愛する想い 愛される願い 9


<28歳のフリックを……>


 静まり返る城の中をめくら滅法に走りぬけた。
 堪えようとしても溢れる涙で視界がぼやけ、何度も転びそうになる。
 やがて、フリックは息苦しさに立ち止まり、冷たい石の壁に手をついた。
「ふ……っ…く……」
 大きく一度しゃくりあげて、片膝に手を置いて、息をつく。
 一体どうしてこんなことになったのか、いくら考えても理解できなかった。
 一度にいろんなことが襲い掛かってきて、すでに頭の中はパニックになっている。
「何で……」
 震える指先で自分の唇をなぞった。そこに残る唇の感触に、かっと頬が熱くなる。
 ビクトールに抱き締められ、唐突に口づけられた。同じ男に、それもビクトールに、あんなことをされるなんて夢にも思っていなかったフリックは、本当に死ぬほど驚いたのだ。
 それでも……乱暴な口づけだったのに、何故かそれはよく知ったもののような気がした。
 押し付けられた唇も、濡れた舌の感触も、フリックの中の何かを震えさせた。
 自分の中の、何かが反応した。
 それが恐くて、思わずビクトールを突き飛ばしてしまった。
「ちくしょう……」
 再び涙が溢れそうになって、フリックはぐいっと腕で目元を拭った。
 とりあえず部屋には戻れない。いや、戻りたくない。
 今、ビクトールの顔を見たら、どんなことを口走ってしまうか予想ができない。
 フリックはとぼとぼと宛てもなく暗い廊下を歩いた。



 フリックが部屋を飛び出した後、しばらく己の身勝手さに打ちのめされていたビクトールだったが、やがて我に返り、同じく部屋を出た。
 今のフリックに行くところなどないのだ。フリックが安心して眠れる場所はこの部屋だけなのに、その居場所さえ奪ってしまった。

(最低だ……)

 ビクトールは自分に舌打ちすると、しんと冷えた廊下を早足に歩いた。
 探し出さなくてはいけない。
 それは10歳若返ってしまったフリックへの義務感なのか、それとも28歳の相棒への愛情なのか、今のビクトールにはもう分からなかった。
 目にいっぱい涙を溜めて叫んだフリックの言葉が頭から離れない。

(俺はあんたのフリックじゃないっ!あんたが好きなのは……俺じゃないだろっ)

