誘 惑(1)


 何かおかしい。
 フリックがそう感じ始めたのはある日のこと。
 いつも通り、兵士たちの訓練に参加して気持ちのいい汗を流し、ハイ・ヨーのレストランで夕食を取り、レオナの酒場で仲間たちを酒を飲む。
 何も変わったところはない。
 いつも通りの日常だ。
 そばにはビクトールがいる。
 これまたいつも通りだ。豪快に酒を飲み、大声で冗談を飛ばし、レオナに怒鳴られるくらいに騒いでいる。深夜まで飲み明かして、閉店と同時に酒場をあとにする。
 フリックをうながして、肩を並べて静まり返った城の中を歩いて部屋へと戻る。
 嫌になるくらいいつもの日常だ。それなのに…
「ああ、よく飲んだなぁ」
 前を歩くビクトールがのんびりとつぶやく。
 何だろう?
 フリックはどうにも居心地の悪い違和感を感じ、それが何なのか考えていた。
 ビクトールが何か話しかけてきているのも耳に入らない。

――― 誰かに頼まれたことを忘れているとか?
     いや、違うな。何か忘れ物とか?
     そういうことじゃないような…
     何か…何だろう…ああ、もう分からないっ

「フリック」
「何だよっ」
 思わず怒鳴ったフリックにビクトールの方がびっくりして思わず身を引く。
「あ、悪い」
「どうしたんだ?さっきから難しい顔してよ」
 ビクトールがニヤニヤと笑う。
「あ〜…それが分からないから悩んでるんだろっ。なぁ、俺、何かしないといけないことあったっけ?」
「はぁ?何わけの分からないこと言ってんだ」
 そうだよな。
 フリックはビクトールに聞いたのが間違いだったと再び首をひねる。
 気持ち悪い。何だかすごく大切なことを忘れているような気がして。
「おお、じゃあな、フリック」
「え?ああ」
 ビクトールが大きな欠伸をして、自分の部屋の扉を開けて姿を消した。
 フリックはその隣の自分の部屋へと入る。
 どうやら今日はビクトールは大人しく自分の部屋で眠るつもりらしい。まぁ今夜はかなり飲んでるし、眠たそうだったから何もする気にはならないのだろう。
 扉を閉め、ベッドに腰をおろして、はたと気づいた。

――― そういや、もうずいぶん一人で寝てるような…

 その考えに、フリックはがばっとベッドの上で座りなおす。
 夜、一人で寝るようになってもう何日だろう。
 心を落ち着けて考えてみると、今日でもう1週間になるような…
「嘘だろ?」
 あのビクトールが1週間も何もしてこないなんて?
 あいつ、どこか悪いのだろうか?
 フリックはやっと胸のつかえが下りたと思ったとたん沸いて出た新たな疑問に、再び頭を悩ませることになってしまった。


「どうしたんですか?そんな顔して」
 ぼんやりと空を見ているフリックを見かねてカミューが声をかけてきた。
 今日は戦闘もなく、訓練の日でもなく、まったくの休日だった。
 レストランのテラスに一人でお茶を飲んでいたフリックは、カミューに声をかけられ顔を上げた。
「ああ、お前か」
「お前か、とはずいぶんなご挨拶ですね。よろしいですか?」
 どうぞ、とフリックが微笑む。どうも、とカミューが向かいの席に座る。
「どうしました?心ここにあらずって顔してましたよ」
「そうか?ちょっと気になることがあって…」
「何ですか?」
 やってきた手伝いの女の子にミルクティーを注文し、カミューが肘をついて指を組む。
 フリックは腕組をしたまま、う〜んと唸る。
 結局あれからもビクトールはフリックの部屋に入ることはなく、もう10日になろうとしていた。
 思い返してみると、最初ビクトールが自分の部屋に帰ったとき、めずらしいなと思ったが、たまには何もせず(されず?)に一人でゆっくりと眠れると思って内心喜んだのだ。
 何しろ、毎日毎日挑まれては身体がもたない。
 おまけに、1回では飽き足らず最低でも3回は手篭めにしてくれるのだから、たまったもんじゃない。
 そのビクトールが、この10日間、一度も手を出してこないのだ。
 手を出すどころか、キスさえしてこない。
 どう考えてもおかしい。
 だけど、それをビクトールに聞くこともできない。
「フリックさん?何か悩みがあるならお聞きしますよ」
 カミューが上品な笑顔をフリックに向ける。
「え…ああ…そ、うだな…」
「一人で悩んでいるよりも、誰かに相談した方がいい時もあります。話せば、案外、なぁんだ、と思うこともありますからね。貴方がそんな風に悩むなんて、よほどのことなんでしょう?」
 よほどのこと…と言えないこともないか。
 フリック自身のことはいいとして、ビクトールのことの方が心配だ。
 あいつ、どこか悪いんじゃないだろうか。
 本当ならこんな下世話な相談、誰にもしたくないのだが、自分ひとりでどう解決していいか分からず、思わずフリックはカミューにその口を開いた。

