10 years  3


 部屋を飛び出したシーナはとぼとぼと城の中を彷徨っていた。
 いくら勢いだったとはいえ、あんなことを口走ってしまっては、さすがにハンフリーの顔をまともに見ることができない。本当はもっと順序立てて説明するつもりだったのだ。
 10年後に、自分たちが恋人同士だということも、どれだけ自分がハンフリーのことを好きなのかも。そんなことをすべてすっ飛ばして「抱いてくれ」なんて言われても、そりゃあハンフリーも驚くだろう。
「あー、もう最悪……」
 シーナはくすんくすんと鼻をすする。
 もうとてもじゃないけどハンフリーとまともに顔を合わせられない。
「よぉ、シーナ」
 薄暗い城の廊下の向こう側から現われた人物に呼び止められて顔を上げると、そこには賭場帰りらしきシロウがいた。じゃらじゃらと手の中で金の音をさせている。どうやら今夜はがっぽり稼いだようである。一見あまりのガラの悪さに近寄り難い雰囲気をもつシロウだが、その実人情に厚いところもあって、意外と慕っている人間も多いのだ。
「どうしたー、しけた面してんなー」
「………」
「そういやハンフリーの旦那、若返っちまったんだって?で、ちょっとは味見してみたのか?若い男とやるのは久しぶりだろーが」
 へらへらと下品な笑いを浮かべてシロウがぐりぐりとシーナの頭をつかむ。いつもならここで反撃してくるシーナが何も言わないことに気づいて、シロウはその顔を覗き込んだ。
「どうした?ほんとに元気がねぇな。お前らしくもねぇ」
「………なぁ、今晩泊めてくれる?」
「ああ??」
 だって行くとこないしさ、とシーナが唇を尖らせる。どこか媚びたような視線を投げつけるシーナに、シロウはぱちぱちと瞬きをした。
 シーナにしてみれば別に誰でも良かったのだ。適当に出会った相手のところへ転がり込もうと決めていた矢先に、顔を合わせたのがシロウだったというだけで深い意味など全くない。
 だがシロウの方は突然のシーナからの言葉に、柄にもなくどぎまぎしていた。
「い、いいけどよ……いいのか?」
 何を期待したのか、ごくりとシロウが喉を鳴らす。
「何が?」
「いや、あとで旦那に殺されたりしねぇだろうなぁ」
「……言っておくけど、えっちはなしだぜ。そんな気分じゃないからな」
 シーナはあっさりと明言すると、すたすたとシロウの部屋へと向かって歩き出した。分かっていたこととはいえ、やっぱり何もなしか、とシロウが大仰に溜息をついた。
 シーナが少し前まで誰とでも簡単に夜を過ごしていたのは周知の事実で、けれどそれはハンフリーといい仲になってからぴたりと止んだ。今さら何を純情ぶるんだとせせら笑うヤツらもいたが、シーナの一途な態度は見ていて切なくなるほどで、シロウもそんなシーナのことを可愛いなどと思っていたのだ。シーナとは一度もそういう仲にはなったことはないのだが、だからこそ、妙に構いたくなってしまう。もっとも強引に何かするほど不自由はしていないので、シロウはぶつぶつと文句を言いながらもシーナを部屋に泊めることを了解した。
 二人してシロウの部屋へと戻り、一緒には寝ないというシーナのために、床の上に簡易の寝床を用意する。
「よぉ、何があったんだよ。喧嘩でもしたのか?」
「………ちがう」
「じゃああれか?若返って、お前のことを覚えてなくて、淋しいとか、そういうことか?」
 まさかなーと笑うシロウに、かっとしたようにシーナが怒鳴る。
「そうだよっ、俺のこと忘れちゃって、あんなにかっこよくなっちゃって、ハンフリーのやつ、まるで赤の他人を見るみたいに俺のこと見て……ひどいじゃないか、あんなの…」
「あーまーそりゃ仕方ねぇだろ。別にそうなりたくてなったわけじゃねぇんだし、それで旦那を責めるのは気の毒だぜ」
「抱いて欲しかっただけなのに」
「はぁ!?」
 シロウは目を白黒させて今にも泣き出しそうなシーナを凝視した。床の上に用意された寝床の上に座り込み、シーナはぎゅっと胸の前で枕を抱き締める。
「何だって???」
「だって、俺はハンフリーの恋人なわけだし、当然俺には抱いてもらう権利はあるはずだろ」
「お前、それを旦那に言ったのか?口にだして、抱いて欲しいって??」
「言った」
「………はー、お前はやっぱり阿呆だな」
「何だと!!」
 シロウは信じられねぇなとベッドの上に横になって溜息をついた。
 しかし、やがてくっくっと低く笑い始め、最後には大笑いし始めたシロウに、シーナはむぅと唇を尖らせる。
「何笑ってんだよっ!」
「だってよぉ、お前なぁ、そんなこといきなり言われて、はいそうですかって手を出せる男がいると思うか?だいたいハンフリーの旦那は若返ってて、お前とそういう仲だってことも知らねぇんだろうが。無理無理、そんなの普通に考えりゃすぐ分かるだろ」
「分かってるよ!でもしたかったんだ。25歳のハンフリーに……ちょっとだけでもいいから抱いて欲しかったんだ」
 すごく我侭を言ってる自覚はある。
 35歳のハンフリーだけではなく25歳のハンフリーのことも欲しいと思うなんて馬鹿げてる。そのうちハンフリーは元に戻って、25歳の記憶はなくなるということは分かっているのに、それでも、同じように自分のことを好きだと思って欲しいだなんて。
「馬鹿みたいだ、俺……」
「ああ?」
「俺ばっかりハンフリーのこと好きになってる」
 シーナは小さくつぶやくと、ころりと横になった。
 小さな子供のような仕種を見せるシーナに、シロウは目を細めた。
 あの堅物のハンフリーが、どうしてシーナをそばに置くのか分かるような気がした。
 シーナは自分に正直で、気持ちを隠すことがない。我侭で、欲しいものが手に入らないとすぐに拗ねる、どこまでも甘やかされた放蕩息子だが、それでもシーナは一緒にいるととても優しい気持ちになれるのだ。
 つい抱き締めてしまいたくなるほどに。

