愛する想い 愛される願い 5


<28歳の俺は……>


 「いてっ」
 消毒液を染み込ませたガーゼが唇に触れたとたん、フリックはびくりと身を強張らせた。
 同盟軍本拠地内にある医務室だった。
 普段から人の出入りの絶えない場所の一つではあるが、いつもホウアンの手伝いをしているトウタは、早い夕食を食べに行っていたため、中には医師であるホウアン一人しかいなかった。
 そのホウアンと膝を突き合わせて、椅子に座るフリックの頬に手をやったホウアンは、まじまじと口元の傷を診ていた。唇の端から滲んだ血を丁寧にぬぐうと、フリックは再び小さく声を上げた。
 ホウアンは、その様子に小さく笑った。
 人の良さそうなその笑みに、フリックはちょっとむっとしたように唇を尖らせる。
「何で、笑うんだよ」
「いえいえ、フリックさんて、若い頃は素直だったんだなぁと思いまして」
「な、何だよ、それ…」
 いきなり思いもかけないことを言われ、フリックは見るからにうろたえたそぶりを見せる。そんなフリックにホウアンは優しい笑みを浮かべ、手にしていたガーゼをゴミ箱に捨てた。
「いえ、私の知っているフリックさんは、こちらが顔を背けたくなるほどの傷を負っていても、痛いなんて言うような人じゃなかったので…いえそれがいいって言っているじゃありませんよ。むしろ医者としては痛い時には痛いと口にしてもらったほうが治療しやすいんですから。ですから、可愛いなぁと」
「は?」
「ですから、可愛いなぁ…」
「わーっ!!!」
 フリックは真っ赤になってホウアンの言葉を遮った。その様子を傍で見ていたビクトールは、肩を揺らして笑いを堪えていた。
 先日、妙なモンスターの魔法のせいで10歳も若返ってしまったフリックは、若返ったということ以外にはどこも悪いところもなく、かといって、下手に動かれて何かあっても困るという中途半端な生活を強いられていた。
 いい加減退屈をもてあましていたフリックは、渋るビクトールをねじ伏せて、近くに現れたというモンスター退治に同行していたのだが、ちょっとしたことでケガをしてしまい、こうして本拠地に戻りホウアンの治療を受けているというわけだった。
 打ち身と、数箇所の擦り傷程度の怪我だったが、心配したビクトールに無理矢理連れてこられたのだった。
「可愛いなんて言わないでくれ」
 不機嫌な声を出すフリックに、ビクトールは可愛いんだから仕方ねぇだろ、と思ったがそれは口にはしなかった。
「まったくなぁ、若い頃はこんなに素直で可愛いってのに、一体いつから意地っ張りになっちまうんだろうな、こいつは」
 ビクトールがフリックと出会った頃、すでにフリックは意地っ張りな性格をしていた。
 もちろん素直じゃないところも可愛いとは思うが、今みたいに、思ったことを素直に口にするフリックを見ると、それはそれで可愛いと思ってしまうのだ。
 18歳から自分と出会うまでの間に、いったい何があったんだかなぁと首をひねってしまう。
「ビクトール!笑うなっ!」
「はいはい、どら、見せてみろ」
 ビクトールが治療の終わったフリックに近づき、くいっとその顎に指をかけて上を向かせる。そしてホウアンが手当てをした傷を確かめるようにして指先でなぞった。
「いっ……だから、痛いって言ってるだろっ!」
 触れられるとじくりと痛む口元に、フリックが逃げようと身体をひねる。
「たいしたことはねぇな。しばらく大きな口開けて笑うなよ」
「……わかったよ」
 ぱんとビクトールの手を払い、フリックが立ち上がる。
「あんまり無茶しないでくださいね、今は普通の状況じゃないんですから」
 まだ、どうすれば元に戻るか分からず、医師として何の役にも立てないでいることに、ホウアンは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。これで、フリックが下手に怪我でもしたら申し訳が立たない。
 心配そうなホウアンに、フリックがにっこりと笑う。
「ああ、ありがとう」
 少年らしい爽やかな笑顔で礼をいうフリックに、ビクトールはやれやれと肩を落とす。

(犯罪だ)