 そうなのだろうか?
 さっき口づけたフリックは、本当のフリックではないのだろうか?
 では、自分が愛したフリックはいったいどこへ行ってしまったというのだろう。
 いや、違う。
 たとえ姿が変わったとしても、フリックはフリックだ。
 大事な人だということに違いはない。
 でなければ、あんな風に抱き締めたいと思うはずがない。
 好きなのはフリックだ。
 それが18歳であろうと、28歳であろうと関係はない。
 何とかフリックを見つけ出して、それをきっちりと説明しなければいけない。
 ビクトールはすれ違う連中にフリックを見かけなかったか、と声をかけながら城を中を歩き回った。
 だが、どこにもフリックの姿はない。
「おや、忘れものかい?」
 再び酒場に姿を見せたビクトールに、レオナが驚いた表情をみせる。きょろきょろと店内を見渡しながら、ビクトールはカウンターへと近づいた。
「いや……なぁ、フリック来なかったか?」
「フリック?さぁねぇ、あれからは来てないけど?」
 そうか、とビクトールは肩を落とした。ここにいないとすれば、あとはどこを探せばいい?すでに深夜となった今、一人一人の部屋の扉を叩くことはさすがのビクトールにも憚られた。
「どうしたんだい、死にそうな顔して」
 まぁ座りな、とレオナがビクトールを促す。そろそろ店じまいの時間となっているせいか、酒場にはほとんど人はいないかった。有無を言わせないレオナの迫力に負けて、ビクトールは諦めたようにスツールに腰を下ろした。
「フリックと何かあったのかい?」
 ビクトールはやれやれ、と肩をすくめた。
 天性とも言うべきレオナの鋭さにはいつも敵わないのだ。砦にいる時から、レオナはいつもこうしてビクトールやフリックの話相手になってくれている。外見はこの上なく美しく色っぽい女だが、中身はどうして男顔負けの気丈さで、決して押し付けるのではなく、淡々と的確なアドバイスをくれる彼女の信奉者は多い。
 ビクトールはどうしたものか、としばらく考えたあと、ぽつりと言った。
「あー、失敗した」
「失敗?」
 レオナが酒の入ったグラスを手渡し、カウンターに肘をついた姿勢でビクトールを眺める。
「………ちょっとばかり…手ぇ出しちまった」
「……………あんたね……」
 はーっと大仰に溜め息をついて、レオナがじろりとビクトールを睨む。
「いったい何を考えてるんだい。そりゃもう何週間もお預け食らわされてるあんたの気持ちも分からないでもないけど、あの子はまだ18歳の子供なんだよ」
「分かってる」
「分かってて手ぇ出したんなら、なおさら悪いね。で、フリックは飛び出してって、あんたは今血相変えて探してるって?自業自得だね」
 ぴしゃりと切り捨てるレオナに、ビクトールはうなだれた。
「………きつい女だな」
「本当のことだろう。まったく……まぁフリックのことだから、そんなに心配しなくても大丈夫だろうけど……あの子、あんたのことずいぶん慕ってたからね、何やったのか知らないけど、ショックだったんじゃないのかねぇ」
 ふーっと煙管の煙を吐き出し、レオナが緩く首を振る。未遂だった、と弁解するビクトールをひと睨みして黙らせると、レオナは自分も飲まずにはいられないとばかりにグラスに酒を注いだ。
「レオナ」
「何だい」
「俺は、あいつがどんな姿になったって、やっぱり……あいつのことが好きなんだ」
「………そうかい」
「でも、あいつは言ったんだ……『ごめんな』って……」
「………」
 ビクトールは片手で前髪をかき上げると、そのままカウンターに頬杖をついた。
「あいつは、俺が……どこかで「18歳のフリック」と「28歳のフリック」を比べていることに、敏感に気づいていた。まったく、元のあいつはあんなに鈍いくせによ、何だってああ妙に鋭いのか分からねぇ。確かに俺は「18歳のフリック」の言うことや、することに、どうしても違和感を感じないわけにはいかなかった。しょうがねぇだろ、別に嫌いだって言ってるわけじゃねぇ、ただ「28歳のフリック」が、あんまり俺にとっちゃ当たり前だったから……どうしても、それを求めてしまう。けど、どんな姿になったって、あいつはあいつなんだからよ、そんな気になったって仕方ねぇだろ」
 酒場にいた最後の客が、カウンターに金を置くと、レオナに手を上げて出て行った。
 二人だけになった酒場は急にしんと静まり返った。
 レオナはカウンターの中から出ると、ビクトールの隣に腰掛けた。すらりとした見事な脚がドレスのスリットから見え隠れする。
「ビクトール、あんた、矛盾だらけだね」
「………?」
「あんたは、「18歳のフリック」と「28歳のフリック」は違うって言いながら、そのくせ、今のあの子に、28歳のフリックと同じような愛情を求めてる。そりゃあちょっと自分勝手すぎやしないかい?今のあの子は、あんたの求めてるフリックじゃあない。一方で違うことに落胆して、一方でそれでもいいから抱きたいなんて、呆れてものも言えないね」
 レオナの言葉に、ビクトールはしばし呆然としてしまった。
 どんな姿になっても、フリックはフリックだと言いながら、それでもどうしても感じてしまう違和感に心のどこかで失望してはいなかったか?
 素直で、誰にでもよく笑うフリックを愛しいと思いながらも、自分の知っているフリックなら…といつも比べてはいなかったか?
 そんな自分のことを、フリックはどんな気持ちで見ていたのだろう。

(ごめんな)

