Last Fight 2 同盟軍本拠地の屋上は知る人ぞ知る最高の眺めの場所である。 シーナは大きく伸びをすると、身を乗り出して湖の向こうへと視線を向けた。今日は雲一つない青天で、暖かな太陽の光が湖面に反射して眩しいほどだった。頬に感じる風も心地よくて、何とも贅沢な昼下がりである。 シーナは石造りの壁に背をつけてその場に座ると、ポケットの中から煙草を取り出した。風で何度も失敗しながらも何とか火をつけて、口をつけてみる。 苦味のある煙を味わって、大きく息を吐き出した。 昔、面白半分に覚えた煙草だったけれど、あまり好きになれなくてすぐにやめた。昨日、知り合いの男からたまたま貰ったので、久しぶりに吸ってみようかなと思ったのだ。 部屋で吸うと絶対にハンフリーに怒られると思ったので、こうして屋上までやってきた。 これではまるで親の目を盗んで悪さをする子供のようだ、と自分でもおかしくなる。 「あー、前方に不良発見!」 一瞬やばいと思ったシーナだったが、そこにいるのが同盟軍の若きリーダーであるディランだと知ると、なぁんだと肩の力を抜いた。 「シーナ、煙草なんて吸うんだ、知らなかったなぁ」 ディランはシーナの隣に座ると、その指から煙草を掠め取って、一口吸った。あまりに堂に入った吸いっぷりに、シーナはあっけにとられた。 「お前、まさか前からやってんじゃないだろうな」 慌ててディランの手から煙草を取り返して、シーナが言うと、 「やってないよ。でもほら、面白がって吸わせてくれる人がここにはいっぱいいるからさ」 「………ったく、シュウが知ったら激怒りだぞ」 「へへ、内緒にしておいてくれよな」 ディランはあどけない笑みを見せて、飲む?と小さなボトルに入った水をシーナに見せた。まさか酒じゃないだろうな、と疑うシーナに違う違うと笑うディラン。 ディランはシーナと歳が近いこともあって、普段からけっこうよく話をする仲だった。同盟軍の盟主としてではなく、ただの友達として、シーナはディランのことを気に入っていた。ディランもまた、難しいことなど何も考えずに馬鹿な話ができるシーナのことは気に入っていた。 「気持ちいいなぁ、いい天気だし」 空を見上げて、ディランがしみじみとつぶやく。歳寄りじみた口調にシーナが吹き出す。 「ジジくせぇな、何だよ、サボりにきたのか?」 「まぁそんなとこかな。シーナは?もう身体の調子はいいの?」 「……お前、聞きにくいことをはっきり聞くよな」 少々呆れ気味にシーナが言うと、今さら、とディランは肩をすくめた。 シーナとアップルが盗賊たちに襲われたのは10日ほど前のこと。その時の傷はもうほとんど治っていた。腕の傷は跡が少し残りそうだけれど、別にどうってことはない。 「あの時、お前も助けに来てくれたんだってな、ありがとな」 「当然だろ」 盗賊たちを探しに行ったのは傭兵たちだけではなく、ディランも率先してシーナたちのことを探しに行ったのだと、あとで聞いた。だから、当然ディランもシーナの身に何があったかは知っているわけで、今さらそのことを恥ずかしく思ったりすることはないけれど、まさかここまで普通に尋ねられるとも思っていなかったのだ。 あっけらかんとしたディランの態度はいっそ潔く、だからこそシーナも気負うことなく自分をさらけだすことができる。 「あいつら下手くそでさ、もうめちゃくちゃにされたよ」 「さすがのシーナも耐えられないってわけか。でも無事でよかったよ」 「まぁな。悪運強し」 へらりと笑って、シーナはディランが持ってきていた水を一口飲んだ。悪運でもいいに超したことはないよ、とディランがしたり顔でうなづく。そりゃそうだ、とシーナも笑う。 しばらく二人して心地良い風に吹かれていると、ふいにディランが口を開いた。 「………ハンフリーさんて、どうしてる?」 「どう……って?」 「様子がおかしいとか、そういうこと、ない?」 ディランが何を言いたいのか分からず、シーナは眉をしかめた。 数日前にようやく医務室から解放されたシーナは自分の部屋へ戻り、いつも通りハンフリーと寝起きを共にするようになった。 