(ハンフリーの旦那、上手いことやったよなぁ…)
 
 だいたい誰があのハンフリーがシーナと深い仲になるなんて思うだろうか。そしてふらふらと遊んでばかりいたシーナが、まさかこんなに純情だったなんて、いったい誰が思うだろう。
 結局、ハンフリーはちゃんと人を見る目があったのだ。
 そしてシーナも自分にとって大切な人を見抜く力を持っていたのだ。
「ま、辛いならしばらく会わねぇこった。そのうち旦那も元に戻るだろうさ」
 シロウは少しばかり悔しいような気持ちになって、半ば吐き出すように言い捨てる。
「………」
 つまんねぇこと考えてねぇで、さっさと寝ろよ、と言い、シロウは部屋の灯りを落とした。
 すぐにシロウの寝息が聞こえてくる。シーナは勝手に部屋を飛び出してしまったことを少しばかり後悔していた。たぶん、ハンフリーは心配している。いつものハンフリーならそうだと思う。
 だけど今のハンフリーはハンフリーじゃない。いきなり抱いてくれなんて言い出した自分のことなど、呆れているに違いない。だから追いかけてもこなかったのだ。
「……あーあ、もうやんなっちゃう」
 シーナはぎゅっと目を閉じてハンフリーのことは考えないようにしようと思った。



