BECAUSE I LOVE YOU


 さっとカーテンが開かれ、眩しい朝日が部屋に降り注いだ。
 シーナは思わず寝返りを打って、ブランケットの中に顔を埋め込んだ。
「起きろ、何時だと思ってる」
 ハンフリーが声をかける。シーナは低く唸るだけで起きようとしない。
 もともと超低血圧で、夜型人間のシーナは朝は10時を過ぎないと目が醒めないのだ。こんな朝早く(といってもすでに8時は過ぎているのだが)に起きられるはずがない。
「……眩しいよ、カーテン引いて…」
「シーナ、食事に食いっぱぐれるぞ」
 レストランの朝ご飯は9時までのはずだ。いつまでもベッドの中で惰眠を貪っているシーナを横目に、ハンフリーは身支度を整えた。
 シーナが起きないのはいつものことなので、最近では一応声はかけるものの、放っておくことの方が多くなっている。
「ハンフリー…」
「何だ」
「俺、ホットサンドとホットミルク。サンドはきゅうり抜き。ミルクは砂糖を2杯入れて」
「……」
 シーナの我侭もいつものことで、ハンフリーは最近ではすっかり慣れてしまっていた。慣れというのは恐ろしいものである。城中捜しても、ハンフリーを顎で扱き使えるのはシーナくらいなものだろう。
「あとフルーツも食べたい」
 ハンフリーは無言で部屋を出た。


「おはよう、ハンフリー。めずらしいな、こんな遅い時間に食事だなんて」
 フリックがトレイを片手にハンフリーの席に着いた。今日は戦闘要員ではないらしい。でなければ、もうとっくに出かけているだろう。
「一人か?」
「ああ、ビクトールはまだ寝てるよ。昨夜はバカほど飲んでたから、昼まで起きないだろ」
 途中までは付き合っていたフリックだったが、とてもじゃないが付き合いきれないと思い、さっさと自分だけ部屋に引き上げたのだ。
「そっちこそ、シーナはどうした?」
「まだ寝てる。酒は飲んじゃいないが、あいつは朝は死人のようだからな」
「ふうん」
 どこか嬉しそうに微笑むハンフリーを、フリックは複雑な思いで見つめた。
 ハンフリーはフリックにとってはかけがえのない友人の一人だ。いつも冷静沈着で、そしてずっとフリックのことを見守っていてくれた。オデッサが亡くなった時も、ビクトールとのことで迷った時も、いつもいつもそばでフリックのことを助けてくれた。だからハンフリーには幸せになって欲しいと思っていた。
 シーナと付き合うようになってから、ハンフリーは変わったと思う。以前のような取っ付き難い雰囲気がなくなり、どこか優しくなった。
 シーナのおかげだ。
「ハンフリー、昼からディランたちとトゥーリバーまで行くって?」
「ああ、あの辺りに最近怪しげなモンスターが出るらしくて、何とかしてほしいて依頼があったらしい」
「そりゃご苦労さま。ディランも何だかんだ言いながら、頼まれると断れないヤツだからな」
 ハンフリーは食事を済ませると、近くにいた手伝いの女の子を呼んだ。
「すまないが、ホットサンドとホットミルクを用意してくれないか。部屋に持ってかえる。ああ、サンドはきゅうり抜きで、ミルクは砂糖2杯だ」
「はぁい」
 フリックはハンフリーの注文に眉をしかめた。
「おい、まだ食べるのか?っていうか、砂糖入りのミルクなんて。辛党のお前が?」
「いや、食べるのは俺じゃない。シーナの注文だ」
「………」
「何だ?」
「いや。お前、変わったな」
 フリックががっくりと肩を落とす。あのハンフリーがシーナの尻に敷かれてるのかと思うと、つくづく恋というのは恐ろしいものだと思いしらされる。何しろシーナは16歳も年下のガキなのだ。
「そうか?放っておくと、ろくに食事もしないで寝てるからな。俺は昼から出かけるし、今食べさせておかないとな」
「まるでお母さんだな」
「おまたせしましたぁ。ホットサンドとホットミルクでぇす」
 女の子がお持ち帰りように包んだホットサンドをテーブルに届けてくれた。ハンフリーはそれを手にすると、片手にミルクを持ち、席をたった。
「昼からの戦闘、気をつけて」
「ああ。じゃあな」
 レストランを出て行くハンフリーの後姿を見ながら、フリックは大きくため息をついた。
 まったく恋は盲目とはよく言ったものである。