最初は少しばかり気まずい感じもしたけれど、シーナ自身、いつまでも終わったことに拘る性格でもなかったので、何事もなかったようにハンフリーには接しているつもりだった。 ハンフリーも表面上は何事もなかったようにシーナに対していた。けれど、微妙に何かが違うと感じていた。話す言葉も、交わす視線も同じなのに、けれど何がか違う。 ある夜、それが何なのかに気づいた。 ハンフリーはシーナに触れようとはしないのだ。 意識してそうしている。一つのベッドの中にいながら、あれ以来、ハンフリーはシーナのことを抱こうとはしない。 それはシーナにとって何よりも辛いことだった。 ハンフリーが抱こうとしない理由は一つしか考えられなかったからだ。 はーっと大げさに溜息をついて、シーナがお悩み相談室よろしくディランに胸の内を打ち明ける。 「ハンフリー、俺にぜんぜん触ろうとしないだよなぁ。あれかなぁ、やっぱり知らない男にヤられちゃったから、触るのが嫌だとかさ、そういうことなのかなぁ」 「…………」 生々しい話になってきたな、とディランは困ったように頭をかいた。 「あのさぁ、いたいけな青少年に、そういう話しないで欲しいんだけど」 「けっ、よく言うよ。お前だって適当に遊んでるくせに」 シーナが呆れたようにディランを小突く。シーナに比べればまだまだ、などとふざけてみせるディランだが、すぐに真面目な顔をしてシーナを見る。 「でもさ、ハンフリーさんはそういうこと考えないと思うけどな」 特に今回はシーナが悪いわけでも何でもないんだし、と続けるディランに、シーナは軽く肩をすくめてみせる。 「……どうかな、ハンフリーってああ見えてけっこう潔癖症なとこあるぜ、俺の方が断然大雑把だし」 「そういうの大雑把っていうのかなぁ」 ディランは苦笑を洩らす。けれどシーナの言う通り、意外とこういうことはハンフリーの方が気にする性質かもしれない、とも思う。シーナは神経質そうに見えて、こういうところは意外と図太い。この手の暴力には屈しない強さがある。他人が思うほど、シーナは今回のことで傷ついてなどいないのだ。シーナが傷つくとすれば、ハンフリーが今回のことでシーナのことを避けたりすること、それだけだ。 「嫌われるのはやだなぁ、俺、ハンフリーに嫌われたら、ほんと悲しいな……」 シーナは立てた膝に顎を乗せると、表情を変えずにぽろりと涙を零した。その涙に、ディランはぎょっとしたように身を引いた。 「ちょ、ちょっとシーナ!いきなり泣くなよっ!驚くだろっ!!」 「え、あれ……あはは、俺って純情だよなー」 ごしごしと濡れた頬を拭うシーナに、ディランがはーっと溜息をつく。 「……ま、それはさておき、そういうことはちゃんと話し合った方がいいよ。ハンフリーさんが何考えているか、ちゃんと聞けばたいしたことじゃないと思うしさ」 「だといいんだけどなぁ」 今回のことを、ハンフリーはどう思ってるのか。恐くて、まだちゃんと聞いてはいなかった。シーナのことを怒ってはいないだろうけど、でもやっぱり拘ってしまうものだろうか。 「シーナ」 「なに?」 「それ以外でさ、ハンフリーさんに変わった様子ない?」 「変わった様子って?」 ディランは何か考え込むようにしてしばらく低く唸っていたが、やがてここだけの話だけど、と口を開いた。 「ハンフリーさん、ここのところずっと一人で出かけてるって知ってた?」 「いや……いつもの訓練とか、モンスター狩とか、そういうことじゃないのか?」 「うん、しばらく自由な時間が欲しいって言われた。理由は言わなかったけど、だいたい予想はできる。ハンフリーさん、あの盗賊たちのこと、探してるんじゃないかな」 ディランの言葉にシーナは唖然としてしまった。 あの時の盗賊たちはその半数は逃げたと聞いた。どうやら傭兵崩れか何かの、戦いになれた人間がいたとかで、全員を捕まえることはできなかった、と。ハンフリーがその残党たちを追っているということなのだろうか。 「そんなの……何のために…?…俺のせい?」 シーナは心臓が高鳴るのを感じていた。自分のせいで、ハンフリーがまた危ないことに手を出そうとしているのであれば、やめてくれと言いたかった。けれど、ディランはそれならいいんだけど、とつぶやく。 