セクスマシン
(7)



 家を出たのは衝動でもなんでもなく、あらかじめ定められていたことのように思う。財布と普段使っている鞄だけ持って、普段と変わらぬ様子で家を出ようとする八尋に、母親は絶縁状態の叔父の東京の住所を書いたメモを渡した。
 親子の今生の別れの場面にしてはあまりにも素気ないものだった。折りたたんで小さくなった紙切れは、もう二度と戻ってこなくていいという表現にも思えたし、当てがないならここへ行きなさいという母心にも思えた。
 家の中でタブー視されていた叔父のことをほとんど覚えてはいない。古びた家族写真の中に亡霊のように写っている叔父は学生服を着ていて、秀麗な顔立ちをしていた。祖母が父に対し八尋のことをいう時、あの子に似ていると眉を顰める理由はそこから窺い知れなかった。

 プラグと鞭の狭間狭間に思い出される過去になんら錯誤はみられない。忘れていないのだろう。
「随分余裕みたいだ」
 挿入でもしているかのように上擦った息をして松木が言う。
「ああ、案外余裕みたいだ」
 平静を装いながら八尋は答える。本当は、痛くて堪らなかった。風を切る音のあと訪れる投擲は肉を叩き壊す作業を思わせた。鋭い痛みのあとにじわりと広がる熱は皮膚の下で血が滲んでいる証しだろうか、とつれづれに考える。こんな時、Mだったらどんな反応をするだろう、と不意に浮かんだ瞬間に忘れていたことを思い出す。思い出す必要のないことだ。
 八尋の知らぬ時代の家族写真の中で口辺に薄く笑みを浮かべた男と、名前も呼ばれず記号化されたMという男。その二つの顔がまったく同じであること、なんらの齟齬もないことを八尋は知っていた。叔父の死とMの死は少しの違いもない同一のものであるという前提が崩れている。たった一人の人生が二つに分かれている。それは素敵なことか。素晴らしいことか。生きている人間の人生を歪めるほどに価値あるものなのか。
「そろそろ仕舞いを決めようぜ」
「……」
「あんたも気付いてんだろ、こんなことに意味がないって」
「……」
「あんたバカだね、俺を好きになったってMに好かれるわけじゃないんだ。俺がMになるわけじゃないんだ。よしんば同じ状態を手に入れたってそれは本当じゃないって分かってんだろ」
 荒んでいた息が落ち着いていくのと同じくして気持ちも一定の状態へ戻っていく。ごっこ遊びは飽きたらそれまで。シラフの状態ではなりきるのだって難しい。

 あなたたちは双子みたいにそっくりだよ。
 あいつの真似だけはしないでくれよ。
 おまえたち兄弟はお父さんたちとよく似ている。
 きみは兄さんの生き写しだね。

 ――一体、呪いだろうか。
 皆が皆、八尋とMと呼ばれた男を同一視する。唯一しなかったのは当のM本人で、Mは八尋に実兄の影を求めた。
それならば、俺は誰になればいいのだ。
馬鹿馬鹿しいクエスチョンに身体は冷えていく。

「さぁ、どうしたい?」

 冷たいシャワーを浴びた。湯では熱を持った投擲跡に染みるのだ。冷たい水で火照った痛みを冷やす必要があった。
 松木は答えを出さなかった。ただ黙って鞭を振るう手を納めたのだ。理由は考えるまでもない。松木自身、答えを見出していないのだろう。松木の執着はMにある。セックス狂いの叔父は被虐に耽り肉欲に精神をも捧げたようにみせて狂いきれない人だった。人生のほとんどを性に費やし、欲しいものは最後まで手に入れられなかった。Mが本当にただの色気違いであったなら自ら命を絶つことはなかったのだ。
 肌を滑る流水は頭から爪先へ向かいながら温められ冷えた身体をわずかに温める。