 部屋に戻るとシーナはまだベッドの中でぐっすりと眠っていた。ハンフリーはベッドサイドのチェストの上にホットサンドを置いて、ブランケットを剥ぎ取った。
「ん〜…なに…」
 シーナが手のひらで目元を覆う。
「起きろ。お前のお望みのものを持ってきたぞ」
「…ホットサンドとホットミルク」
 むくりとシーナが身体を起こす。ホットサンドとホットミルクはシーナのお気に入りの朝ごはんだ。何を食べてもまずいと言うくせに、このメニューだけはいたくお気に入りなのだ。シーナは大きく伸びをして、二三度瞬きすると、目の前のハンフリーに微笑んだ。
「ありがと」
「ほら、さっさと食え」
 膝の上で包み紙を広げる。できたばかりのホットサンドにかぶりつくと、シーナは満足そうに喉を鳴らした。
「うまい。あ、ちゃんときゅうり抜きだ」
「きゅうりが食べられないなんて、まだまだ子供だな」
「あんただってケーキとか嫌いじゃん」
「それとこれとはぜんぜん違う」
「ひとくち食べる?」
 シーナが千切ったホットサンドをハンフリーに差し出す。ハンフリーはシーナの指ごとそのホットサンドを口にした。
「指まで食うなよ」
 くすくす笑いながらシーナがペロリと濡れた指を嘗めた。
 昨夜愛し合ったばかりだというのに、また欲しくなる。シーナはハンフリーの首に腕を回すと、その唇を奪った。
 深く舌を絡めて、ひとしきりその甘さに酔う。
「出かけるの?」
 ハンフリーがすでにきっちりと服を着ているのに気づいて、シーナが問いかける。
「ああ、トゥーリバーまでな。3日ほどで戻る、俺がいない間に羽目外しすぎるんじゃないぞ」
「ちぇ、つまんないの」
 ハンフリーは笑ってシーナのくしゃくしゃの髪を撫でた。
 16も離れた子供相手にいったい何をやっているのだろうと思う。
 自分でも馬鹿げていると思うものの、それでも目の前にいる存在が愛しくてたまらない。
「行って来る」
「あ、ハンフリー」
 歩き出したハンフリーをシーナが呼び止める。
「もいっかいキスして」
「帰ってくるまで我慢してろ」
「けち」
 まぁそれはそれで楽しみかもしれない。帰ってきたら、うんとキスしよう。シーナはそう考えると、冷たい恋人を笑顔で送り出した。


 外では醜い闘いが続いているが、城の中はいたって平和だ。
 嫌になるくらいのいい天気で、中庭では小さな子供たちが嬌声を上げてはしゃぎまわっている。
 シーナは屋上へ上がると、ぼんやりと青い空を見上げた。心地よい風が頬を撫でていく。
「つまんないなぁ」
 3日間も一人だなんて。
 ハンフリーと付き合いだして、今まで彼なしで過ごしていたことが不思議に思える。どうしてこんなに幸せな関係を知らずにいられたのだろう?
 ずっとずっと一緒にいたいと思う。一晩中、一日中、一秒だって離れていたくないと思うほどに恋しい。
 そばにいる時は当たり前で忘れているのに、こうして離れてみると余計にその思いは強くなる。
 ふいに目の前が暗くなった。
 と、思った瞬間、誰かがシーナに覆い被さり、その唇を奪った。
「ん…んぅ…」
 シーナは思い切りその胸を押し返すと、ざっと後ずさった。咄嗟にいつも持っている短剣に手をかける。
「おいおい、そんな物騒なもの取り出すなよ」
「ピ、ピコ…!」
 ピコがシーナの前で両手を上げてみせる。
「いったいどういうつもりだよっ!」
 ぐいぐいと口元を袖口で拭い、シーナがピコに怒鳴る。
「いや、あんまり可愛い顔してたからさ、つい」
「つい、で勝手に人にキスするなっ!!」
 まぁまぁ、とピコが笑ってシーナの怒りを静めようとする。
 3ヶ月ほど前まで、シーナとピコは友達以上恋人未満のような関係にあった。ピコはなかなかの優男で、シーナと同じく女たらしで有名だった。最初はほんの遊びだった。男を相手にしたことがない、というピコのことをからかうつもりでシーナの方から近づいたのだ。ピコも興味があったらしくて、あっという間に二人は深い仲になった。
 実際付き合ってみると、ピコはけっこう気持ちのいい男で、シーナの我侭ぶりにも怒ることなく、相手をしてくれた。かといって真剣に恋人同士だったわけではない。
 いわゆるセックスフレンドの一人だったのだ。
 しばらくの間はお互いに新しい刺激を求めて、遊んでいたが、そのうち、何となく疎遠になってしまったのだ。
「シーナ、しばらく見ないうちに色っぽくなったな」
「ふふん、俺のこと捨てて後悔してる?」
「よく言うよ。捨てられたのは俺の方だろ?」
 ピコは笑ってシーナの髪に触れる。いつものピコのくせだ。柔らかい猫っ毛のシーナの髪の手触りが気持ちいいらしくて、一緒にいる時はいつも触れていた。
「最近あんまり遊んでないみたいだな」
「うん、大人になったから」
「大人ねぇ…じゃあ俺と大人の遊びをしないか?」
「大人の遊びねぇ…」
 シーナは上目遣いにピコを見る。
 ピコがかなりのテクニシャンだったことを思い出してしまった。正直なところ、ピコとのセックスはシーナを虜にした。ピコとなら後腐れのない遊びができることだろう。
「どうせハンフリーはいないんだろ?バレやしないし、3日間だけ、前みたいに楽しい遊びをしないか?」
「なるほどね」
 シーナはにっこりと笑った。


