此処に捕らわれて、もうどれくらいの月日が流れただろう。 誘惑の黒い罠目を覚ますとそこは、いつもの一室。でも、どこか違って見える。 私と世界を隔てる、薄っぺらな、けれど自分の力ではどうする事もできない一枚の透明な壁。それが、取り払われている。 いえ、少し違う。私自身がその檻の外にいるのだ。 「お目覚めかしら、プリンセス」 そう声をかけられた相手が自分だと気づくまで、少し時間がかかった。 誰かに話しかけられるなんて、どれくらいぶりだろう。それに、『プリンセス』、そう呼ばれるのも。私が治めていた王国は、すでに滅んでしまって、もうこの世界には存在しないのだから。 「あらぁ、眠りすぎてまだぼうっとしてるのかな」 「ダメよ、プリンセスにそんな口を聞いては。フフフ」 軽口を叩く明るい女性の声と、それをたしなめる、でもどこか嘲りを含んだ口調の落ち着いた女性の声。 視線を上げると、長い髪を頭頂部で束ねたポニーテールの妖艶な美女と、ショートカットの小悪魔的な美少女が、私の顔を覗きこんでいた。 「わあ、可愛いっ。お人形さんみたいね」 「ええ、流れるような金の髪、美しいわ。フフ……」 表面だけ見れば友好的に見えるその言葉の裏に薄ら寒いモノを感じながらも、わたしは二人に尋ねてみる。 「あなたたちは……私を助けてくれたの?」 私の言葉を聞き、二人は顔を見合わせると、一瞬の間を置き、大笑いし始めた。 ……やっぱり、違ったようだ。でも、だとしたら、私を眠りから覚ます意図はいったいどこにあるのだろう。 「ウフフフ、失礼。アナタがあまりに純真なものだから。そうね、プリンセスですものね」 「アハハハッ、でも、少しは人を疑うことも知らないと、悪い人達に食べられちゃうかもよ」 そう言って、また顔を見合わせ笑い出す。いったいなんだというの。 不快さが顔に出てしまったのか、美女は私をチラリと見て笑うのを止めると、うやうやしく頭を垂れた。 「失礼いたしましたわ。南太平洋のマーメイドプリンセス・ココ様。私はブラック・ビューティ・シスターズ、姉のシスターシェシェ。以後、お見知りおきを」 演技であろう、慇懃に頭を下げる美女をおかしそうに見つめながら、もう一人の美少女が続いた。 「アハ、アタシは妹のシスターミミ。よろしくねっ」 そこで私は、背筋を流れるザワザワとした不快感に納得がいった。 『水妖』……平和な海に混乱を招く、妖かしの存在。この二人もまた、深海の王、パンタラッサ族のガイトに力を与えられた魔の者達なのだろう。 「私に、何の用なの。貴方達はガイトに仕えているのでしょう。このような、彼を裏切るような真似をしてまで、私に何を求めているというの」 私の強い視線を平然と受け流し、彼女達はおどけて言う。 「あら、裏切るだなんてとんでもない。これもガイト様の事を思えばこそ、ですのよ。ねえ、シスターミミ」 「ホントだよね〜。アンタに協力してもらえば、ガイト様も大喜び間違いなしだもん」 「協力……?」 今の私は、マーメイドプリンセスとしての力を込められた真珠も奪われた、何の力ももたない一人の人魚にすぎないのに……。 「マーメイドの世界には、面白い歌があるそうね。マーメイドを苦悶と淫獄に引きずり込む、呪われた禁断の歌」 ハッとして、思わず私はシェシェと名乗った美女の顔を見つめた。その私の反応を見て、彼女はニヤリと口元を歪ませる。 「やはりご存知のようね。今のマーメイドプリンセス達の中では、アナタが最年長になるんですものね。教えて、いただけるかしら?」 「ダ、ダメよっ! あの歌は……」 マーメイドへの恋慕に狂った人間の作曲家が狂気の中で作り上げた曲。人間との禁じられた恋の果てに、関係を引き裂かれた人魚がこの世の全てを呪いながら歌い上げた曲。