 電話番号を知らなかったから渡された住所へ直接訪ねていった。叔父を当てにしていたわけではなく、仕事が決まり金ができるまでの間だけでも住まわせてもらえたら、と思ったのだ。叔父にどうにかしてもらおうとは思っていなかった。
 表札の出ていないマンションの扉の前で逡巡したのは一瞬だけで、一か八かとベルを押した。一度では応えはなく、けれど在宅している気配があったから二度三度とベルを押した。扉を開けて現れたのは八尋の知らない男だった。叔父の友人、と思うには年嵩に見える男は八尋を見て「どちら?」と短く問うた。
「大島真崎はこちらに在宅しているでしょうか。俺……、私は大島の甥で」
 男の様子に半ば諦めつつ八尋は言葉を取り繕う。頭の中では手持ちの金と今日の寝床の算段を始めていた。
 男は値踏みするように八尋を一度眺め、「いるよ」と低く答え鉄の扉を広く開けた。どうぞ、と促され八尋はもう一度知らない男を眺めた。
「須原です。君は?」
「大島八尋です。いきなり訪ねてすみませんでした。……あの、ここは大島の家でいいのでしょうか。不都合でしたら大島に電話して再度出直しますが」
「わざわざ必要ないよ。真崎は奥にいるんだから」
 背中を押され室内に入ると扉を閉められてしまう。八尋はしばらく玄関に立ち尽くしたまま動けなかった。須原と名乗った男の素性が分からず戸惑っていたのだ。そんな八尋に須原は少し考える仕草をする。
「そうだな、ここは真崎の家でもあるし僕の家でもある。一緒に暮らしてるんだ」
「そしたらご迷惑でしょうから……」
「君は? 家出? 他にあてはある?」
 須原の強引な口ぶりに八尋はわずかに閉口した。
「あてはありませんが多少持ち合わせているので一晩くらいどうにでも……」
「家出ならお金は大事にした方がいいよ。僕は構わない。いくらか貯めるまでここで暮らしたらいいよ」
「でも」
 あなたが良くても叔父はどう言うか、という不安は口に出す前に無意味なのだろうと直感された。須原の確信的な物言いは彼がこの家の主であることを窺わせた。
「おいで。真崎は奥にいるよ」
 リビングを通り抜け須原はノックもせずに奥の扉に手を掛けた。その慣れた手つきに八尋はやはり叔父に挨拶をしたら辞そうとぼんやり思った。須原が作るこの家のルールに慣れそうになかった。
 須原はドアノブに手を掛けたまま一度八尋を振り返った。つられるように八尋も目を合わせたが、須原はなにも言わなかった。ただ口辺に陰湿な笑みを浮かべただけだ。
 開いたドアから湿った空気と覚えのある臭いが噴き出してきた。

 思えばあの扉が開いたことから今日までのすべてのことは決定付けられたのかもしれない。薄く目を開く。いつ布団に入ったか覚えていなかったが一人の布団は冷えて心地よかった。誰もいない静けさに八尋はもう一度目を閉じる。きっとまた嫌な夢を見るだろうと予感しながら。