 翌朝。いつもなら昼まで寝ているシロウが珍しく早起きをして、レストランへ行くシーナに付き合ってくれた。
「どら、俺も若くなった旦那ってのを拝んでみようかな」
 どうやらそれが目的だったようで、ニヤニヤと手揉みしつつ、シロウがあたりを見渡す。
 シーナは今朝ばかりはハンフリーと顔を合わせたくないと思っていた。昨日の今日で、いったいどんな顔をすればいいというのだ。
「お、きたきた」
「……っ」
 レストランに入口に姿を見せたハンフリー。シーナは思わず身を竦めて俯いた。
 レストランにいた連中は10歳若返ったハンフリーの姿をちらちらと眺める。何しろこんな珍事は滅多にあるものではない。腰を浮かせ気味にしている連中さえいるほどだった。
「あー、確かに若くなってるなー。へぇ、変わったことが起きるもんだ」
 シロウが面白そうにうなづく。入口付近で中の様子を窺っていたハンフリーは、シロウとシーナの姿を見つけると、迷うことなくテーブルの間をすり抜けてやってきた。
 二人が座る席の脇で立ち止まる。10歳若返っても変わらない無愛想な表情にシロウの方が苦笑する。
「よぉ、旦那……って言っても俺のことは知らねぇか。俺はシロウだ、よろしくな」
「ああ……」
 ハンフリーは軽くうなづくと、シロウの隣で俯いているシーナへと視線を移した。そっぽを向いて気づかないふりをしているシーナにハンフリーは眉をしかめる。
「シーナ」
「………」
「シーナ、話がある」
「俺は……話なんてないし……。昨夜のことなら、ほんと忘れちゃってくれていいから」
「だが……」
 シーナはぱっと顔を上げると、無理矢理作ったような笑顔をハンフリーに向けた。
「やだなー、本気にしたの?あんなの冗談に決まってんじゃん。真面目なあんたがどういう反応するか見てみたかっただけだって。あー、そうそう、俺しばらくシロウのところで寝起きするからさ。あんた、一応病人なわけだし、一人の方がゆっくりできるだろ?」
「シーナ、俺は……」
「いいからいいから。気にしなくてもいいって。元に戻ったらさ、また……」
 また一緒の部屋で暮らそう、と言いかけてシーナは口を閉ざした。

(元に戻らなかったら?)

 ふいに胸の奥をそんな不安が過ぎったのだ。
 フリックもマイクロトフも、時間がたてば元の姿に戻った。だから大丈夫だと勝手に思っているけれど、ハンフリーがちゃんと元に戻るなんて保証はどこにもないのだ。
 ずっとこのままだったら?
 25歳のまま、シーナのことを忘れたままだったら?
 それは……死にたくなるほどに辛い。

(あ、だめだ……泣いちゃいそうだ……)
 
 シーナはきゅっと唇を噛み締め、黙ったままのハンフリーを見つめた。
 目の前にいる25歳のハンフリー。まるで別人なのに、やっぱり大好きで、本当はずっと傍にいたいと思っている。本当は自分のことを忘れてしまったハンフリーでも傍にいたいと思ってるのに、それを口にすることができない。
 ハンフリーが一緒にいたいと言ってくれればいいのに。
 そうしたら、一も二もなくついてくのに。
 しかしシーナの願いはあっさりと裏切られた。
「分かった」
 そっけないハンフリーの一言に、シーナはどきりとした。
 ハンフリーは、シーナの我侭ならたいていのことは黙ってきいてくれるが、それでも、それがシーナの本心の言葉かどうかはすぐに見抜いてくれた。
 そして本心ではないと見抜いたことには、絶対に動こうとはしなかった。
 それなのに、25歳のハンフリーは、シーナの嘘さえ見抜けないのだ。
 それほどまでに、二人の距離は離れてしまっているのだ。
 ハンフリーは二人のやり取りを珍しそうに眺めていたシロウに向かって言った。
「俺のせいで迷惑をかけることになるが、しばらくの間シーナと同室でかまわないか?」
「え、あ、ああ、こっちは全然かまやしねぇが……だが……」
「じゃあ頼む」
 それ以上何も言わせない強引さで、ハンフリーは話を切り上げる。
 10歳若返っても妙な迫力を持つハンフリーに、シロウはそれ以上何も言えずに口を閉ざした。くるりと背を向け、その場を去っていくハンフリー。シーナはがたっと音を立てて立ち上がった。けれどハンフリーは振り返ることはなかった。