 あれは……
 
「………っ」

 フリックはどんな気持ちで、あの言葉を言ったのだろう。
 ビクトールは打ちのめされたような面持ちで、ぎゅっとグラスを握り締めた。
「レオナ……俺は……」
「ビクトール……」
 レオナは白い指をビクトールの腕にかけると、とびきりの優しい声で言った。
「……あんたの気持ちも分かるさ、いきなり相棒があんなことになっちまって、混乱しない方がおかしい。だけどちゃんと分かるように言ってやらなきゃ、あの子は分からないよ。それでなくても鈍い子だ。あんたのことを慕ってるだけに、あんたが「28歳のフリック」ばかり求めてるのは辛いんじゃないかと思うよ。あんたが何やったか知らないけど、その意味も、あの子は分かってないんじゃないのかねぇ」
 ああ…とビクトールはうなだれる。
 そうだった。
 28歳のフリックになら何も言わなくても分かることでも、今のフリックにはちゃんと言葉にしてやらなければいけないことがたくさんあるのだ。
 どうして、気づかなかったのだろうか。
 がしがしと髪をかきむしり、やがていつもの不敵な笑みを浮かべて、ビクトールは空になったレオナのグラスへと酒を注いだ。
「悪ぃな、いつもいつもつまんねぇ話ばかり聞かせてよ」
「まったくだよ」
「しっかし、こんないい女なのに、何で未だに独り身なのかね」
「うるさいよ、あんたはいつも一言多いんだ」
 ぴしりと言い返され、ビクトールはからからと笑った。
 あのフリックを納得させるのは至難の業かもしれない。それでも、誤解されたまま、時間だけが過ぎて、やがて元に戻って、何もなかったかのようにされるのだけはごめんだった。
 たとえ、元に戻るにしても、ちゃんと気持ちは伝えておかなくてはいけない。
 フリックのことが好きだから。
 それだけは、何があっても変えようのない事実だから。
「なぁレオナ」
「何だい?」
「……俺は、今のあいつも可愛いと思うけどよ、やっぱり28歳のあいつが一番可愛いと思うんだがな」
「……まぁ、そりゃあ同感だけどね」
 くすくすとレオナが笑う。
 ビクトールはグラスを空けると、レオナに礼を言い、再びフリックを探しに酒場をあとにした。





 きぃっと軋んだ音をさせて扉を開けてみる。
 そっと中を覗いてみると、しんと冷えた空気が頬に触れた。インクの匂いと、どこか黴臭い紙の匂い。フリックはするりと中に滑り込むと、後ろ手に扉を閉めた。
 どうやらここは図書室のようで、いくつもの棚に分厚い本が並んでいた。
 初めて訪れた部屋だったが、ここなら誰もいないだろうと、ほっと胸を撫で下ろしてフリックはぶらりと中を一回りした。決して広い部屋ではないので、すぐに中の様子を把握して、今夜はここで一晩を過ごそうと心を決める。
「ったく……何で俺がこんなとこで……」
 フリックは寒さに身をすくめ、窓にかかっていた古ぼけたカーテンを外した。ぐるぐると身体に巻きつけて、部屋の隅に座り込む。
 目を閉じると、嫌でもビクトールのことを考えてしまう。
 何も分からない自分のことを、相棒だと言ってそばにいてくれた。
 優しく頭を撫でる仕種や、軽い冗談、時折見せるどこか困ったような表情、どれも居心地のいいものばかりで、フリックは知らないうちにビクトールに甘えていた。
 自分ではないのに。
 ビクトールが大切にしたいと思っているのは、今の自分ではないのに。
 28歳のフリックのことが大切だから、だから優しくしてくれるのだ。当然のことなのに、それは、どうしようもなくフリックの胸を痛めつけた。
 初めてだった。
 今まで、誰に何と思われようと、辛いだなんて思ったことはなかったのに、どういうわけかビクトールのことになると、不思議なほどに弱気になる。
 理由なんてわからない。
 ただ、あんな風に抱き締められるのは……何かが違うような気がした。
 「28歳のフリック」ではなく、今ここにいる自分を見てほしいと思う気持ちで苦しくなる時もあるのに、抱き締められたとたん、恐くなった。
 フリックはきゅっとカーテンの裾を握り締めた。
 
(28歳の自分は、ビクトールのことをどう思っていたのだろう)

 ふいに、フリックの脳裏にそんな疑問が浮かんだ。
 さっき、それが当然だというように、ビクトールはフリックを抱き寄せ、そして口づけた。
 「18歳のフリック」への口づけではなかったのならば、あれは「28歳のフリック」への口づけだったことになる。だとすれば……
「そんなこと、って……」
 冗談ですまされるような口づけじゃなかった。
 ではあれは、いつもの……ことだというのだろうか?
 自分とビクトールは、いったいどういう関係なのだろう。
「いて……っ」
 ずきん、とこめかみの辺りが痛んだ。
 立てた膝に顔を埋め、フリックは短い呼吸を繰り返す。

(モンスターの魔法ですから、時間がたてば元に戻るんじゃないかとは思うのですが……)

 ホウアンという医師が言っていた言葉が甦る。
 ずきずきと頭が痛むのは、その前兆なのだろうか?

