ロータス



 白い防火カーテンが揺れる狭間に青空は厚い雲を浮かべてあった。吹き抜けていく風に汗が冷えて心地いい。七月もじきに終わろうとしている。
 運動部の掛け声と蝉の鳴き声が夏の湿度に交じる。頬杖をつくとてのひらと頬との間に汗をかいた。ふいに思い出されるのは一年前。
「この部屋クーラーないんですか」
 声に驚いて振り返ると、大場が一年前と同じように呆れたように顔を出した。
 丁度一年前。二年だった大場が突然社会科準備室を訪ねてきたのだ。担任とはいえほとんど接点のなかったにも拘らず。俺はあの時、なんと答えただろうか。
「……クーラー、苦手なんだ」
「職員室効きすぎですもんね」
 そう言って俺のもとへ近付いてくる。三年になってから大場が俺を訪ねてくるのは初めてだった。以前のように唐突に待ち伏せをすることもない。正しい教師と生徒の関係に戻ったはずだった。
 大場が他校の女生徒と付き合っている。五月に聞こえた噂に俺は安堵したはずだった。思春期の惑乱が覚めて俺への感情も消え去ったのだと思った。大場が俺を待つことも、奪うこともしないのだと安心したはずだった。
 約半年間、俺は戸惑いと不安を押し殺してきたのだ。顔色を変えぬ大場を窺い続け、彼の気に触れないように息を殺し、大場がするように俺もまた無関心を装い続けた。ようやく慣れたはずだった。静まり返った湖面に投げ込まれた石が水底へ沈み、立てた波紋も消えていった。はずだった。
「変な顔」
 座ったままの俺を見降ろす大場の顔は以前よりほんの少し大人びて見えた。その理由は、と考える間もなく脳裏に浮かんだセーラー服を慌てて打ち消す。知りたくない考えたくない、その理由すら俺は考えたくない。
「……なんの用?」
「別に」
 理由もなく降りてくる顔を拒むこともしないで俺は大場の唇を受け止める。なぜ、と思うより先に後ろ暗い充溢に胸が張り裂けそうだった。
 触れ合うだけの口づけは近付いた体温に煽られ深くなる。欲望は背筋を伝う汗の軌道に乗って落ちていった。大場の手は背もたれから浮いた俺の背を押し、俺は大場の肩を抱き寄せる。いけないと分かっているはずなのに、許される範囲を自ら広げていく。まだ大丈夫、と疑念を持たぬよう、気付かぬよう信じ込むように俺は大場の熱に陶酔する。なにも考えないように、うごめく舌先に絡まって雁字搦めの俺を解いていく。俺はバカだ。
 唇が離れると二人の間を風が通り抜けていく。不意に寒さを感じ肌が粟立った。大場の顔を見るのが恐ろしくて、俺は顔を上げずに白いカッターシャツの胸元ばかり見ていた。
「先生のそういう顔堪らなくなる」
「どんな顔だよ」
「そういう」
 頬に添えられた手に促されるように顔を上げれば大場の苦悩に満ちた顔がある。俺だってそんな顔を見るのは辛い。俯けない顔をそのままに目を背ける。
「今はまだ助けてやれないけど」
 大場の手が頬から首筋へ下りていく。性感を高められた肌は些細な刺激も拾い上げる。線状の快楽が鎖骨の上で止まった。開襟したワイシャツのボタンに指先を阻まれてその先へは行かない。
「下になんか着たら?」
「えっ?」
「乳首浮いてる」
「は? ……なっ」
 突然大場の頭が胸元に埋まった。と思う間もなく大場の言う箇所に口腔の熱を感じた。
「待て、……あっ!」
 心臓の上に歯を立てられ、右側は指先が触れる。直接触られているわけでもないのに固体のような性刺激が身体を貫いていく。繊維をひっかくような爪の動きにツンとした信号が走る。拒みもしないで身を固めて、湿らされていく胸元に熱さと冷たさを感じた。肌に張り付いたワイシャツは大場の舌の感触をダイレクトに伝えてくる。尖ったり、面になったり側面になったりする。息を詰め両胸の刺激を甘受している。誤魔化しはもう立ち行かないところまできている。
「大場……、ダメだ」
「ほんとに?」
「俺のほんとはどうでもいいんだよ」