「どういう意味だよ、俺のためじゃないってこと?」 「いや、シーナのために逃した連中を捕まえたいってこともあるんだと思うけど、たぶん、それだけじゃないような気がするんだよな」 「だから、どういうことだよ、もったいぶらずにさっさと言えよ」 シーナがディランの肩をつかむ。 「あの時さ……」 シーナが助け出され、盗賊たちの隠れていた場所から撤退する時のことを、ディランはぽつぽつと話し出した。 フリックたちがその館に踏み込んだ時、中にはかなりの数の盗賊たちがいて、あっという間に乱戦となった。狭い場所での闘いだったが、ビクトールもフリックも慣れたもので、次々に賊たちを倒していった。一つ一つ部屋の扉を開け、そこでシーナたちを見つけた。 中にいた連中は全員フリックが始末した。ビクトールがアップルを、少し遅れてやってきたハンフリーがシーナを抱え、その場所をあとにした。ちょうどビクトールたちが部屋を出た時に、ディランが追いついたのだという。 「その頃には他の仲間も来てたから、まぁ無事に逃げることはできるだろうって思ったんだ。だからみんなで正面玄関から外へ出ようとした」 しかし階段を降りた躍り場で、再び残っていた盗賊たちと剣を交えることとなった。ビクトールとハンフリーはそれぞれ人を抱えていたため、その闘いに加わることなく、盗賊たちをかわしながら外へ出ようとした。 中に一人、他の盗賊たちとは比べ物にならないくらいの腕前の男がいた。おそらく盗賊団の頭かと思われる男で、ビクトールたちは彼が傭兵崩れの男だろうと思ったという。 「ハンフリー、こっちだ」 振り下ろされる賊たちの剣を振り払い、ビクトールがハンフリーを呼んだ。その時、その男がひどく驚いた顔で振り返った。 そしてハンフリーを見てその表情を険しくした。 「ハンフリー……ハンフリー・ミンツ……?」 「………っ!」 名を呼ばれたハンフリーは足を止めた。振り返るハンフリーに、男はそれまで相手をしていた傭兵たちを薙ぎ倒して、一直線に向かってきたという。 その剣を受け止めたのは、フリックだった。 ハンフリーの前に立ちはだかり、オデッサで男の剣を押し返す。 「早く行けっ!!」 「そこを退けっ!」 フリックに立ちはだかれた男は形相を変えて叫び、ハンフリーだけを狙って剣を振り下ろした。その剣を、ハンフリーはシーナを片手に抱いたまま振り払ったという。 「結局フリックさんがその男を押し止めて、ビクトールさんとハンフリーさんは外へ出た。もう逃げられないと思った盗賊たちは戦うことをやめて逃げ始めてて、結局その男もそれ以上ハンフリーを追いかけることなく逃げた。盗賊たちを追いかけることもできたけど、シーナたちのこともあったからさ、そのまま俺たちも陣に戻ることになったんだ」 そのあとディランはまたたきの手鏡を使い、怪我をしたシーナとアップルを本拠地へと戻した。 「あの男、ハンフリーさんのことを知ってたみたいでさ」 ディランはあの時、わき目も振らずにハンフリーへと向かっていこうとした男のことを思い出していた。鋭い目つきのあの男。 あの男……それはきっとアルフという名の男だとシーナは思った。そしてあの時感じた妙な恐さを思い出した。傭兵崩れだと思った直感は外れていなかったのだ。あの男が、ハンフリーのことを知っていた。でも、どこで知り合ったのだろうか? 「ハンフリーさんはその男のことは知らなかったんじゃないかなぁ、顔を見ても表情を変えなかったし。だけど、その男は真っ直ぐにハンフリーさんだけを狙ってたんだ。だとすると、男の方が一方的に逆恨みしてるとか、そういうことも考えられるだろう?俺たちが知らない昔に、何かあったのかもしれないし。ちょっと心配になってさ」 ディランの勘はよく当たる。さすが盟主と呼ばれるだけあって、ほんの些細なことも見逃すようなことはない。そして仲間集めで培った人を見る目は伊達じゃない。 「ハンフリー……その男を探してるのかな……」 「たぶん。でも何のために……?」 シーナは黙り込んだ。何かとても嫌な感じがしたのだ。ハンフリーがその男を探そうとしているのはどうしてだろうか。まったく知らない男なのだとしたら、わざわざ探す必要などないではないか。