(嫌だ……)

 フリックは緩く首を振った。
 こんな中途半端な気持ちのまま、元に戻るなんて絶対に嫌だった。
 きちんと言わなくてはいけないことがある。
 きちんと伝えなくてはいけないことがある。
 何を?
 何を伝えたい?
 フリックは痛みを堪えるうちに襲いかかってきた睡魔に、進んで意識を手離した。




 ざわざわと人の声が遠くで聞こえる。
 寒さにぶるっと身を震わせ、フリックはのろのろと目蓋を開けた。窓から差し込む眩しい朝日。一晩床で眠っていたせいで、身体のあちこちがきしきしと痛んだ。
 身に纏っていたカーテンを取り払って、フリックは大きく伸びをした。
 しばらくぼんやりと昨夜のことを考えていたが、いくら考えたところ何の解決策も浮かばない。
 第一、自分がどうしたいのかさえ分からないのだ。
 いったい何に傷ついたのか。
 ただ、同じ男であるビクトールに口づけられ、男としてのプライドが傷ついただけなのか。
 それとも、ビクトールが「28歳のフリック」を求めていることに傷ついたのか。
 ぐるぐると何度も同じことばかり考えてしまう自分に、嫌気が差す。
「………馬鹿馬鹿しい」
 フリックは立ち上がるとカーテンを元通りに直して、冷えた身体を両手で擦りながら図書室をあとにした。部屋に戻りたくなかった。戻れば、絶対にビクトールが待っているはずだ。
 かといって、明るくなった今、どこにいたって人目がある。
 フリックはしばし考えたあと、マイクロトフのことを思い出した。自分と同じように若返ってしまったというマイクロトフなら、今の自分に一番近い立場にいる。彼に少しの間匿ってもらおう、と心を決めた。
 なるべく人気のない径路で、マイクロトフの部屋へと向かう。
 朝の早い男のことだから、もう起きているだろう、とフリックは小さく扉をノックした。しかし、中から聞こえた小さな返事とともに現われたのは、マイクロトフといつも一緒にいるカミューだった。
「あ、おはよう……」
「フリックさん……、どうしたんですか、こんなに朝早くに…」
「えっと……マイクロトフは……」
 言いかけて、フリックは思わず息を飲んだ。
 フリックが向けた視線の先にいたのは、昨日まで一緒にいたマイクロトフではなかった。
「フリック殿………?」
 どこか驚いたような声色で自分の名を呼ぶ低い声。
 そこにいるのは「16歳のマイクロトフ」ではなく「26歳のマイクロトフ」だった。
 がっちりとした体躯は見上げるほどで、男らしい精悍な顔つきも、隙のない動作も、フリックが知っているマイクロトフのものではなかった。
「元に……戻ったんだ………」
 呆然といった感じでつぶやくフリックに、マイクロトフは困ったように苦笑する。
 マイクロトフ自身も、目の前に現われた「18歳のフリック」に驚きを禁じえなかった。
 自分がよく知っているフリックの面影は残すものの、そこにいるのは、まだ幼い少年のフリックである。「青雷」と呼ばれる戦士しか知らないマイクロトフにとって、戸口に立ち尽くすフリックは別人にしか見えなかった。
 お互いをまじまじと見合う二人に、カミューが軽く肩をすくめた。
「どうだい、マイク。これで信じてくれたかい?お前もフリックさんと同じように、昨日まで10歳若返っていたんだ。私が嘘をついているのではないと分かっただろう」
 部屋の中央で立ち尽くすマイクロトフの脇腹を軽く殴って、カミューがフリックを中へと招き入れる。
「別に信じていなかったわけではないぞ」
「どうだか。お前はさっきまで、私のことを 『頭がどうかしたんじゃないか』 とでもいうような目で見ていたよ」
「そんなことはない!」
 慌てて言い募るマイクロトフ。それをからかうカミュー。
 そんな二人をフリックはぼんやりと眺めていた。
 何度言われても、心のどこかで信じられなかった出来事だったが、こうして実際にマイクロトフが元の姿に戻ったのを目の当たりにすると、信じないわけにはいかない。
 自分も、戻るのだ。
 10年後に。
 「28歳のフリック」が本当の自分なのだ。