そういった、正確な出所はわからないがマーメイドを苦しめる類の歌が伝承と共にいくつか伝わっており、そのうちの一つの楽譜が私達南太平洋の王国に大切に保管されていた。 「それに、あの歌は貴方達自身をも蝕み、いずれその身を滅ぼしてしまうことになるのよ」 「ふぅん、おもしろそう」 「面白そうって……あなた、どういうことかわかっているの?」 「ええ、わかっているわ。この身を滅ぼすほどの強大な力、いいじゃない」 「ホントだよね〜。アタシたちの圧倒的の前にひれ伏す沢山のマーメイドたち。アアン、想像しただけでゾクゾクしちゃうっ」 恍惚とした表情を浮かべながらミミが体を震わせ、シェシェはニタリと背筋が凍るような冷たい笑みを見せた。 二人の瞳に宿る暗い情念。今までどのようにして生きてきたのかはわからないけれど、この二人ならあるいは、あの呪われた歌を唄いあげてしまうかもしれない。そしてそれはまさしく、海に混乱と破滅を招く事になるだろう。 「まあ、ムリヤリ聞きだすこともできるけれど、私達もそんなスマートじゃないやり方は好まないわ。どうかしら、一つゲームをしませんこと?」 「ゲーム……?」 シェシェの言葉の真意をはかりかね、私はその『ゲーム』という単語を繰り返す。 「ええ。アナタが私達と勝負をして、私達が勝ったら歌の1フレーズを教えてもらう。アナタが勝てば、ここから逃がしてあげる。どう? 悪い話ではないでしょう。もちろん、ゲーム内容はこちらで決めさせていただくけれど」 「1フレーズだけ?。ずいぶんと私に有利な条件なのね」 「そうね。アナタが負けてしまって、もう一度勝負したいと思ったら、次の1フレーズを賭ける、というかんじね」 「……つまり貴方達は、何度やっても負けるはずがない、という自信を持っているってこと?」 「さあ、どうかしらねぇ」 思わせぶりに含み笑いをするシェシェ。 「イヤだ、と言ったら?」 「そうね、アナタは捕らわれの身に戻るだけよ。またあの筒の中で眠り続けるといいわ。呪歌については、別の誰かに聞くことにしましょう」 そう言って、シェシェは視線を横に映す。その先には。 「! ノエルは関係ないでしょうっ!」 そこには、私と同じように捕らわれの身となっている北極海のマーメイドプリンセス・ノエルが静かに眠りについていた。 「関係ない、ということはないでしょう。彼女もマーメイドプリンセスなんですもの」 「……ノエルは、何も知らないわ」 そう、おそらくノエルは呪歌については何も知らないはず。彼女の優しすぎる心では、亡霊たちの怨念を受け止めきれないだろう。マーメイドプリンセスの中でも、知っているのはおそらく私とサラだけ。 「知っているか知らないのかは、本人に直接聞いて見ないとねぇ。どうすれば教えてくれるかしらね、シスターミミ」 ノエルが捕らわれている円筒の水槽に手を這わせながら、ミミが呟く。 「優しそうな、いかにもお姫様って顔してる。痛いこと、苦しいことなんて、なんにも知らずに生きてきたんだろうね、ウフフ」 その顔に浮かんだ酷薄な笑みに、私は背筋が凍りついた。 「……わかったわ」 「あら、受けてくれるのね」 「ええ。その代わり、約束して。ノエルには……」 「もちろん。アナタが私達の相手をしてくれるかぎり、その娘には手を出さないわ。そして、ゲームである以上、ルールはきちんと守る。そうでないと、面白くないものね。フフフ……」 シェシェが勝ち誇ったような笑みを浮かべながら言う。彼女達が暇つぶしや、まして善意でこんな話を持ちかけたわけではないことくらい、私にもわかる。 それでも。国を滅ぼされ、虜囚として生き恥を晒している今の私にできることといえば、ノエルを守る事くらいだった。 |