「よぉ、シーナ」
「………」
「あのよぉ、いつまでそうしてるつもりだよ」
「………」
「このガキ…、終いには怒るぞっ!」
 一向に返事を返そうとしないシーナに切れたシロウは、どかどかとベッドに近寄り、顔を伏せたままの彼の肩を掴んだ。
「………あーあー、お前なぁ……ひでぇ顔して……」
 涙でぐっしょりと濡れたシーナの頬はもちろん、同じようにぐっしょりと濡れた自分の枕に肩を落として、シロウはシーナの白くて柔らかな頬をぎゅーっと摘んだ。
「痛いっ」
「ったく、てめぇは…ほんっとにガキだな」
 やれやれとシロウは溜息をつき、ベッドの端に腰掛ける。
 レストランでハンフリーに置いてけぼりを食らわされたシーナは、部屋に戻ってきてからずっとぐずぐずといじけ続けているのだ。
 そばで宥めすかす自分の身にもなって欲しい、とシロウはうんざり顔である。
「だいたいよ、てめぇが先に言ったんだろうが、旦那のために部屋を出るってよー。それなのに何で泣く必要があるんだ?え?嫌なら戻ればいいだろうがー」
「戻れるならとっくの昔に戻ってる!けど仕方ないだろ!ハンフリーは…」
「おめぇのことは綺麗さっぱり忘れてるもんな!けど、それが何なんだよっ!好きならそう言えばいいし、そばにいたいんなら、そうすりゃいいだろ!こんなところで一人めそめそしてるよりはずっと建設的だと俺は思うがな!違うか?!」
「………っ」
 シーナは反論できずに口を閉ざした。シロウの言うことはいちいちもっともで、シーナだって本当はそうすればいいと分かっているのだ。そうできればい一番いいのだけれど。
 シロウはそれまでとは違う、妙に優しい声でシーナに尋ねた。
「よぉ、何がそんなに難しいことなんだ?抱いてくれーなんてとんでもねぇこと口にすることに比べたら、俺はお前の恋人だ、だから一緒にいたいって言うことの方が何倍も簡単だと思うんだがよ」
「うん……」
「ここでうだうだやってたって、何も状況は変わったりしねぇぞ。ま、元に戻るまで大人しく待ってるって言うなら話は別だけどよ」
「うん……だけどさ……」
「何だよ?」
 シーナは両足をベッド上で抱え込み、膝の上に顎を置いてくすんと鼻を鳴らした。
「そりゃ、好きだって言うのはすっげー簡単だと思う。「俺はあんたの恋人だ」って口だけなら、いくらでも言えると思う。けどさ、俺、そう言った時にハンフリーがどんな顔するか分かるからさ」
 本当のことを口にしようとすると、初めてハンフリーに好きだと言った時のことを思い出すのだ。
 一方的に好きになって、強引にハンフリーに好きだと言った時のことを。
 その時、ハンフリーは呆気に取られたような、信じられないといった顔をしたあと、まるで子供のいたずらを見咎めるような表情で、シーナの想いを拒絶した。
 至極当たり前の常識を持ち出して、シーナのことを拒絶したのだ。
「何も知らないハンフリーはさ、きっと同じような反応をするよ。昨夜だってそうだった。そりゃ当然なんだろうけど、俺、またハンフリーに振られるのはやなんだよ」
「シーナ…」
「絶対やだ。好きだって言って、受け入れられないのは絶対やだ。25歳のハンフリーも、俺のこと好きだって言ってくれなきゃやだ。あいつは俺のもんだもん!」
 やっと手に入れた人なのだ。
 何よりも大切で、何者にも変えがたい大事な人なのだ。
 だから、もう二度と拒絶されたりするのは嫌なのだ。
「……けど、それはおめぇの思い込みかもしれねぇだろ?」
 シロウが片手を伸ばしてシーナの髪をかき上げる。
「おめぇはハンフリーしかだめだって思い込んでるみてぇだけどよ、それが間違ってることだってあんだろうが……」
「どういう意……」
 問い返そうと顔を上げたシーナに、シロウが顔を近づけてくる。有無を言わせず押し当てられた唇の温もりに、シーナは大きく目を見開いたまま固まってしまった。
 きゅっと首筋を捉まれ、角度を変えて深く口づけようとするシロウの腕を押さえるものの、離してもらえそうな気配がない。
 久しぶりのハンフリー以外との口づけは、シーナをひどく混乱させた。それはまるで知らない行為のようにさえ思えたのだ。ハンフリーとは違う、ただそれだけで、どうしてこの行為はこんなに乾いたものに思えるのだろう。