 扉から吹き出す生ぬるい臭気に思わず鼻を押さえてしまう。須原に促され入った寝室には裸の男がいた。ベッドの上で脚を広げるように縛り付けられ、目隠しをされている。記憶の中の秀麗な叔父の顔を思い出して八尋は眉を顰めた。須原を見遣れば口元に人差し指を置いて声を出さぬよう仕草で指示される。言われるまでもなく八尋に言うべき言葉はなかった。
 裸の真崎は四肢を戒められたまま熱に浮かされたように身悶えている。形のいい口元には須原のものと思われる精をこびりつかせたまま、腫れあがった陰茎も黒いベルトで締め付けられている。その下のアヌスに張り型が刺さっているのも見て取れた。なんとなく思い描いていた二人の関係よりもいささか刺激的すぎるものの、考えていたことが大きく違わないことに落胆のような気持ちを抱く。写真で見ていた姿や人の口に上る叔父の人柄も、アブノーマルなセックスの前では脆くも崩れていった。ただ眼前に現実の卑小があるだけだった。
「待たせたね、真崎」
 須原が声をかけると叔父は小さく身を震わせた。拘束された陰茎の先から先走りが垂れる。期待しているのだ。
「いい子にしていたからご褒美をあげよう」
 なにが欲しい? と須原は真崎の耳元に声を忍ばせる。真崎は声の主に擦り寄るように須原の肩口に頬を寄せ、中にくださいと声を掠れさせた。
「なにを?」
「ちんぽ」
 須原はちらりと八尋を窺い微笑みを浮かべる。ああなんて馬鹿らしいんだろう。入口に立ち尽くしたまま二人の交情を眺めていた。馬鹿馬鹿しいセックスが眼前で繰り広げられている。脚を開き腰を遣い、汗にまみれ精を垂らす。獣のように剥き出しの性行為はしかし、男同士で暴力的な支配をもってされるだけで人間的で本能を逸脱したものと思える。
「あっあっあっ……、いいっ、あ、そこ……」
 叔父の高い声を聞きながら、八尋は目を逸らさずにいた。須原は真崎を起こし挿入したまま背面座位の形をとる。真崎の恥部をすべて見せようという意図が感じられた。
「君は不能なのかい」
 真崎を犯しながら須原は八尋に問うた。沈黙の禁が解かれたのだ。
「いいえ」
 二人きりの場に無理矢理引き込まれた不快に八尋は眉を顰めた。声に驚いたのは真崎だ。
「なに、だれ」
「知っている人だよ」
 須原は優しく真崎に言い目隠しを外す。叔父はもう一度だれ、と問うた。
「大島八尋です」
「あっ……!」
 快楽にとろけた叔父の顔が一瞬強張ったのは八尋の見間違いだったのかもしれない。すぐに須原に腰を遣われそちらに意識を引き戻されたように喉を晒し息を詰めた。
「話があるから早く終わらせようか」
 陰茎に嵌められた拘束も外し須原は腰の突き上げとともに腫れあがったペニスを擦りたてる。
「ほら、とても嫌そうな顔で見ているよ」
「あっあっ、いく、いくっ……も、うっ!」
 高い悲鳴を上げて真崎は精を放った。須原が逐情に締まる横溢を使い欲を満たして行為は終わった。八尋は立ったまま一部始終を眺めていた。頽れた真崎を余所に須原は身支度を整え八尋に笑みを向ける。
「君、面白いね」
 八尋はなにも面白くはなかった。ただ汚いと思っただけだ。真崎に対してか須原に対してか、はたまたセックス自体にか。明確な対象も分からないまま浮かんだ生理的な嫌悪感に目を逸らさずにいただけだった。
 身じろいだ真崎に須原は簡単に八尋の事情を説明した。しばらくここに住んでもらおうと思うんだけど、と言った須原に真崎は分かったと答えた。
「あなたがいいなら俺は構わない」
 なにも考えていないような、投げやりな口ぶりだと八尋は思った。
 三人で暮らし始めてすぐに八尋はバイトを決めた。夜家にいないためにキャバクラのボーイを選んだ。それでも仕事明けや休みの日には須原に二人の寝室へ呼ばれた。真崎とのセックスを見ているように言うのだ。それがこの家で暮らす条件なのだろうと八尋は須原が辞していいと言うまで二人のセックスを眺めていた。時には須原から縄の扱い方や鞭の振るい方をレクチャーされることもあったが、それがこの家で暮らすルールならばと情熱もなく言われた通りにするだけだった。
「試してみるかい?」
 酷使され開いた真崎のアナルを示して須原は言った。須原の精に汚されたそこは腫れて赤い内臓を覗かせている。
「いいえ」
 八尋の初めての拒絶に須原が食い下がることはなかった。初めから本気ではなかったのだ。