 フリックはきゅっと唇を噛み締めた。
「ところで、どうされたんですか?顔色が良くないですね、何かあったんですか?」
 冷たい身体に眉をひそめて、カミューがフリックをベッドに腰掛けさせる。どこか思いつめたような表情のフリックに、マイクロトフも心配そうに様子を窺う。こういう場面はカミューに任せておいた方がいいと分かっているので、口を挟むことはするまいと思っていた。
「フリックさん?」
「………どうして……元に?」
 フリックが顔を上げ、マイクロトフにたずねる。マイクロトフは問われて、しばし考えた。
「どうして……と言われても、申し訳ない、俺にもよく分からないんです。目が覚めたら元に戻っていたとしか……」
「そっか……」
「ただカミューが……」
 マイクロトフの視線がフリックの隣にいるカミューへと注がれる。
「カミューが……俺を呼び戻してくれたんだと思います。10歳若返っていた時のことは、残念ながら覚えていないのですが、それでもカミューがずっと俺のことを想っていてくれたことだけは覚えています。カミューがいてくれたから、俺はこうして元に戻れた。カミューが俺に戻って欲しいと思ってくれたから、俺はきっと戻りたいと思ったんだと、そう思うんです………」
「はい、よくできました」
 カミューが笑うと、マイクロトフが小さく舌打ちした。
「俺は子供か?」
「子供だっただろ、昨夜までは」
 慈しむような優しい目でカミューを見つめるマイクロトフに、フリックの方が気恥ずかしくなった。
 そっとカミューの方を窺うと、そこは慣れたもので、いつもと同じ顔をしているだけだった。
「……うん、でも良かったな……カミュー、心配してたから」
 フリックがぎこちなく微笑むと、カミューが優しく微笑む。
「私だけではありませんよ、ビクトールさんもあなたのことをとても心配されています」
「………」
「どうしました?ビクトールさんと何かありましたか?」
 ビクトールの名前を出したとたん、ふいと視線を反らしたフリックに、カミューが訝しげに眉をひそめた。そして、マイクロトフの腕を取って扉の方へと引き寄せた。
「マイク、お前はホウアン殿の所へ行って、身体の具合を見てもらえ。何ともないとは思うが念のために。そのあと、ディラン殿と、シュウ殿に、元に戻ったことを報告してくるといい。二人とも心配されているからな」
「しかし、カミュー……」
 フリック殿が……と言い掛けるマイクロトフをぐいぐいと扉の方へと押しやる。
「いいから、マイク。お前がいると、いいにくいこともあるんだろうさ」
「どうしてだ」
「どうしても、だよ」
 さぁ行った行った、とカミューは無理矢理にマイクロトフを部屋から追い出した。
 パタン、と扉が閉まると、カミューはぼんやりと部屋の中央に立ち尽くすフリックの肩に手を置いた。
「さ、何か温かいものでも飲んで、それから話を聞きましょうか」
「………話なんて……」
「……フリックさん、辛いことを声高に人に話すことは決して褒められたことではありませんが、そうすることが必要な時もあるんですよ。特に貴方の場合はね」
 カミューが知るフリックは、決して弱音を口にはしない男だった。それは18歳の彼でも同じことだろう。もしかするとビクトールにだけは、己の弱い部分を吐露していたのかもしれない。
 けれど、そのビクトールがネックなのだとしたら、誰にも言えずに一人で苦しい思いを抱えているフリックを見過ごすわけにはいかない。カミューはフリックのことを気に入っているのだ。真っ直ぐで、不器用で、心の綺麗な彼は、人としてとても魅力的だ。できることなら、力になってやりたいと思う。
「…………」
 フリックはすとんとイスに座ると、テーブルにぱたりと頬をつけて目を閉じた。
 しばらくじっとそうしていたフリックは、やがてぽつりと洩らした。
「……俺も……元に戻るんだろうな……」
「戻りますよ。マイクが戻ったのが昨夜ですから、恐らく貴方も近いうちに戻りますよ」
「……良かった…………」