 しばらく後に唇が離れると、シロウはシーナの顔を覗き込んだ。
「…なぁ、おめぇはハンフリーの旦那しか見えてねぇみたいだが、そりゃたまたま真面目に相手をしたのがハンフリーだったってだけで、おめぇにぴったりな相手は、本当は違うかもしれねぇだろ?」
 だから試してみねぇかと笑うシロウに、シーナは一瞬きょとんと目を見張ったあと、くすっと笑った。
「………いや、やっぱりハンフリーじゃなきゃだめみたいだ」
「何でだよ?」
 シーナはするりとシロウの腕からすり抜けると、すとんと床に両足を下ろした。
「だってさ、何も感じないんだもん」
「ああ?」
「うん、何も感じない。あ、言っておくけど腹は立ってるぞ、でも、キスしても…何ていうか、どきどきもしないし、何も感じないんだよなぁ……」
「お、お前なぁ……」
 がっくりとシロウは項垂れた。キスしても何も感じないだなんて、これほど男のプライドを傷つける言葉があるだろうか。そういうことを平気な顔をして言うあたりがシーナらしいといえばそうなのだが。
「……立ち直れそうにねぇ」
「あはは、いや、落ち込むなよ。あんたも上手だって、だけどさ、ハンフリーの方がもっと上手なんだよなぁ」
「ぜんぜん慰めになってねぇ!」
 うっとりとつぶやくシーナにシロウは信じられないというように目を見張った。
 さらに落ち込むシロウを余所目に、シーナは深々と溜息をついた。
「そっか…そうだよな……俺、やっぱりハンフリーのことが好きなんだよな」
「何だよ、そんなこと今さらしみじみ言うんじゃねぇよ、この状況で」
「すっごく好きだから、拒絶されるのは我慢できないし、俺のこと好きだって言って欲しいし。うんと上等なキスだってして欲しいし……」
 じゃあどうする?
 黙ってハンフリーが元に戻るのを待っていることだってできる。それが一番簡単で、傷つかない方法なのだろう。だけど、やっぱり全部欲しいのだ。
 けれど、25歳のハンフリーのことも欲しい。
 だとすれば、自分が動くしかないのだろう。
 忘れたのならば思い出させればいい。思い出せないのなら、また一から始めればいい。
 また振られても?
「シロウ、俺、ちょっと行ってくる」
「ああ?どこ行くんだよ」
「ハンフリーんとこ。上手くいくように祈ってて」
「……俺にそれを言うか、おめぇはよ」
 やってらんねぇ、とシロウは今までシーナが横たわっていた自分のベッドに突っ伏した。ばたばたと騒がしい音をさせてシーナが部屋を出て行ったあとの静かな部屋で、シロウは大きく溜息をついた。
 ここまでいいようにあしらわれても腹が立ったりしないのが不思議だった。
 どうやらけっこう本気でシーナのことを気にいっているらしい自分に気づいて、シロウはやれやれと溜息を洩らす。
「ったく、あんなじゃじゃ馬、ハンフリーじゃなきゃ乗りこなせねぇってか……」
 負け惜しみのようにつぶやいて、シロウは口元に笑みを浮かべた。



 シーナが部屋を出て行くという。
 それが彼の本心でないことくらい、ハンフリーにはすぐにわかった。悲痛な面持ちのシーナを見ていれば、そんなことくらいすぐに分かる。
 それでも、彼を引きとめることはできなかった。
 引きとめるには、自分にはあまりにも情報が少なすぎる。
 そして、胸の中で燻っている名前のつけようのない感情をもて余しすぎている。
「ビクトール」
 振り返った傭兵の男は、ハンフリーを見ると人を食ったような不敵な笑みを見せた。
「よぉ、どうした、何か困ったことでもあったか?」
 そんなに深刻そうな顔をしているだろうか、とハンフリーは思った。自分が他人からどう見られているかなど考えたことはないので、どうやら自分がいつもしかめっ面をしているという自覚のないハンフリーである。
「確認したいことがある」
「ああ?何だ?」
 聞くべきことはただ一つである。
 ハンフリーは一つ深呼吸をすると、自分の元から逃げ出そうとした青年の名を口にした。



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