 そんな風に、誰彼なく笑いかけるのは犯罪だ、とビクトールは舌打ちしたい気になる。
 マチルダからやってきた騎士二人と「美青年攻撃」なんてふざけた名の協力攻撃をさせられているだけあって、フリックは整った顔立ちをしている。
 別に綺麗だとか女性的だとか、そういう意味ではなく、同じ男から見ても、フリックは男前だと思う。若返ってしまったフリックは、ちょうど子供から大人へ移り変わる、見ていて切なくなるほどの微妙な雰囲気を持っていた。
 まだ何も知らないフリックを見ていると、どうしようもなく手を伸ばしたくなる瞬間がある。
 たとえば、無防備に他人に笑顔を見せたりすると。それは、ビクトールがこれから彼の身に起こる数々の出来事を知っているせいかもしれない。
 何にしろ、そのあまりの子供っぽい笑顔を見ていると、ビクトールはおかしな気分になってしまうのだ。

(よせよ、ガキには興味ねぇだろ……)

 それでも、やがてかけがえのない存在になるフリックは、18歳の今でも、ビクトールにとってはやはり大切な人には違いなくて。
 理性と本能のせめぎ合いで、ビクトールは日に何度も溜め息をついてしまうのだ。
 治療が終わると、フリックは壁に立てかけてあったオデッサを手に、ビクトールを置いたまま医務室を出ようとした。
「お、おい、待てよ」
 ホウアンに軽く手を上げて、慌ててビクトールはフリックのあとを追う。
「待てって、フリック、お前なー、あんまり無茶すんなよ。今度あんなことしたら、しばらく外には連れていかねぇからな」
「何でだ?別に迷惑はかけてないだろ」
 ぴたりと足を止め、フリックがビクトールを睨む。
 何でってなぁ…とがしがしと頭をかきながら、ビクトールが舌打ちをした。
 以前から何度も戦闘に連れて行けとうるさかったフリックを、ずっとだめだと宥め続けていたビクトールだったが、それも限界に達して、とうとう今日、モンスター狩に連れていったのだ。
 しかし、ビクトールの不安は的中した。
 とにかく、今日のフリックの張り切りようは大変なもので、出くわすモンスターを片っ端から片付けていった。
 フリックの剣の腕は若くてもなかなかのものだったが、とにかく無鉄砲だった。
 普通なら見逃すレベル5程度のモンスターまで追いかけ、逆に、普通なら絶対に深追いしたりしないモンスターにも手を出す始末。その度ビクトールは慌ててそのあとを追った。
 いつもなら、ビクトールとフリックは無意識のうちに役割分担をして敵に向かっていくのだ。
 お互いがお互いをサポートする絶妙の息で、この辺りにいるモンスター相手になら恐い思いなどしたことはない。しかし、今のフリックは違った。
 ビクトールと共に戦ったことのない18歳のフリックは、まるで誰のことも信用していないかのように、自分の力だけで敵に向かっていく。
 ビクトールの助けを拒絶し、ひたすらに己のやり方を押し通そうとするフリックを、とうとうビクトールは怒鳴りつけた。