「なるほど」
 一通り話を聞き終えると、カミューは何とも複雑そうな顔をしてカップに口をつけた。
「だから…えっと、つまり…別に、俺はいいんだけど…10日でも1ヶ月でも…だけど、どう考えてもおかしいだろ、あいつが…その…」
「10日間もセックスしないでいられるなんて、ね」
 カミューの言葉にフリックの顔が赤らむ。
 そんなフリックにカミューが軽く肩をすくめる。
「喧嘩をしてる、とか、そういうことは?」
「いや…別に」
「何かセックスの最中に気に障ることを言ったり、したりしませんでしたか?」
「気に障ることって?」
「ですから、『早い』とか『遅い』とか、『毎回毎回同じ手順で飽きる』とか」
「……お前、そんなことマイクロトフに言ってるのか?」
 思わず聞き返したフリックに、こほん、とカミューが咳払いをする。
「ご冗談でしょう。マイクはああ見えてなかなか上手なんですよ」
 そ、そうですか。
 フリックは思わぬ所で惚気話を聞かされるはめになってしまい、さらに顔を赤くする。
「それに、別に悩むほどのことではありませんよ」
「え?」
 あっさりと言い放ったカミューにフリックが顔を上げる。
「いいですか、新婚当初ならまだしも、安定期に入った夫婦が、一ヶ月に何回セックスするかご存知ですか?7日から10日に一回でもあればいい方ですよ。だいたい、ここのところ戦闘ばかりで疲れているはずですし、あのビクトールさんだっていい歳なんですから、身体を休めたい時だってあるでしょう。10日間何もなかったからといって不思議がることはありません」
「そう…かな」
「そうですよ」
 やけに自信ありげにカミューが言い切る。
 確かに、毎晩毎晩ヤってる方がどうかしてるのかもしれない。
 そりゃ疲れることだってあるだろうし。
 しかし、フリックはまだすっきりしないでいた。
「フリックさん?」
「ああ…あのさ…こんなこと、考えるのもどうかしてると思うんだが…その…」
「何ですか?ああ、ビクトールさんが浮気をしてるんじゃないか、とでも?」
「いや、それはないと思う」
 しっとりと笑うフリックにカミューは目を細める。
 即座に言ったフリックの言葉は完全にビクトールを信頼しているもので。カミューは苦笑すると先を促す。
「じゃあ何ですか?」
「ん、ビクトールのヤツ、俺のことに飽きたのかな」
「え?」
 自分で言ったその言葉に傷ついたような表情をして、フリックは小さく笑う。
「まぁ付き合いも長くなってきたし、さっきのカミューの言葉じゃないけど、毎回毎回同じって、それはあいつが俺に言いたい言葉なのかもしれないよな。もう今さら恥ずかしがるような仲でもないくせに、俺はあいつの望むように…してやれないし…」
 ビクトールに抱かれることが嫌なわけじゃない。
 まったく痛みがない、とは言えない行為も、もう身体が受け入れるようになっている。
 快感がないとは言わない。
 好きか嫌いかと聞かれれば、好きだと言わないわけにはいかないだろう。
 だけど、そんなことをビクトールに知られるのが嫌なのだ。
 まるで自分がとんでもなく淫乱になってしまったような気がして。
 だからいつも必ず抵抗してしまう。
 好きでやってるわけじゃない、というような態度を取ってしまう。
「そんなことあるわけないでしょう」
 やれやれというようにカミューが微笑む。
「たとえ天と地がひっくり返ることがあっても、ビクトールさんが貴方に飽きるなんてことはあり得ませんよ。そんな泣きそうな顔をしないでください」
「…だといいけどな」
「まぁもう少し様子を見てはいかがですか?どうせ今夜あたり我慢しきれずに、部屋にやってきますよ」
 そうかもな、とフリックが肩をすくめる。
 どこか思いつめたようなその表情に、カミューは少し胸が痛んだ。


