「どうしたの、祐巳。こんなところへ連れてきて」
 山百合会の会合も終え、あとは帰るだけとなった放課後。祐巳は由乃さんや志摩子さんには先に帰ってもらい、お姉さまである小笠原祥子さまだけを伴って、人気のない校舎の裏側へ来ていた。紅葉も終わり、そろそろ舞い落ちる葉も増えてきている。もうすぐ落ち葉と銀杏が地面に敷き詰められるだろう。そうすれば、志摩子さんは足しげくここへ通うことになり、反対に祥子さまは訪れることはなくなるに違いない。
(人気がないからってここにお姉さまを連れてこられるのも、あと少しなんだ)
 そうなると、次なる密会できる場所を考えないといけない。……いやだ、『密会』だなんて。
「祐巳?」
 勝手に盛り上がって一人顔を赤らめている祐巳に、お姉さまは不思議そうに尋ねる。
「あ、いえ、なんでもないです」
「そう」
 お姉さまは小首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
「……二人っきりになるの、久しぶりですね」
「そうね。山百合会の仕事も忙しくて、なかなか二人だけの時間というのはとれないわね」
 薔薇の館にいけば顔を見たりお話したりすることはできる。けれど、たいがいは誰か他の山百合会メンバーがいるものだから、二人きりの時間というのはそうそうとれるものでもない。もちろん、皆大好きだし、皆といると楽しいけれど、最近は、もっとお姉さまとの二人だけの時間がほしいと思うようになった。特に、この間お姉さまのお宅にお泊まりして、その、……色々あってからは、なおのことその想いは強くなっている。
 お姉さまの手が、祐巳の頬に触れた。
「寂しい想い、させてしまったかしら」
 知らず表情に出てしまったか、慰めるように頬をなでるお姉さまのすべらかな手。
「そんな事は……」
「無理を言わなくていいのよ」
「寂しかった、です」
「そう。……私もよ」
 微笑むお姉さま。祐巳は、お姉さまの胸の中に飛び込んだ。
「もっと一緒にいたいです」
「そうね。私も同じよ。でも、私も体は一つしかないもの。だから、この一緒にいられる時を、大切にしましょう」
「はい……」
 お姉さまの大きな胸に顔をうずめる。いい匂い。大好きな祥子さまの匂い。このままずっと包まれていたいのに、でも、私たちに与えられる時間はあまりにも少なくて。
 顔を上げると、お姉さまが微笑みながら祐巳の顔を見つめている。祐巳は、自然と目を閉じていた。
「えっ……ダメよ、祐巳」
 再び目を開けると、お姉さまが困った顔をしている。
「こんなところでは、誰に見られるかわからないわ。それに、神聖な学校でなんて……」
「もうこんな時間ですから、誰も来ませんよ。……お姉さまは、穢れた行為だと、思ってらっしゃるんですか」
 祐巳の切り返しに、お姉さまは苦笑した。
「バカね、そんな風に思っているわけないじゃないの。だけれどね」
「私はっ……マリア様なら、私たちの想い、わかってくださると思います。だからっ」
 なんだか涙が溢れそうになって、つい声も大きくなった祐巳の頭を、お姉さまが優しく撫でる。
「本当、しょうがない子ね」
 スッと身をかがめると、お姉さまの唇が祐巳の唇に軽く触れ、離れた。
「あ……」
 一瞬の感覚を思い返すように、唇を指でなぞる。ほんの少しだけ、濡れていた。
「寂しい想いをさせていた、お詫びよ」
 お姉さまが花のように笑う。その笑顔を見ると、胸が熱くなって。祐巳はお姉さまの首に腕を回し、唇を押し当てていた。
「ちょ、祐巳、ダメ、んむっ」
 今までの寂しい気持ちを叩きつけるように、激しくお姉さまの唇を貪る祐巳。最初は抗っていたお姉さまも、いつしか力を抜き、祐巳に応えてくれた。
「ぷぁっ」
 たっぷり数分ほど求め合ってから、唇を離す。二人の唇に銀色のアーチが架かり、秋風がそれをプツリと切った。
「もう、なんて娘なの。学校でこんなことをするなんて」
 お姉さまが祐巳の顔を睨んでいる。
「で、でも……だって……」
 祐巳がしどろもどろになっていると、お姉さまはプイと後ろを向いてしまった。
「あなたがこんなはしたない娘だなんて思わなかったわ。私、姉として恥ずかしい」
「そ、そんな……」
 祐巳はそこで初めて、自分がとんでもないことをしてしまったのだということに気づく。 一時の寂しさに任せてしてしまった行為で、またお姉さまの背中が離れていってしまうのではないか、そう思うと。