 シーナが再び遊び始めた、という噂はあっという間に城中に広がった。
 ピコと二人で仲良くお茶をしているところや、食事しているところ、夜にピコの部屋にいたということまで、実しやかに人々の間で囁かれるようになった。
 ハンフリーのいない間にさっさと別の男を引きずり込むなんて!という非難の声と、やっぱりシーナはそうでなくちゃ、という賛成の声と半々というところだろうか。
「いいのかねぇ、あんなに派手に遊びまわってて」
 ビクトールがビール片手につぶやく。
 酒場は超満員だった。窓際の席には噂のピコとシーナが陣取っており、かなり話が弾んでいるようだった。シーナの遊びっぷりは、ハンフリーと付き合う前に戻ったようで、言ってみれば旦那のいない間に遊び回る浮気妻の典型といったところだろうか。
「まぁあいつが今まで大人しくしてたって方が青天の霹靂ってとこだがな。なぁフリック」
「明日ハンフリーが帰ってくる」
「…修羅場だな。近寄るなよ、余計なとばっちりはごめんだぜ」
 何しろ二人が付き合うようになった時も、フリックとビクトールは手間をかけさせられたのだ。今回もまた二人の夫婦喧嘩の巻き添えを食ってはたまらない。
「いいな、首突っ込むなよ、フリック」
 ハンフリーのこととなると、いつもに増して世話を焼きたがるフリックに、ビクトールは釘をさす。
「分かってる」
「どうだかな」
 ビクトールは胡散臭そうにフリックを見て、ジョッキをあけた。

「いいのかぁ?あんまり派手に遊んでると、ハンフリーに怒られるんじゃないか?」
 ピコが新しく開けたワインをシーナについでやる。アルコールには底なしのシーナは美味しそうにぐいぐいとグラスを空けた。
「ふふん、ちょっとは焼もちやいてもらおうかなと思って。だって、ハンフリーてばぜんぜん俺のことなんて子供扱いなんだからなぁ」
「実際子供だろ」
「その子供相手に、目いっぱいやらしいことしたのはどこの誰だよ」
 シーナがテーブルの下でピコの足を蹴っ飛ばす。
「シーナだって楽しんでただろ?俺たち身体の相性は抜群だったもんな」
「そう思ってたけどね、でも違ったよ」
「何だよ、それ」
「身体だけじゃだめなんだって、分かったんだ」
 シーナがつまみのチーズを口に入れる。
「そりゃセックスの相性は大事だけど、そればっかじゃないって初めて知った。俺にとってセックスってさ、「簡単に手に入る気持ちのいいもの」だったけど、でもそうじゃないんだよな。あれはさ、好きな人と、好きだからするものなんだよな。おまけに、好きな人と一緒ならなくてもいいものなんだよな。不思議だけど、ほんとなんだ。ずっと気づかなかったけど」
 穏やかなシーナの微笑みに、ピコはほんの少し寂しいような気になる。自分と付き合っていた頃のシーナはこんな穏やかな表情をすることはなかった。いつもどこか攻撃的で、自分を壊そうとするかのように、無茶なこともしていた。お互い何かに餓えたように身体ばかり繋いでいた。
 自分ではシーナをこんな風に変えることはできなかった。
「確かに大人になったな」
 逃がした魚は大きかった。ピコは今さらながらにそれを感じていた。