『お前は一人で闘ってるつもりかっ』

 と。
 一緒にいた他の連中が一瞬黙り込むほどの怒鳴り声だったが、フリックは怯んだ様子も見せず、ふんと鼻で笑って言った。

『戦いで頼れるのは自分の腕だけだろうが』

 その言葉に、ビクトールは唖然としてしまった。
 そして改めて思い知らされた。ここにいるのは28歳のフリックではないのだと。
 28歳のフリックなら、こんな台詞は絶対に言わないであろう。
 いや、もちろん言っていること自体は間違ってはいない。
 戦いの中で、最後に頼れるのは結局自分だけだ。自分の腕を正しく理解して、信用しなければ剣など振るえない。けれど、過信しすぎるのは危ないことだ。そして、仲間を信頼しないことも自滅行為に等しい。特にパーティーを組んで戦いに挑んでいる時は。
 フリックは、まだそれを経験していないのだ。
 確かにこういうことは頭で理解できることではない。これから数えきれないほどの戦いをくぐり抜け、生き残っていくうちにそれを知るのだろう。
 剣の腕はおそらく28歳のフリックとたいして変わらない。
 もちろん、成熟した男の力や、こなれた動きはまだない。それでも充分に戦士として通用する腕を持っている。
 けれど、今のフリックはあまりにも幼い。
 剣を手にし、戦いの場に挑む為に必要な何かが、彼にはまだない。
 それが、ここにいるフリックはビクトールの知らないフリックなのだと思い知らされるようで、少し戸惑ってしまうのだ。
「フリック……お前、もう少ししたら村を出るんだろ」
 ビクトールが再び歩き出したフリックの後ろから問い掛けた。
 それが戦士の村の慣わしだ。
 突然のビクトールの問い掛けに、フリックはきょとんと目を瞬かせたが、すぐに破顔した。
「ああ、もちろんだ」
「じゃあ、お前は……何のために剣を振るう?」
「…………」
 ぴたりと足を止め、フリックはじっとビクトールを見つめ返した。どうしてそんなことを聞くんだ、というような瞳。
 その目は相変わらず澄んだ青で、ビクトールは思わず見惚れてしまう。
「剣を振るうのに、理由がいるのか?」
「……どうかな……。少なくともオレの知ってるお前には、何かがあったように見えたがな」
「…………」
 フリックは軽く肩を竦めた。そして、何か遠いものを思い出すような口調でぽつぽつと言った。
「ビクトール、俺は剣を手にすることが当たり前で、戦士になるのが当然だとして育ってきた。そこには何の理由もなかったんだ」
 本拠地の入り口へ視線を向け、外へ出るか?と目で問うと、フリックはうなづいた。すっか日が落ち、虫の声がうるさいくらいに聞こえていた。そろそろレストランから酒場へと人が移動する時刻で、賑やかな声が聞こえる。
 涼しい風が心地良く、二人はぶらぶらと中庭を歩いた。
「ただ、強くなるためだけに、剣を振るってきた。だけど、村を出る時期が近くなるにつれ、あんたが言うように、俺はその意味を考え始めたよ。これから先、俺は何のために戦うんだろうって。自分を守るため、村を守るため、何より生きていくため……」
「………」
「だけど、どれも、何かが違うような気がするんだ。間違ってはいないと思う。だけど、もっともっと大切なことがあるような気がする。それが何なのか、俺はまだ分からない」
「………」
 フリックはビクトールを振り返り、どこか不敵な笑みを浮かべて言った。
「なぁ、28歳の俺は、何かを掴んでたか?」
 ああ、とビクトールは思った。
 フリックは探していたのだ。
 自分が戦う理由を。
 そして村を出て、オデッサに出会い、フリックは誰かを……大切な誰かを守ることの意味を知る。
 そこに剣を振るう価値を見出す。
 本当の強さが何なのか、本当に大切なことは何なのか。
 それは言葉で語れるものではなく、そして誰にでも同じものではないのだ。だから見つけることは容易いことではないけれど。
 けれど、それを無しにして、前へは進めないから。
 だからこそ、人は苦しみ、涙を流しても求め続けるのだ。
「ビクトール……」
 目の前のフリックは、今からそれを一つ一つ掴み取っていくのだ。
 そう思うと、何故かわけもなく胸が熱くなった。
 28歳のフリックは……ビクトールの知っているフリックは……たぶん……
「ビクトール……」
「うん?」
 黙り込んだビクトールに、フリックはどこか淋しそうに笑った。
「なぁ……今の俺と28歳の俺は、そんなに違うか?」
「え?」
「あんたは俺を見るたびに、そういう目をする。『これはフリックじゃない』って、そんな風に俺のことを見る」
「そんなことは……」
「俺が何かをすると、どこかがっかりしたような顔してる。俺の知ってるフリックなら、こんなことはしないのにっていうような」
 ビクトールはフリックの言葉に呆然とした。
 確かに、心の中でそう思ったことはある。
 例えば今日の戦闘中。日常を離れた戦い場で、その違和感はビクトールを打ちのめした。今のフリックにがっかりしているわけじゃない。ただ、自分の知っているフリックとはあまりに違うから。だから、どうしても思ってしまうのだ。けれど、まさかフリックに気づかれるくらい表情に出ていたなんて。
 内心うろたえるビクトールに、フリックがぽつりとつぶやいた。
「……ごめんな。あんたの大事な相棒じゃなくて、さ」
「………っ!」
「ヘマやった28歳の俺に代わって、一応謝っとくよ」
 でも、今の俺にはどうすることもできないから。
 ごめんな。
 フリックは微かに笑って、立ち尽くすビクトールの横を通り過ぎた。
 遠ざかる足音に、ビクトールは低く唸って振り返った。
「フリックっ!!」
「?」
 大声で呼ばれ、フリックは足を止める。
「お前が、どんな姿になろうと、お前はお前だ。俺の、大事な相棒に違いはねぇっ!俺は、お前のことが……っ」
 好きだと言いかけて思いとどまった。
 何かがビクトールを押し留めた。
 フリックはちょっと照れたように、笑った。
「ありがと。とりあえず、元に戻るまでよろしくな、相棒」
 軽く手を上げ、フリックは城の中へと戻っていく。
 大切な相棒だ。
 そして、何より愛しい恋人だ。
「……返してくれ」
 ビクトールは誰へともなくつぶやいた。
 初めて、心から思った。
 フリックを返してくれ、と。


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