 その夜。
 いつも通り酒場をあとにしたビクトールとフリック。
 薄暗い階段を上がり、部屋の前まで来るとビクトールは振り返り「じゃあな」と言った。
 そして自分の部屋に一人で入ってしまう。
 ぽつんと廊下に残されたフリックは閉じられた扉を見つめて肩を落とす。
 はっきりと聞いてみた方がいいのだろうか?
 だけど何といって?
 どうして俺のことを抱かないんだ、なんてそんなこと死んでも口にはできない。
 でも、何もしなければずっとこのままなのだ。
 いったい何があったのか。
 自分にどこか悪いところがあったのか?
 やはり…もう自分の身体には飽きられてしまったのか。
 フリックは顔をあげると決心した。


 そっと扉を開けてみる。
 素早く隙間に身体を割り込ませ、後ろ手に扉を閉める。
 真っ暗な部屋の内部はよく知っているので、足音を忍ばせ迷うことなくベッドへと近づく。
 狭いベッドの中でビクトールが背を向けて眠っていた。
 フリックはごくりと喉を鳴らす。
 まったくどうかしてる。
 こんな夜中にビクトールの部屋に忍び込んで、いったい自分は何をしようというのだろう。
 ぎゅっと自分の腕をつかんで、それでもフリックは軽く深呼吸して、そっとブランケットの端をめくってみる。ビクトールは静かな寝息を立てていた。
 どうしよう。
 ここまで来ておいて何だが、何をするかなんて決めていたわけではないのだ。
 ただ、来れば何か変わるかと思っただけで。
 フリックは片足をベッドに乗せ、ビクトールの顔を覗き込んでみた。
 何だかこうして近くで見るのは久しぶりのような気がする…
 ビクトールの匂い。
 どうしよう…触れたくて…手が…
「畜生っ、もう我慢できるかっ!!!」
「う、わっ!」
 あっという間にベッドの中に引きずり込まれ、フリックの身体はビクトールの下に巻き込まれた。目の前に眠っていたはずのビクトールがいる。
「な、な、な、な…」
「へっへっへ、フリックよぉ、お前の方から夜這いに来てくれるなんて、夢を見てるみたいだぜ」
「ち、違うっ!!」
 思わず叫んだフリックにビクトールがすっと目を細める。
「じゃ何だよ。まさか、こんな夜中に仕事の話でもねぇだろ。え、言えよ。いったい何しに来たのか」
 ビクトールが凶暴なまでの笑みを浮かべ、フリックを見下ろす。
 ぱくぱくと無言で口を開いていたフリックが、やがて諦めたかのように顔を背けた。
「……そ…うだよ…お前が…ぜんぜん…ないから…」
「あ?何だって?」
 意地悪くビクトールが聞き返す。
「う…だからっ!お前がぜんぜん俺のこと…だ、抱こうとし…ない
 こんなこと言わせるなっとフリックが両腕を顔の前で交差させる。
 恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
 しかし、ビクトールはその言葉に低く笑いをこぼした。
 その笑いはやがて大きくなり、深夜だというのにも関わらず大きな笑い声へと変わる。
「おい…?」
「はっはっはっは〜やった、やったぞぉ〜!!ざまぁみやがれカミューのヤツ!」
 ビクトールはフリックの上でガッツポーズなんぞしてみせる。
 何をやったというのだ?
 どうしてカミューの名前が出てくるのだ?
 フリックは呆然とその様子を見ていたが、はっと我に返り、ビクトールの胸倉を掴む。
「おいっ、いったいどういうことだっ」
「え?え、ああっと、その…」
 どうも様子がおかしいと思ったフリックが鬼の形相でフリックを睨む。
「ビクトールっ!どうしてカミューの名前が出てくるんだ?お前、まさか…」
「ぐるじい…がら゛…はなせ…」
 ビクトールがギブアップとばかりにフリックの手を掴む。
 思い切りビクトールを突き飛ばして、フリックがずいと近づく。
「で、いったいどういうことか、分かるように!説明してもらおうか」
 にっこりと微笑むフリックに、ビクトールはひくりと頬を引きつらせた。
 それは今から10日前のことである。

                         ちょっと長くなったので続くのだ♪ → NEXT


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