そりゃシーナのことがあって、逃げた盗賊たちを捕まえたいという気持ちもあるだろうけれど、それだけじゃないような気がする。 ハンフリーはきっとあの男が何者なのか気づいたのだ。だから探してる。 「シーナだから話したけどさ、他の人には内緒だからな。危ないことに首を突っ込まないように、それとなくハンフリーさんから話を聞きだしてくれよな」 ディランはにっこりと笑ってぽんとシーナの肩を叩いた。 「まともに聞いて、答えるような男かよ。ハンフリーって頑固だぜ」 困ったなぁとシーナは肩を落とす。そんなシーナに、愛の力で何とかしなよ、とディランはふざける。アホ言えと返すシーナに、今度は真面目な顔をしてディランが言った。 「力になれることがあったら言ってくれよな。いつでも手を貸すからさ」 「あぁ……」 「じゃ、俺、そろそろ行くわ。シュウさんに内緒で抜け出してきたからさ、きっと今頃怒ってる」 ひらりと手を振ったディランをシーナが呼び止める。 「なに?」 「サンキュ。いろいろ悪いな」 「友達だろ」 にっこりと笑ってディランは屋上をあとにした。 忙しいくせに、城中の連中のことをいつも気にかけている。きっと、今もハンフリーのことが心配で、シーナのことを探していたのだろう。ヤツは絶対に早くハゲるぞ、とシーナは思わず吹き出した。 (アルフ……) 聞き覚えのない名前だった。顔も見覚えはない。シーナの知らない人間。だけどハンフリーは知ってるのだ。 「………ハンフリー……ハンフリー・ミンツ」 その名が何を示すのか、思いついたあることに、シーナはごくりと喉を鳴らした。 部屋に置かれた大きな椅子は、ずいぶん前にシーナがハンフリーにねだって買ってもらったものだ。二人で座っても十分なほどの大きさで、シーナはその椅子の中で両足を抱えるようにして、座り込んでいた。 昼間の天気は夕方になって一転し、霧のような細い雨が降っていた。 音もなく、部屋の中に雨の匂いだけが入ってくる。シーナは膝頭に額をくっつけて、ハンフリーが戻ってくるのを待っていた。ディランから聞いた話がずっと頭から離れなかったのだ。 考えてみれば、ここ最近ずっと帰りが遅かった。 ビクトールたちと飲んでるとばかり思っていたのだ。遅く帰ってくること自体には何の問題もない。だからたいして気にしていなかった。 一つだけ想うことはあったけれど。 その姿勢のまま、どれくらいじっとしていたか。やがてコツコツと廊下を歩く靴音がして、部屋の前で立ち止まった。ノブを回す音。 「………シーナ……」 部屋に戻ってきたハンフリーが少し驚いたように足を止める。どうやらシーナが起きているなどとは思っていなかったようで、珍しくうろたえたように口ごもる。 「起きていたのか……」 「うん、おかえり、遅かったね」 「……ああ……」 雨でしっとりと濡れたマントを外し剣を置くと、ハンフリーは無言のまま椅子の中でじっとしているシーナの頭に手を置いた。 「もう寝ろ。夜更かしするんじゃない」 「………嫌だ」 「どうした?何かあったのか?」 虫の居所が悪そうだな、とハンフリーが低く笑って開け放されたままの窓を閉める。そして煌々と照らされたままの灯りを消し、一人ベッドに腰かけた。 どこか疲れたような様子のハンフリーに、シーナが声をかけた。 「どこ行ってたの?」 「あぁ……少しな……」 「俺に言えないとこ?」 「仕事だ」 「ふうん……」 「………」 「……もう寝ろ。こっちへこい」 「嫌だっ」 唐突に叫んだシーナに、ハンフリーははっとしたように顔を上げた。どこか切羽詰ったようなシーナの様子に戸惑いを隠せない。立ち尽くすハンフリーに、シーナはきっぱりと言った。 「そこへ行ってどうするの?俺はあんたの隣で、ただ眠るだけ?何もしないで、何のためにあんたと一緒にベッドに入るの?冗談じゃないよ」 昼間、ディランには冗談めかして話したけれど、あれ以来ハンフリーがシーナに触れようとしない事実に、ずっと悩んでいたは本当だ。けれど、その理由が分かりすぎるほど分かるだけに、シーナの方からそれを責めることはできなかった。かといって、いつまでもこのままの状態でいることは耐えられなかった。 