 言ったとたん、閉じたフリックの眦から、一筋涙が零れ落ちた。きゅっと身体を強張らせ、声も出さずにただ涙だけを流すフリックを、カミューはしばらく無言で見つめていた。
「ごめん……俺、最近、涙腺緩くなってるみたいだ……」
「ビクトールさんと、何かあったんですね?」
「………うん」
 ふわりとカミューの指がフリックの前髪をかき上げた。冷たい掌が、頬を伝う涙を拭う。
「好きだと……言われましたか?」
「………」
 フリックはのろのろと顔を上げると、不思議なものでも見るかのように、カミューを見つめた。その子供っぽい表情に、思わずカミューは笑いを洩らした。
「それとも、キスでもされましたか?まさかそれ以上ってことはないでしょうね」
「……っ!」
「ビクトールさんが、貴方のことを、とても大切に想っていることは感じているでしょう?」
「………ああ…」
「つまり、そういうことです。貴方も……というか「28歳のフリック」さんも、同じようにビクトールさんのことを想っていると、私にはそう見えましたよ。たぶん、貴方たちの関係は他人が一言で説明できるようなものではないと思いますが、それでも感じるものはありました。それは今の貴方が一番感じているのではないのですか?」
「………」
「何をそんなに気にしているのですか?元に戻るのが恐いのですか?」
「違う」
「では、ビクトールさんが貴方のことを大切に想っていることが嫌なのですか?」
「……ビクトールが大切に思ってるのは28歳のフリックで、俺じゃない」
「では……それが……ビクトールさんが18歳の貴方ではなくて、28歳のフリックさんを大切にしてることが、嫌なんですね?」
 ずばりと核心に触れられて、フリックは俯いたまま、小さく首を横に振った。
 カミューは薄く笑うと、フリックの前髪をさらりとかき上げた。小さな子供をあやすかのように、何度も柔らかな髪を撫でる。
「ビクトールさんのことが好きなんですね」
「…………」
「やっぱり、記憶というものは……どこかで残っているんでしょうね……」
 噛み締めるように言い、カミューはテーブルの上で腕を組み、問題はすべて解決したとでもいうような明るい口調でフリックに告げる。
「大丈夫ですよ、貴方の気持ちは貴方にしか分からないものです。ですが、どんなことであっても、あの男なら全部受け止めてくれると思いますよ。ちゃんと、今の気持ちを言ってごらんなさい。何も心配することはないと思いますけどね」
「………」
「ちゃんと、自分は18歳のフリックとして、ビクトールさんのことを大切に想っているのだと、そう告げるんです。そして、どうしたいのかも伝えるんです。でなければ、きっと後悔しますよ」
「そうじゃ……ない」
「?」
「俺が……好きなのは……」
 ああ……そうだ、とフリックはやっと気づいた。
 ビクトールを想うこの気持ちを何と呼べばいいのかは分からない。
 愛だとか、恋だとか、そんな言葉で意味づけられるものとは違うような気がするからだ。
 それでも、大切だということに違いはない。
 そうだ、大切なのだ。
 ビクトールのことが……ひたすらに「28歳のフリック」を見つめているあの男のことが、とても大切だと感じるのだ。
 分かった。
 自分が、どうしたいのか、やっと分かった。
「大丈夫ですか?フリックさん」
「ああ……何だか……すごくすっきりした気分だ……」
「それは良かった。では、朝食に行きましょうか?」
「うん、でも……俺……」
 申し訳なさそうに視線を揺らすフリックに、カミューはくすりと笑った。
「昨夜飛び出したまま戻ってないんですか?よく見つからないでいられましたね。ビクトールさん、きっと心配してますよ」
「……そうだな」
 ごめん、と立ち上がり、フリックは部屋の扉に手をかけた。ふとカミューの方へ顔を向け、そしてにっこりと微笑む。
「ありがと、えっと……感謝してる……」
「どういたしまして」
 子供のような無邪気な笑顔を見せるフリックも、恐らくこれが最後ではなかろうかとカミューは思った。マイクロトフが元に戻ったのだから、フリックだって、近いうちに元に戻るに違いない。