 身体を離した大場は歳に似合わない仕草で溜息をついた。こんな溜息を重ねて大人になっていくのだ。俺だってそうだった。壁もなく健やかな関係を築くにはこんなことをするべきではないし、壁にぶつかるのが嫌なら壁のない所へ行けばいいだけのことだ。感情を排除すれば答えは簡単に出る。青々と生える若芽が歪に育つのを恐れながら、俺は日陰から青さをこうているのだ。
 外光のまぶしさが部屋を暗んで見せた。カーテンは揺れるたび白さを部屋に波打たせている。不規則な曳光がまぶたの裏に焼き付いて、意識もなく瞬きをゆっくりにする。目の奥に感じた痛みはいずれ頭痛を引き起こすだろう。
「先生のほんとも俺のほんとも一緒なのにね」
 独り言のように言葉を落とし、大場は大人の笑い方をした。俺は堪らなかった。頭を胸に抱えられ、子供にするように背中を撫でられた。俺は泣いてはいなかった。笑ってもいなかった。光の影が焼きついた目裏が痛かった。肉体に残る汚れた火種を持て余している。吐いた息に熱が籠って俺は己の不潔さを嫌った。恥辱に火照る頬を大場の肉の落ち始めた手が触れる。冷たさがいつまでも肌に馴染まなければいいと思った。
「少しだけ、ずるしよう」
 誰も見てないよ、と大場は言った。俺は両腕に肩を抱いた。
「なにもしなくていいよ。怖いだろ」
 怖い。怖くて仕方がない。身の破滅よりももっと、大場が罪を背負ってしまうことが怖かった。俺の保身のために、大場はタブーを乗り越えて自ら加害者になろうとしている。俺は本当はどうだっていいのだ。自分がどうなろうが、明日がどうなろうが。ただ大場が負った俺を降ろせなくなることが怖かった。俺が大場を離せなくなるのが怖かった。飽きたらなかったことにしていいのだ。嫌になったら目を逸らせばいいのだ。気の迷いと気付いたときに、なにもかも後に残さないようにしなければいけないのだ。
 ワイシャツの皺を伸ばすように身体の上を這う手に煽られて心拍数は速さを増した。俺は大場の肩に顔を埋めて欺瞞をやる。首筋にかおる汗のにおいに言い知れぬ猛りが身内を貫いた。俺は目を閉ざす。口を閉ざす。一番卑怯な俺をやる。手に握った大場のシャツが汗に湿って熱を持った。
「くっ……、ん」
 スラックス越しに握りこまれ脊椎はS字を描いた。高まりきった熱は逃げず大場の手の内に更に育つ。俺はなにも見ていない。そんな嘘がいつまで通用するのか。はずがないって分かっている。ベルトを開けられヘソの下の素肌を指先が触れて、俺は大場の手を押しとどめていた。怖い。今更。今更どんなおためごかしが通用するというのだ。怖い。本当は、男の身体を見られるのが嫌だった。概念上の感情が血の通った欲望に獣性を見出したとき、大場の熱が覚めてしまうのではないか。机上に膨らむ空想は美しく、現実はいつも色褪せているのだ。
『先生俺のこと好きなの?』
 丁度一年前、大場が高飛車に言ったことは真実だった。俺の行き過ぎた執着と眼差しに大場は応えたにすぎない。未成熟な感情に刷り込みを行ったのだ。ゲームのように、あるいは慈善のように、形を変える大場の関心が尽きないように、俺は俺が嫌う俺をやってきたのだ。意味もないのに意味深げに、なにもないのになにかある風に、大人ぶって分かった顔をし続けたのだ。大場を求めれば求めるほど俺は俺自身のなにもなさに気付かされた。打ちのめされた。罪悪感だけ育っていった。俺は大場が好きでたまらなかった。
「脱ぎたくない?」
 幼い子供に問うような甘く優しい声だった。熱に浮かされた頭にも理解できるようにしてくれたのだろうか。俺は素直に頷いた。
「パンツ汚れちゃうよ」
 下着の上から感じる大場の手指の形に息を詰める。熱を宥めるようにかすかに撫でられると余計に脈打った。大場にしがみつく身体が震える。腕に力の感覚がなくてきつく抱きしめた。
「いいからっ……!」