「ああ飲みすぎた。気持ち悪い」
 シーナがふらふらと酒場から歩き出す。そのあとを追って、ピコがシーナの腕を掴んだ。調子に乗ってシーナはワインを2本は空けた。止めなかったピコも悪かったが、まさかここまで飲むとは思っていなかったのだ。
「危ないな、しっかりしろ」
「ん〜だめだ、天井が回ってる」
「そりゃ、あれだけ飲めばな」
 ピコが苦笑してシーナの肩を抱く。ここのところハンフリーの目を気にして(ハンフリーもフリックと同様、未成年の飲酒にはあまりいい顔をしないのだ)無茶飲みすることがなかったせいで、シーナは悪酔いしてしまったようだった。
「シーナ、俺の部屋に来るか?」
 ピコがシーナの耳元で囁く。甘い誘惑だ。けれどシーナは首を横に振って、ピコの身体を押し返した。
「だめだめ…んなことしたら、殺される」
「やれやれ、ずいぶん身持ちが堅くなっちまったな。それだけ色っぽくなっておいて、そりゃあんまりだぜ」
「ん〜離せって…」
 強く引き寄せようとするピコの腕をシーナが払おうとしたとき、シーナは視界の端に見慣れた男の姿を捉え、はっとした。
「ハンフリー…?」
 城の入口にトゥーリバーにいるはずのハンフリーがいた。
 瞬間、シーナはハンフリーに駆け寄りそうになったが、できなかった。ハンフリーのシーナを見る目があまりにも冷たかったから。シーナはピコの腕を払うと、その場で動けないままハンフリーを待った。すっかり酔っ払って、こうしてピコといる現場を目の当たりにしたハンフリーは何を思っているのだろう。
 浮気?
 浮気したって思ってる?
 シーナはそう思ったとたん、まるで耳元で心臓が高鳴ったかのような気がして唇を噛んだ。
 何か言えよ。
 いつものように何か言って。いつものように触れて。
 シーナの想いとは裏腹に、ハンフリーはゆっくりとシーナに近づくと、強い力でその腕を掴んだ。
「いった…い…何すんだよっ!」
「来い」
「離せよっ!」
 暴れるシーナをハンフリーが肩に担ぎ上げた。びっくりしたのはピコの方だった。いつも温厚なハンフリーがまさかこんな乱暴にシーナを連れて行くなんて思いもしなかったのだ。
「離せよっ!ばかばかばか」
「……」
 ハンフリーは無言のまま、シーナを連れて階段を上がる。その騒ぎに何事かとビクトールとフリックが酒場から顔を出した。暴れまわるシーナと、それに全くかまわずに連れ去るハンフリーの姿にぎょっとする。
「どうしてハンフリーが帰ってきてるんだ?」
「思ったよりも早く片がついたんですよ」
 城に戻ってきたディランがフリックのつぶやきに答える。他の仲間たちも到着したところらしく、疲れた顔でそれぞれの部屋へと戻ろうとしていた。
「よっぽど早く帰りたかったのかぁ、ハンフリーさん。もう一晩泊まろうって言ったのに、戻るっていうからさ」
 ディランがやれやれと肩をすくめる。
「でもまさか留守を守る奥さんが浮気してたとはねぇ」
「ディラン!」
「はいはい。さてと、もう寝よっと。おやすみなさい」
 大きなあくびをしながらディランは手を振り、自室へと歩き出した。
「最悪だな」
 と、ビクトール。さすがに今回ばかりは、フリックもそれにうなづかないわけにはいかなかった。