(あの可愛い笑顔が見られなくなるのは残念だな)

 カミューはそんなことを思いながら、自分もマイクロトフの元へ向かうべく席を立った。





 もう何を誤魔化す必要もないのだ。
 自分の気持ちを正直に打ち明ければ、きっとそれですべてが上手くいくから。
 ビクトールは、たぶん、何もかも許してくれるだろう。
 フリックは心を決めて、自室の扉を開けた。
 かちゃっと小さく鳴った音に、中にいたビクトールが弾かれたように顔を向けた。
「あ……」
 フリックは思わず口篭もった。ビクトールは眠っていないようで、少し疲れたような様子で、戻って来たフリックをじっと見つめていた。
「えっと……」
「いったい今までどこにいたんだっ。心配するだろ!」
 つかつかと歩み寄ってきたビクトールが、フリックの腕を掴んだ。そしてそのまま、とん、と肩口に額をつけると、はーっと大きく溜め息をついた。
「ったく……勘弁してくれ……」
 心底ほっとしたような口振りに、フリックは少し胸が痛んだが、だが一方的に怒られるのは納得できない。
「元はといえば、あんたがあんなことするからだろっ!!」
 心配していてくれたのだ、という事実はほんの少しフリックを嬉しくさせたが、それでもできるだけ冷たく言い放ち、フリックはビクトールの身体をぐいっと押しやった。
「……あー、それは……悪かったよ」
「まったくだ。俺にあんなことするなんて、あんた、どうかしてる」
 フリックはどさりとベッドに腰を下ろすと、項垂れたように立ち尽くすビクトールを上目使いに見上げた。ビクトールはややあって、のそりとフリックのそばにやって来た。
 そして、おそるおそるという感じで、フリックへと手を伸ばそうと腕を上げた。
 少し身構えたフリックに、一瞬手を引き、しかしそっと冷たい髪に触れてきた。
「………ほんとに……悪かったな……」
「………ビクトール」
「………?」
「話があるんだ、座って…くれないか?」
 どこか労わるような口調のフリックに、ビクトールは不思議な気持ちになる。
 まるで、そこにいるのが28歳のフリックであるかのような錯覚を起こすほど、目の前のフリックは落ち着いていて、穏やかだった。
 ぎしっと軋んだ音をさせてフリックの隣に座ったビクトールは、気まずさを隠せずに膝の上で組んだ両手の中に顔を埋めた。
「ビクトール……」
「………」
「ちゃんと……言っとかないとだめかなって思ってさ。えっと…マイクロトフが、元に戻ったんだ」
「え?」
「さっき、会ったら戻ってた。だから、たぶん、俺も近いのかな……って」
「そ、そうか……カミューのやつ、ほっとしてただろ?」
「うん……」
 同じように10歳若返ってしまった二人だ。マイクロトフが元に戻ったのが、モンスターの魔法の効力が切れてのことであれば、フリックが元に戻るのも近いに違いない。
「だから…戻る前に、言っておかなきゃって」
「何だ……って、ああ、待て。それより、先に俺も言っておきてぇことがある」
 ビクトールはフリックを遮ると、がしがしと頭をかきながら、ぽつりぽつりと言いにくそうに話し始めた。
「えっと……その…何だ……。お前は全然覚えてねぇんだろうけどよ、俺は……お前のことはこれ以上ないってくらい大切な相棒だって思ってるんだぜ」
「………」
「すまねぇ……おまけに、もうちょっと違う意味でも……お前のことを大切に想ってる……つまり……そういうことなんだ」
 何でこんなこっ恥ずかしいことを口にしなけりゃいけないんだ、とビクトールは己の不運さを呪った。不運なのはフリックの専売特許のはずだというのに、あんまりな話だ。
 しかし、きっちり言っておかなければいけない。
「だからよ、別に「28歳のフリック」のことだけが好きだってことじゃなくて、俺は今のお前のことだって、同じように好きなんだぜ?だってよ、どっちも同じお前じゃねぇか。そりゃ、多少は違うとこもあるけど、だからって、今のお前のことを嫌いになんてなれねぇよ。同じフリックの魂を持ってるんだ、やっぱり……どうしても……」
「………」
「欲しいって……思っちまう……」
 フリックは心臓を捉まれたように、胸が痛むを感じた。
 こんな風に、10年後の自分はビクトールの言葉や想いを聞いているのだろうか。
 こんな風に、身を竦ませるほどの溢れる想いを、10年後の自分は受け止めているのだろうか。