シーナは椅子から立ち上がると、ハンフリーの元へと近づいた。ベッドに腰かけるハンフリーの目の前で抱えていた思いを吐き出す。 「あんなことがあって、あんたがもう俺に触りたくないっていうんなら、それでもいいよ。でも、それならそうってちゃんと言ってくれよっ」 「シーナ…」 「そばにいて、今までと同じような顔して、でも何もしないなんて……」 「シーナ、そうじゃない」 「何が違うんだよっ!俺、頭悪いからわかんないよっ。俺にも分かるように説明してみろよっ」 言っているうちに情けなくて涙が出てきた。めちゃくちゃに暴れて怒鳴りつけたいような、凶暴な気持ちがふつふつと湧いてくる。 「そりゃあ俺は、あんたよりずっと年下で、あんたから見れば子供にしか見えないかもしれないけど、だけどあんたの恋人だっ。あんたが思ってることをちゃんと理解したいと思ってるし、俺のことだって知って欲しいと思ってる。こんな風に他人行儀に知らない顔されて、触ってももらえないで、何のために一緒にいるんだよっ!俺は…、俺はあんたの何なんだよっ!」 「シーナ、わかったから怒鳴るな。何時だと思ってる」 「時間なんか関係あるかっ!」 「わかった、俺が悪かった。だから、ここに座れ」 ハンフリーは傍らのベッドを軽く叩いた。どこまでの落ち着き払ったハンフリーの態度に、自分の子供っぽさばかりが空回りしているような気がして、シーナは余計に腹が立った。 その腹立ち紛れのままに、シーナはハンフリーに近づき、当然だというようにハンフリーの片膝の上に座り込んだ。 まさかそんなところに座られるとは思っていなかったハンフリーの驚いた顔は、なかなか見ものだった。 「……誰かそこへ座れと言った」 「どこに座ろうが俺の勝手だろ」 「………」 何か文句があるのか、というようにシーナが言うと、ハンフリーは一瞬の瞠目のあと、思わずというように吹き出した。 「まったくお前というやつは」 大きな手がシーナの首筋を引き寄せる。いつものように髪に口づけられて今さらのように気づくのだ。こんなにもハンフリーのことが好きなのだ、と。触れられないのは辛い。抱き締めてもらえないのは辛い。泣いてしまうほどに。 「シーナ……泣いてるのか?」 「泣くさ。当たり前だろ。あんたが俺のこと泣かせたんだ」 「……そうか……すまん」 馬鹿みたいにぼろぼろと涙を零しながら、シーナはハンフリーに抱きついた。無言で抱き返してくるハンフリーに、どれほど文句を言ってやろうかと思ったが、結局何も言えなかった。 しばらくそのままハンフリーに抱きついていたシーナは、やがて口を開いた。 「ハンフリー、俺とセックスするの嫌になった?」 「……何だって?」 「俺があんな連中にいろいろされたから、だから抱いてくれないの?もう触るのも嫌になった?俺のこと好きだけど、やっぱり心と身体は違うとか、そういうこと?」 「………馬鹿を言うな」 心底呆れたようにハンフリーが溜息を落とす。シーナの尖った細い顎をつまんで、じっと瞳の奥を覗き込む。 「シーナ、あんなことで、俺はお前のことを嫌いになったりなどしない。アップルのことを守るためにお前がしたことは、間違ったことではなかった」 「じゃあどうして何もしないんだよ。あれから全然何もしてくれないじゃないか」 「あんなに傷ついていたのに、手を出せるわけがないだろう」 「もう治った。俺、あんたとしたい、すっごくしたい」 こんなことを口にするのは妙に気恥ずかしい気がして、シーナは困ったように唇を尖らせた。別に今さら、と思うものの、こんなに近くで面と向かって「抱いてくれ」などと口にすると、さすがに顔が火照る。そんなシーナに、ハンフリーは静かに言った。 「シーナ、お前は…分かっていない」 「何を?」 「あんなことがあって、お前はきっと俺のことを恐いと思うはずだ。……俺は、お前が嫌がるようなことはしたくはないと……そう思っていただけだ」 ハンフリーが何を言っているのか理解できず、シーナはきょとんと男を見返した。自分がハンフリーのことを恐いと思うなどと、そんなことがあるはずはない。何を恐がる必要があるのだろう。セックスを?