 腰を抱かれ脈動に震える熱源を擦りあげられ喉から高音を伴って息が出た。大場の頭が首筋に埋まる。鎖骨の上の皮膚を吸い上げられた瞬間に俺は熱を放っていた。震える身体は大場の腕の中にあった。できたばかりの鬱血の上を舌が這う。全身に汗をかいていた。
「着替えある?」
「シャツしかない」
「パンツ買ってくるし」
 笑いを噛み含んだ大場はよく知ったような、知らないような顔をしている。虚脱した身体に日常の感覚が戻ってくると羞恥だか居た堪れなさだか分からない居心地の悪さを感じた。
「頼む」
 さり気なさは装いきれていなかったかもしれない。
 身体を離すとスピーカーが息を吹き返したかのようにプツリと繋がる音がした。
『村上先生、至急職員室まで……』
「……最悪だ」
「すぐ終わる?」
「会議」
「あらら」
「待たなくていいからな」
 すぐさまワイシャツを替えて顔を洗い職員室へ飛び込んだ。赤い目を見て柏田教諭は寝てました? と小声でからかった。俺は心許ないズボンの下に意識を奪われ上の空だった。
 居心地の悪い会議を終えて戻ると大場は日陰で参考書を眺めていた。おかえりと俺を迎える。
「パンツ、買ってきたけど乾いちゃったよ」
「洗ったのか」
「天気いいね」
 確かに急いでいたからトイレで着替えたワイシャツにパンツも包んで投げ出していったが、まさか洗われるとは思わなかった。大場が言うように晴れ渡った夏の天気なら下着程度すぐに乾いてしまうだろうが。それにしたって情けない。
 二つの下着を受け取ってトイレで着替える。なんとなく大場が洗ったものは穿きづらくて新しいものを開封した。どっち穿いてるの、という大場の質問には答えなかった。
「勉強頑張ってるんだな」
 開き癖がついてくたくたになった参考書に目をやれば大場は結構、と短く答えた。
「明日から予備校の集中講座始まるし」
「今の志望校なら大丈夫だろ」
「ん。もうちょっとレベル上げようかなって」
「どこ?」
「まだなんとなくだけど」
 そう言って大場は二校の名前を挙げる。うちの学校のレベルだと少し驚くクラスの学校だ。元々悪くなかった大場の成績は今年に入って更に良くなっている。とはいえ大場が言う大学の受験レベルにうちの学校の授業が間に合うとは思えない。
「大変だろ」
「うん。でも、頑張ろうと思って」
 大人のような、子供のような、大場の顔に見据えられなぜだか頬が熱ばんだ。大場の頑張りの理由の中に俺も含まれているのではないかと期待してしまう。浮ついた心に幾つかの重しが落ちる。
「まあ程々に遊べよ。彼女とか……、寂しがるだろ」
 想像上のセーラー服と並ぶ大場を頭に描き、すぐさま暗んだ気持ちになる。正しく健全な不健全交遊を大人として喜ぶべきなのに、胸が締め付けられるほど苦しかった。
「はっ? それシゲオが言ってるやつ? あれデマだよ」
 簡単に言われて簡単に緊張が解けてしまう。俺のバカみたいな顔を見て大場は笑う。
「それであんな顔してたの?」
 俺の内心の不安や葛藤を見通してしまったのか余裕含みの声音に恥ずかしさが募る。
「どんな顔だよ」
 大場はなにも言わなかった。ただ黙って微笑んで、俺の頬をゆるく抓っただけだった。たったそれだけの仕草で不信も苦悩も消え失せていく。俺は俺の見ている大場を信じようと思った。大場は俺のために歪んだりはしない。もっと力強く伸びていくのだ。
「俺、頑張るから」
 それは未来への誓いのようだった。うしろめたさよりもなによりも、大場が言葉の裏に含む未来を俺はただ信じたかった。頷くと大場は触れるだけのキスをした。日陰に揺れるカーテンは水面を浮かぶ花のように目の端を漂っている。切り取られた空の冴えた青さに夏雲が浮かぶ。夏に生まれた秘密は夏に育ち、俺たちは少しだけずるをする。夏休みの短いモラトリアムに許されて、わけもなく純粋になっていくのだ。





(12.3.21)
置場