 三人での生活はなれることなくぎこちないまま続いた。須原は毎日家に帰ってくるわけではなく、八尋が真崎と話すことはほとんどなかった。二人揃って朝は眠り、須原がいない夜は真崎も家を出て行った。水よりも濃い血は二人の関係を不自由にしていたのだろう。赤の他人がかすがいにならなければ立ち行かないほどに、互いの間に共通の言葉はなかった。
 須原に無理矢理出されたショーで真崎を責めるよう言われたときも、八尋は真崎が断るだろうと思っていたのだ。しかし真崎は従順に須原の言を受け入れた。無関心はそこまで徹底していたのだ。
 軽蔑という言葉を感情に当てはめたくはなかった。肉親であるということ、知らずに築いてきた真崎という偶像が崩れ去ること、目の前の男がただ肉欲を貪るのみの豚であること、すべてを認めたくはなかった。
 赤いライトの中で須原に教えられた手口で責め立てると真崎は嬌声を放った。何をしても、酷くしても、真崎は悦んで甘受した。ぶっ殺してやる、その一念だけで鞭を振るった。軽蔑を認めるよりそれは穏やかな感情だと思えた。
 暴力的な手管で息を荒げる一方で、真崎の声音は感極まっていった。ライトの熱に浮かんだ汗は眼球の上を通って落ちた。舞台の上は死刑執行台のようだった。暗んだ舞台の外に複数の目が潜んでいるにも関わらず、板の上では真崎と二人きりの世界に放り出されたように感じられた。
 真崎を打ち据える八尋は執行者のはずであるのに、白い肌を打ち裂いていくほど己が虐げられているように感じた。真崎に苦痛はないのだ。奥歯を食い締めるのは八尋だけで、真崎には快楽が全部だった。行動と表情はまるで逆転していた。血の滲む肌を叩き足蹴にするのは自分自身であるはずなのに、その足の下にあるのもまた己自身のように思われるのだ。
 ライトに切り取られた狂騒の中で、八尋は果てもない肉欲に抗し続けた。真崎はもはや人ではなく、概念を体現するオブジェクトにすぎなかった。煌々と照るライトが消え腕を引かれて強制的に舞台を下ろされるまで八尋が挑み続けたものはついに壊れることはなかったのである。
 気絶した真崎と同じ控室で八尋もまた虚脱状態だった。須原は興奮に息を荒げ、熱ばんだ手で八尋の肩を抱いた。体温は不快なだけで、八尋は鈍感を装うことで須原の興奮も熱も無視をした。
 それ以降、須原は八尋に対する指導に熱を入れていった。寝室には真崎以外の男がいることもあった。男の肉体を支配する手管を熱心にレクチャーしながら、須原は度々八尋に同性のセックスを持ちかけた。その度に八尋は真崎を拒んだ時のように短い言葉で断り続けた。

 金を貯めたら出て行こう、と思いながら生活を続けるうち嫌悪にも慣れ、異常なことすら日常になれてしまった。漠然と歳を一つ重ね、なんとなくで先送りしている普通の生活を考えだした頃、それは唐突に現実味を帯びた。
「仕事の都合でね、しばらくは帰ってこられないだろう」
 須原が表の仕事で国外へ行くという。八尋が考えたのはこれからの生活だった。銀行口座に貯まり続ける貯蓄から須原も真崎もいない生活を引いて出した答えについて考えた。
「なに、君たちはここでそのまま暮らしたらいいよ。ちゃんと頼んでおくから。真崎のことだけお願いしていいかな」
 家を出る算段をしている矢先に言われ、逃げられないのだと悟った。生活力のない真崎のことだ、一人では生きていかれないだろう。しかし、須原という他人がいなければ八尋と真崎は他人よりも関わり合いのない関係であったから、真崎も他の誰かを頼るか一人で生きていくかするだろう。いずれにしても叔父と甥との生活は間もなく空中分解していくのだろうと思われた。
 須原は家を出る日に八尋に連絡先の書かれたメモを握らせた。それですべてを理解した。須原は真崎を捨てるのだと。
「新しい犬小屋に子犬を飼う算段でもしていたのか?」
 冷然と口辺を歪めた真崎がなにもかも気付いていることも。



/続く

(13.4.16)
置場