無理矢理身体を開かされたことは確かに不快なことではあったけれど、相手がハンフリーである以上、何も怖がる必要などないのだ。 「俺、あんたのことを恐いだなんて思ったことないよ。あんたのこと、今まで一度だって嫌がったことないじゃないか」 「今までは、な」 「やめろよ、そういうこと言うのっ!俺が平気だって言ってんだからいいんだよっ!あんたとしたいって言ってんのに、どうしてそういうこと言うんだよっ!ちくしょー。いつまでもそんなくだらないこと言うなら、俺はまた大声で泣き喚いてやるからなっ!」 「シーナ……」 大きな掌が頭を抱えるようにして、シーナのことを抱きかかえた。そのまま縺れるようにしてベッドの中に倒れこむ。 当然のように口づけられて、久方ぶりの酩酊感に身を任せる。シーナはハンフリーのがっちりとした肩に両手を回し、引き寄せるようにして深い口づけをねだった。 すぐに火がついたように内側から熱を帯びていく身体を、シーナはハンフリーへとすりよせた。少し乱暴に衣服を脱がされて、冷たい空気にさらされた肌を、ハンフリーの指先が撫でていく。首筋から耳元を何度も唇が辿り、濡れた舌先が胸から腹部へと辿っていく。 くすぐったいような、けれど背筋をじわりと駆け上がる快楽に、シーナは大きく息を吐き出した。やんわりと片脚の腿を片手で押し上げられ、反応を見せていた花芯を口に含まれたとたん、シーナは小さく声を上げた。熱くぬめった舌先で嬲られて爪先が跳ねる。与えられる快楽はいつも以上に深く、もっととねだるようにしてシーナはそろりと手を伸ばした。指先がハンフリーの短い髪に触れると、それまで以上に奥まで咥えられて息が上がりそうになった。 時間をかけてゆっくりと愛されて、やがてひたりと汗ばんだ肌が合わせられると、慣れ親しんだそのぬくもりにシーナは進んで脚を開いた。 (もっと脚を開けろ) はっとしてシーナは閉じていた目を開けた。自分にのしかかる男は間違いなくハンフリーなのに、急速に高ぶっていた身体が冷えていくような気がして混乱した。それに気づかないハンフリーが高く掲げたシーナの片足に唇を這わせる。 (押さえてろ) あの時、逃げたりしないのに男にきつく手首を押さえつけられた。 (声を出してみろ) 絶対に感じたりするものかと誓っていたのに、無理やり声を上げさせられた。 あの悔しさがまるで洪水のように押し寄せてくる。 「や……めっ…」 何が何だかわからなくて、シーナはハンフリーの肩を押し返した。 大きく見開いた目から涙が零れ落ちた。眦を伝い、こめかみへと流れていく涙が耳元を濡らす。 「シーナ?」 「やだっ…ちが…う…」 「シーナ」 動きをとめてハンフリーがシーナの肩を掴んで揺らした。何かに怯えたように半身をひねって逃げようとするシーナに、ハンフリーがもう一度その名を呼ぶ。 「………っ」 シーナは小さく震えたまま自分の名を呼んだ男を見た。それがハンフリーだと分かると、とたんに、ありありと深い罪悪感をその表情に浮かべた。 「ごめ…っ…ん、ごめんなさい…俺、大丈夫だから…」 舌が縺れて上手く言えないことがもどかしい。ハンフリーに呆れられたと思うとそれだけで胸が締め付けられるように痛くなる。そんなシーナの様子に、ハンフリーが身を起こした。 「シーナ、もういい」 「違うんだっ、ハンフリーのことがやなわけじゃないんだ…、ただ…俺…」 ハンフリーはわかってるというようにシーナのことを抱きしめた。 あんなことは何でもない、と言うシーナの言葉は嘘ではなかっただろうと思う。シーナは気持ちの切り替えは早い方だし、男だからあんなことはたいしたことではないという言葉も強がりでも何でもなかっただろう。けれど、どんな形であれ、人格を無視した陵辱を身体は忘れることはできないし、自分の意思に反した行為を強要されたことに傷つかないはずはない。 ハンフリーにはそれが分かっていた。 自分がする行為でシーナが再び傷つくのが恐くて、かといっていつまでも何もしないでいることもまたシーナのことを傷つけるだろうと、ハンフリーはハンフリーなりにいろいろと考えていたのだ。 「ハンフリー……?」 