 助手席に乗り込んできた大場を家まで送る。道中言葉はなにもなかった。

 降り積もる雪は溶けることなく世界を凍らせたままだった。
 教室の扉はすべて閉め切られて、廊下は一層寒さを増しているようだった。白く曇った窓ガラスに、それでも外よりは暖かいのだとぼんやり思う。今までもこれからも、場所は変われど俺は毎朝こうやって廊下を歩くのだろう。果てしなく繰り返される日常のルーチンだ。アクアリウムの中を8の字に描いているのだろうか。同じ道を歩いている気さえする。
 けれど、この隔絶された空間が俺を作っている。俺を守っている。逸脱しないための檻なのだ。窮屈な安定の中で年老いていくことに安心さえしている。
 教室の扉を開ける。おはようと声をかければ散らばっていた生徒たちは銘々着席していく。雑然としていたものが綺麗に箱詰めされたようだ。四角い箱の中から開いた席を確認する。
「田中は?」
「遅刻するって」
「福沢は?」
「知らねー」
「あとはみんな元気?」
「元気ー」
 出欠の確認を済ませホームルームを始める。聞いているのかいないのか分からない生徒たちの中で、大場もまた彼らと同じように頬杖をつき携帯を操作していた。大場がこちらに目を向けることはない。
「以上。授業中は携帯仕舞えよー」
 簡単に済ませ教室を出る。今日は一限に授業がないから職員室へ戻る。慣れた溜息を吐いた瞬間に思い浮かべたのは窮屈そうに机に脚をしまった大場の姿だった。伸び始めた身体を机に押し込めて、退屈そうに教室に交じる姿はなにも珍しいものではない。今まで何人も見てきたし、きっとこれから先も何人も見ていくことだろう。
 職員室で雑務をこなす合間、口寂しさに飴玉を舐める。舌の上で定位置を探すように飴玉を弄ぶと甘さが舌に絡んで胃を重くする。
「禁煙、続いてるんですか」
 俺と同じように机に向かっていた物理の柏田教諭が背伸びの合間に問う。彼とは喫煙スペースで世間話をする仲だった。ええ、まあと気もなく答えると彼は面白そうに笑った。
「偉大な彼女をお持ちで」
「そんなんじゃないですよ」
「彼女のために止めたんじゃないんですか」
「自主的に」
「止めてもいいって思えるのも愛の力ですか」
「そんなんじゃないです」
「上手くいってるならなによりです」
 結婚も間近かな、と笑う。口の中で甘さが舌を焼いていく。
「まさか」
 呟きはチャイムの音にかき消された。

 初めて舌を交わしたとき、彼は煙草くさいと笑った。蝉の声と木々を揺らす風の音、遠くから部活に励む運動部の掛け声が聞こえる教室に、俺の心臓の音が混ざってうるさい夏だった。夏服から伸びる腕は少年の頼りないもので、縋りつきたい気持ちを抑えるにはそれだけで充分な理由になった。
「いいの?」
 なにを、と問うことはしなかった。なにもかも分かっていて、俺は拒むことも縋ることもしなかった。再び入り込んできた舌のざらつきに性感を逆立てられて、俺は逸らしていた目を閉じる。
 罪は明確な形で露わになっている。愚かな俺の欲望が腹のうちに燻っている。被害者になりたい。きっと大場は叶えてくれる。意気地のない俺の全部を引っ張り出してくれる。けれどそれは許されることではない。俺を守る水槽は逸脱を許しはしない。
「バカだな」
 耳に入り込む大場の声は優しくて、俺はなにもかも明け渡したくなる。汗に湿る肌に触れたかった。触れられなかった。涙が浮かんだのは昂ぶった性欲のためだった。大場がくれる慰めのような口づけが辛くて仕方なかった。俺は俺の汚さを知っている。

 夕日も出ないうちに暗んだ夜の駐車場に大場は立っている。昨日と同じようにコートのポケットに手を入れて、俺を見つけるとかすかに笑みを浮かべる。
「遅かったね」
 昨日と同じように歩み寄ってくる。人と車の行き交いで路面の雪はところどころ溶けていた。
「俺を待つな」
 車と車の間で、大場は俺を見上げ歳に似合わない笑みを作る。
「送ってよ」
 拒めない俺の弱さを知って、受け入れられない俺の臆病を知って、大場は懐に忍び込む。
「今日で最後だぞ」
 運転席と助手席で隣り合い、シートベルトをした後しばらくなにも言えなかった。暗い夜の中、車内灯の明度の低い明るさは暴いてはいけないものも暴き立てるほど明るく感じさせた。
「待ってるのは先生の方じゃない?」
 こちらを見もせず大場は言う。
「そんなわけないだろ」
 俺はハンドルを見たまま言う。自信を持てない言葉は意図せず声が籠った。大場に対する気持ちは感情よりも反射に近い。分かっているから、俺は大場から目を逸らし口を噤む。
「貴之」
 名前を呼ばれただけで心臓は痛いほど跳ねる。得体の知れない塊が身体中を暴れまわっているようだ。知らず震える身体を押さえ込もうとすると泣きたくなるほど感情の行き場がなくなっていることに気付く。
「卒業したら俺あんたに酷いことするけど」
 運転席まで身を乗り出した大場の身体に残る冷気が頬を冷やす。一体どれだけの時間外で待っていたのだろう。
「怖い? それとも」
 冷えて赤く染まる指先が目尻を拭う。その手を握ると冷たさがてのひらに移っていく。目尻や頬に落ちる大場の唇は俺の全部をほぐしていくようだった。ダメなんだ。いけないんだ。甘やかされると全部差し出してしまいたくなる。俺の卑怯も欲望もなにもかも見透かされているような気になって、それが許されているような気になって、まだ幼い彼になにもかも任せてしまいたくなる。なにも知らない彼の未来を全部俺のものにしたくなる。
 髪を梳く手が背中に流れ、自然と抱き寄せられる形になった。背中を押されるまま薄い胸に額を擦り付ける。慰めるてのひらは懐に抱えているものの醜悪に気付いているのだろうか。
「もう少しだけ」
 このままでいてほしい。待っていてほしい。飲み込んだ言葉を肯定するようにてのひらに力が籠る。狭い車内は脆弱なコスモであった。星明りの下、俺を許す自由であった。大場の鼓動だけを聴いている。早く春になればいい。春になればきっと、もっと上手くやれるはずだ。



(12.2.4)
置場