 どれだけ暴れてもハンフリーはびくともしない。ハンフリーはシーナを肩に担いだまま部屋の扉を開けると、部屋を横切り、どさりとベッドの上にシーナの身体を放り投げた。スプリングが弾み、嫌な音を立てる。シーナは上半身を起こすと、きつい瞳でハンフリーを睨んだ。
「何すんだよっ!」
「どれくらい飲んだんだ」
「何で、こんな乱暴なことするんだよっ!」
「ずっとピコと一緒だったのか?」
「答えろよっハンフリー!」
 シーナが怒鳴る。次の瞬間、ふわりと身体が攫われ、気づいた時には、ベッドの上に押さえつけられていた。目の前には待ち焦がれていたハンフリー。だけど、いつもの優しい目ではない。
「何で?どうしてこんなことするんだよっ」
 急に怖くなってシーナは顔を背ける。ハンフリーがその顎を掴んで正面を向かせる。
「……ピコと寝たのか?」
「!」
 感情のないハンフリーの声。シーナはショックで声も出ない。
「昔のように、またピコとよりを戻したのか?それとも、ただの遊びのつもりか?」
「違うっ!」
「じゃあ本気か?それとも…」
「違うっ!何もないっ!何も…」
 シーナは両手首を捕まれたまま大きく身を捩った。ハンフリーの手を解こうにも強い力で捕まれ、どうすることもできなかった。
「それはどうかな」
 ハンフリーがシーナのシャツに手をかける。引き裂くようにボタンを千切り、その細い体に圧し掛かる。
「いや…だっ!」
「本当かどうかはお前の身体に聞くことにしよう」
「なっ…」
 シーナは本気で逃げようとした。こんなのは嫌だ。こんな乱暴なハンフリーは知らない。まるで知らない男のようだ。無理矢理に足を開かされる。シャツが肩から落とされた。剥き出しになった白い肌にハンフリーが口付ける。
「いやだっ!こんなのは嫌だっ!」
 満身の力でハンフリーを押し返すシーナに、ハンフリーは冷えた目で言った。
「慣れてるんじゃないのか?こんな風に抱かれるのは」
 ハンフリーの言葉に、シーナは抵抗を止め、その目に怒りの色を浮かべた。
 確かにハンフリーの言う通り、こんな風に無理矢理抱かれたことは何度もあった。ほとんど犯罪のように乱暴されたこともある。そのたびにひどく傷ついた。だけど、それにも慣れた。そういうこともある、と自分自身を納得させてきた。そうしなければ壊れてしまいそうだったから。
 だけど。
 シーナの目から大粒の涙が零れ落ちた。
 ハンフリーが手を止め、シーナを見る。
「どうした?なぜ泣く?」
「……そりゃ、あんたの言うとおり、慣れてるけど…こんなこと…今までもいっぱいあったらか慣れてるけど…だけどっ、だけど好きなヤツにこんな風に乱暴されたことなんて一度もないっ…自分の好きな相手から…こんな風に疑われて、強姦されたことなんて一度もないっ」
「……」
「俺が本気でピコと浮気したと思ってんの?そんなに俺のこと信用してなかったの?あんたがいない間に、他の男と簡単に寝るようなヤツだって、本気で思ってたのかよっ!」
「……」
「確かめればいいだろっ、俺がピコと寝たかどうか。他の男とも寝たかどうか、好きなだけ調べろよっ」
 ぱたぱたと涙が頬を伝う。
 ハンフリーがシーナから離れた。無言のままベッドから降りると、そのまま部屋を出て行った。
 残されたシーナは流れ落ちる涙を拭おうともせず、ぼんやりと天井を見つめていた。
 胸が痛い。痛くて痛くてつぶれてしまいそうだ。
「…っふぅ…うっ…く…」
 シーナは口元を両手で覆った。大声で泣いてしまいそうだったから。それでも嗚咽が漏れてしまうのをとめられない。
 嫌いだ。ハンフリーなんて大嫌いだ。
 百万回嫌いだと言っても、それでも、きっとだめなのだ。
 こんなひどいことされても、それでも好きだと思ってしまうから。
 絶対に自分は悪くないと誓えるけど、それでも許してくれるなら何回でも謝ってしまおうと思ってしまうくらいに好きだから。
「ばかみたいだ」
 何を泣いているのだろう。
 何であんなひどい男のために泣いているのだろう。
 嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。
 シーナは泣きつかれて眠りにつくまで、何度も胸の中でそう叫んだ。