 フリックは身体を駆け抜けた甘い震えに目を閉じた。
 ああ、きっとそうだ。
 自分は、きっとビクトールのことを、とてもとても大切にしていたのだ。
 恐らく、あんな風に口づけられることさえ許してしまうほどに、10年後の自分は、この男のことを、とてもとても大切に想っているのだ。
 それは、根拠のない確信だった。
「ビクトール……」
「うん?」
「いいんだ、今の俺じゃなくて……」
「?」
「あんたが欲しいって思うのは今の俺じゃなくていいんだ」
「おい、今言っただろ、どっちも同じフリックだっ…て……」
「違うよ」
 フリックはきっぱりと言った。そして、片足をベッドに乗り上げると、ビクトールの方へと身体を向け、少し考えるようにしてゆっくりと言った。
「今の俺と、10年後の……28歳の俺は違う。違うんだ。あんたが好きなのは、28歳のフリックだ。俺じゃない。だけど……それでいいんだ」
「………」
「その……上手く言えないけど……あんたが俺のことを好きだって言ってくれるのは嬉しいけど、だけど、今の俺は……あんたが望んでいるような形で、あんたのことを好きだとは……言えない。あんな風に……キ、キスされたり……するのは……やっぱり違うような気がして……」
「…………」
 フリックは赤くなった頬に手をやると、細く息をついた。
「それに…あんたが「10歳若返っても同じフリックだから、今の俺を好きだ」っていうのも、違うと思うんだ」
「どうしてだ?」
「ただ「フリック」だから、俺のことを好きだなんて……それじゃあさ、俺がこれから過ごす10年ってのは何なんだろう?」
「………っ」
「フリックであれば何でもいいなんて、じゃあ、あんたと出会ってからの俺の時間ってのはどこへ行っちまうんだろう?あんたが好きになったのは28歳のフリックだ。それは、これから先、いろんなことを経験した俺だろ?今の俺じゃない。だけど、それでいいんだ。いや、そうであって欲しいんだ。ただフリックであればいいなんて……それじゃああんまり28歳の俺がみじめだろ?」
「フリック………」
 ビクトールはぎゅっと組み合わせた手を握り締めた。
 フリックの言う通りだ。
 好きになったのは、何度も傷つき、その度に立ち上がり、眩しい笑顔を見せていたフリックだ。
 出会った頃もフリックでさえ、今目の前にいるフリックとは違う。まして、知り合ってから3年。一緒に過ごした時間はビクトールにとっても大切な時間だ。
 それをすべてなくしては、二人の関係はありえないのだ。
「だからさ……あんたは「28歳のフリック」を好きでいて欲しいんだ。28歳の俺を……欲しいって……そう思って欲しいんだ……」
「………フリック……」
「あんたが好きだよ、28歳のフリックを好きなあんたが好きだ……」
 フリックが微笑む。
 それは、ビクトールがよく知ったフリックの表情だった。
「すまねぇ……俺は……」
 ビクトールがくしゃりと顔を歪め、両腕を伸ばしてフリックを抱き締めた。弱々しくその背に手を回してくる少年に、ビクトールは初めて本心を明かした。
「俺は、フリックに戻ってきて欲しい。28歳の……お前に会いたい。お前が言う通り、俺が好きなのは……10年後のフリックなんだ……すまねぇ…今のお前が嫌いなわけじゃねぇ、それは本当だ。だけど、どうしてもこれだけは譲れねぇんだ……俺は……28歳のフリックのことが……」
「うん……ありがと……」
 フリックは目元がじんわりと熱くなるのを感じて、慌てて目を閉じた。がっちりとしたビクトールの肩に頬をつけて、涙が溢れるのを堪える。
「ありがとう……これでやっと……あんたに28歳の俺を返してやれる……」
 
 
 初めて、フリックは心から戻りたいと願った。
 ひたむきに28歳の自分を想ってくれる男のために。
 28歳の自分を欲しいと、心から想ってくれる人がいるなら、何も恐がることはない。
 

「ビクトール……、28歳の俺のことを、ちゃんと好きでいてくれ………」


 溢れた涙が、ビクトールのシャツを濡らした。


                                        このまま終章


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