不安そうに様子を窺うシーナに、ハンフリーはどう言ったものかと考えた。涙でぐっしょりと濡れた頬を片手で拭い、大丈夫だ、と低く告げる。 「シーナ、無理することは何もない」 「無理なんて…っ…」 反論しようと開いたシーナの唇を、ハンフリーの指先が塞いだ。 「……俺はたとえお前と何もできなくても、お前のことを嫌いになどなったりはしない」 「………っ」 「何があっても、俺はお前のことを嫌いになどならない。だから、俺のために自分を偽って無理をするな。恐いなら恐いと言えばいい、嫌なら嫌だと言えばいい。お前は自分が気づいていないだけで、ひどく傷ついている。それに気づきたくないだけだ」 大きく息を吸い込んで、しゃくりあげるようにして、シーナが涙を溢れさせた。ハンフリーの肩先に額を押し付けるシーナの小さな頭を抱き寄せる。 「俺に嘘などつくな。我侭はお前の専売特許だろう?」 どこかからかうような口振りに、シーナは泣きながらも笑いを洩らす。 「愛しているんだ、シーナ」 「………うん」 「助けてやれなくてすまなかった」 そうして自分を責めていたのはハンフリーも同じだったのだと、この時ようやくシーナは気づいた。大丈夫。きっともう大丈夫だ。 シーナはゆっくりとハンフリーに口づけた。軽く触れただけの口づけは、何かを待ちわびていたかのようにすぐに深くなり、互いに夢中になった。 中途半端に熱を帯びていた身体はすぐに熱くなり、シーナはハンフリーにされるがままにその身を開いた。 恐いことなど何もなかった。 ただただ嬉しいだけだ。膝裏を押し上げられ、やはりその瞬間は少し身構えてしまう。ハンフリーはそんなシーナの額に、目蓋に、鼻先に、頬に、顎に、首筋に、シーナが焦れて欲しがるまで飽くことなく口づけを繰り返した。 「早く……っ」 待ちきれずに叫ぶと、ようやくハンフリーのものがシーナの中へと入ってきた。その硬さと大きさに息を飲み、けれど拒むことなく受け入れる。 内側をこすりあげられる抽挿され、気づくと自らも身体を揺らせていた。熱くて溶けそうな感覚に溺れそうになる。 「ハンフリー……っ……き…好き……」 その言葉を絡め取るようにして口づけを交わし、シーナは触れられることなく絶頂を迎え、白い蜜を迸らせた。 一度では足らず、体位を変えては何度も交わった。 このまま夜が明けなければいいのに、と思った。こんなにハンフリーのことが好きなのだと、改めて思い知らされた。 「………寝ちゃったの?」 白々と朝を迎える頃になってようやく二人は重ねていた肌を解いた。まだ離れがたくて、指先だけを絡めて、シーナはぼんやりとハンフリーの横顔を見ていた。 静かな寝息が聞こえてくる。相当疲れていたのだろう。めずらしくハンフリーの方が先に眠り込んでしまった。 一人取り残されてしまったシーナは、十分に満たされた満足感からか、目が冴えてしまって眠れずにいた。 どこまでもシーナのことを甘やかすハンフリー。けれど、シーナとてただ過保護にされたいわけではないのだ。ハンフリーが心を悩ますことがあるのならば、助けてやりたいと思うし、彼を傷つけるものからは守ってやりたいと思うのだ。 「何をしようとしてるんだよ……」 恐らく一人でハンフリーはアルフを探している。 (ハンフリー・ミンツ?ミンツっていうんだ、知らなかったな) ハンフリーと付き合い始めてしばらくたった頃、ビクトールからその名前を聞いた。いい名前だね、と言ったシーナに、ビクトールは静かに言った。 (その名前を使ってたのは、ヤツが帝国軍の百人隊長だった頃だ。あれ以来、ハンフリーはただハンフリーだ。お前もそう呼べ) あれ以来、というのが何を指すのかすぐには分からなかった。それが、トラン湖北方にある小さな町で起こった事件のことを意味しているのだと知ったのはずいぶんたってからだった。 シーナも聞いたことがあるあの事件。 ハンフリーが抱える過去の傷。 ハンフリー・ミンツという名前を口にしたアルフは、帝国軍時代のハンフリーを知っているということになる。シーナの知らないハンフリーのことを知っているアルフ。きっと何かある。 アルフはハンフリーだけを狙っていたという。 すごく嫌な感じがした。 NEXT |