 翌日のレストランは怖いくらいの静けさだった。
 何しろ「自分の恋人を留守中に寝取られた」とされているハンフリーが黙々と食事をしていては、誰も大声で笑いあうこともできない。その静けさを打ち破ったのは、いつものごとくビクトールだった。
「よぉ、旦那。そんな怖い顔してメシ食っても美味くねぇだろ」
「…今日はどうしてこんなに静かなんだ?」
 ハンフリーが辺りを見渡す。誰もが目をあわさないように顔を背ける。
「昨夜、あれだけ派手にやらかしといて、何とぼけたこと言ってんだよ」
 ビクトールがハンフリーの前のイスに座る。
「ああ…シーナとのことか?」
「それ以外に何があるっていうんだよ」
 相変わらず掴みどころのないヤツだ、とビクトールは思う。いつも怖いほどに冷静で、取り乱したところなんて見たことのないハンフリーでも、さすがに昨夜は荒れたことだろう。
「で、シーナはどうした?」
「さぁな。まだ寝てるだろう。あいつは朝はぜんぜんだめだからな」
「そうじゃなくてよ、昨夜、あれからどうなったかってことだよ。何もなかったわけじゃねぇだろ」
「…ああ」
 ハンフリーはそれきり、また黙々と食事を続ける。まぁどう考えても修羅場になったことは間違いはないだろう。ビクトールはごくごく当たり前の好奇心で、どうなったのかが知りたかったのだ。
「けどよ、シーナが遊び好きだってことはお前さんだって知ってただろ」
「ああ」
「それでも浮気されちゃあ腹も立つわな」
「……」
 ハンフリーが黙っていると、そこへやってきたフリックが何ともいえない表情を見せた。
 ビクトールと違って常識のあるフリックとしては、なるべくシーナの話題は避けようと心に決めていたのだ。ビクトールの隣に座ると、フリックはいつものようにハンフリーに話しかけた。
「トゥーリバーはどうだった?」
「けっこう手こずったが、何とかな」
「そっか」
 気まずい沈黙が辺りを漂う。困った。こういう状況はかなり苦手なフリックとしては、無意識のうちにビクトールの方を見てしまう。やれやれ、というようにビクトールは肩をすくめる。
「ところで、あいつは俺がいない間、毎晩飲んでたのか?」
 いきなりハンフリーが問いかける。
「え?あ、ああシーナ?そうだなぁ、夜になると酒場にいたかな」
 ピコと一緒に、とはさすがに言えないフリックであった。
 それにしても、と思う。
 シーナが遊び人は周知の事実だが、本当にピコと何かあったのだろうか?確かに、しょっちゅう一緒にいるところを見かけたし、夜は酒場で一緒だった。以前、そういう関係にあったことは、世間に疎いフリックでも知っている。だけど。
「そうか。仕方のないヤツだな」
 ハンフリーは二杯目のコーヒーを飲み干すと席を立った。
「ハンフリー」
「ん?」
「シーナのこと、放っておいていいのか?」
「かまわん。しばらく放っておけ」
 それだけ言うと、ハンフリーはレストランから出て行った。一気に緊張が解けたように、レストランの空気が変わる。
「あ〜あ、こりゃだめかもしれねぇな」
 ビクトールがフリックの皿からポテトをつまんで口に入れる。
「何が?」
「だからよ、あの二人、もうだめかもしれねぇな」
「……そんなこと」
「あるだろ。好きなヤツに浮気されて黙ってられる男はいねぇだろ。さすがにあの旦那でも、許さねぇんじゃないか」
 シーナのやつ、どうしてこんなバカなことをしたんだ。フリックは舌打ちしたい気になっていた。


 目が痛い。
 シーナはごそりと寝返りを打つと、力任せにカーテンを引いた。部屋の中が薄いブルーの光で包まれる。
 昨夜さんざん泣いてそのまま眠ってしまったので、目が腫れているのだ。
 胸の中がぽっかりと穴が開いたみたいで、何も考えられない。
 昨夜のハンフリーとのやりとりが甦って、シーナはきつく目を閉じた。
 あんな風に乱暴に掴みかかられたのは初めてだった。ハンフリーはいつも優しくて、シーナはその優しさに溺れていた。それに甘えていたのだろうか?確かにいつもいつも我侭言うのはシーナの方で、何も言わないハンフリーに甘えていたけれど。
「でも悪くない」
 ハンフリーが何と言おうと、本当にピコとの間には何もなかったのだ。ハンフリーがいなかったからすごく暇で、久しぶりに話をしたピコが懐かしくて、一緒にいただけだ。
 大人の遊びなんてものに誘われはしたが、最初から相手になんてしなかった。
 本当に本当に何もなかったのだ。
 それなのに、あんな風に勝手に誤解して、ひどいことをした。
「絶対に悪くない」
 言い聞かせるようにシーナはつぶやく。
 絶対に謝るもんか。誤解してた俺が悪かった、とハンフリーが言ってくるまでは、絶対に口もきかない。
 傷ついたのはシーナの方だ。
 ハンフリーにあんな風に思われていたなんて。
 シーナは身体を丸めて、再び溢れてきた涙を堪えた。
 それでもあとからあとから溢れ落ちる涙をどうすることもできなかった。

                                            NEXT


 BACK