「……なんてね」
 お姉さまはクルリと振り向き、祐巳に微笑みかけた。
「でも、ダメよ祐巳。ここは学校なんだし、誰が見ているかもわからないのだから」
 たしなめるお姉さまの口調が優しくて、祐巳は再びお姉さまの胸に飛び込んだ。
「お姉さまっ、わたし、わたしっ」
「ごめんなさい。冗談にしては、笑えないものだったわね」
「いえ、いいんです。わたしがっ……わたしが……」
 いつの間にか頬には涙が溢れていた。お姉さまは、祐巳の頭を優しく撫で続けてくれる。
「なるべく、二人でいられる時間、作るようにするわね。……そうだ。今日は少しだけ寄り道して帰りましょうか」
「え、でも……」
「あなたを泣かせてしまったもの。そのお詫びよ。それとも、何か用事があるのかしら」
「いえ、そんなっ……どこへでも、ついて行きますっ」
「そう。良かったわ。じゃ、寒くなってきたし、そろそろ行きましょうか」
「はいっ」
 お姉さまが隣にいてくだされば、寒さなんて感じない。お姉さまが祐巳に手を伸ばす。祐巳は、その温かな手を、ギュッと握り返した。


「ぷはっ」
 校舎の影に忍者のように気配を消して隠れていた人影、築山三奈子は、そこで初めて自分が息を止めていたことに気づいた。吐く息が荒いのは息苦しいせいだけではない。すでに日も落ちて気温も下がり始めているというのに、手のひらにはじっとりと汗をかいていた。
「とんでもないところ、見てしまったわね」
 受験生だというのに勉強に手がつかず、図書館での時間潰しを切り上げて気晴らしに誰もいないはずの校内をブラブラ徘徊していたら、思いも寄らないシーンに出くわし、慌てて影に隠れて一部始終を窺っていたのだ。
「それにしても、ロサ・キネンシスとブゥトンが、あんな……」
 そこまで言いかけ、ゴクリと唾を飲み込む。はしたないと言うなかれ。新聞部部長であり、そしてどちらかといえばゴシップに強い三奈子には、その瞬間、新聞の神が天啓をもたらしたのではと思えたのだ。
 やはり自分はスクープを嗅ぎつける天性の嗅覚を備えているらしい。自分の才能に(偶然のような気もするが)しばし酔いしれる。
「そうね。男嫌いのロサ・キネンシスと、その絶対的信奉者のブゥトンだもの」
 そのような関係にあったとしても、不思議ではない。今はそう思える。
 新聞部に籍をおいて二年半を数えるこの日まで、常にスクープを追い求めていた三奈子である。当然そのような関係にある姉妹を何組か知っていたし、今回のような逢瀬の瞬間を捉えたこともあった。
 よくよく考えれば、山百合会という粒ぞろいの美少女たちの秘密の園にそういった影があってもおかしくはないはずだが、普段発せられているその高貴なオーラに、すっかりそういった邪推の入り込む余地がなくなってしまっていたのだ。
 が、あの濃厚な口づけを交わす二人を見れば、”そういう”関係だと思って間違いないだろう。
「ああ、次のリリアンかわら版の一面が目に浮かぶようだわぁ」
 ”スクープ!紅薔薇姉妹の秘められし禁断の恋”
 薔薇様方に憧れる、夢見がちな年頃の少女たちは、頬を染めながらこの世紀の大スクープに見入ることだろう。ああ、なんて記者冥利につきるのかしら……。
「……?」
 妄想に酔いしれていた三奈子はそこで初めて、大変な事に気づく。
「……こんなこと、記事にしてもいいものなの」
 薔薇姉妹の麗しき恋。リリアンに通う生徒達なら、羨望の眼差しで見つめるだろうが、それが学校、はたまた家族などに知れ渡ったとしたら。
「う……」
 今まで黄薔薇革命、イエローローズ騒動と山百合会には何度となく睨まれてしまっていたが、今回はそれらの比ではない気がする。自分が目撃したのは大スクープではなく、実はとんでもない時限爆弾なのではないだろうか。とても甘い匂いを撒き散らし、自分だけをピンポイントに狙う地雷。
 先程までの興奮がウソのように引いていき、背筋に冷たい汗が流れる。はたして、これだけの大スクープ、自分の胸だけに秘めておけるだろうか。今、リリアンそのものを崩壊させかねない程の大きなネタを、自分はこの手に握っているのだ……。
「……さ、寒くなってきたわね。もう暗いし、とりあえず今日は帰りましょう」
 誰に言うでもなく三奈子は呟き、現場から背を向ける。背負い込んだモノの大きさに、歩き方がギクシャクとしていた。


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