「…………ぇさま。お姉さまっ」
「あぇっ?」
 突如呼びかけられ、三奈子は間の抜けた声を上げて声の主を見る。そこには三奈子の妹、真美が怖い顔をして立っていた。
「何よ、突然大声出して」
「突然じゃありません。さっきから何度もお呼びしているじゃないですか」
「……そうだっけ」
 どうにも気の抜けた様子の三奈子に、真美はため息をついた。
「ハァ……その調子で、受験のほうは大丈夫なんですか」
「う……イヤなこと思い出させないでよ」
「そうはいきません。後になってお姉さまの慰め役に回るのはイヤですからね」
 こんなことなら、大人しく家にでも帰ったほうが良かっただろうか。三奈子もまた可愛げのない妹を見てため息をつく。
 結局昨夜はほとんど眠れず、勉強にも身が入らなかった。部室にいれば少しは気がまぎれるかとも思ったが、浮かんでくるのは昨日の衝撃的な一シーンのことばかり。真美が珍しく気を使ってなにやら話しかけているのもまったく耳に入らず、しまいには彼女を怒らせてしまったのだった。
「それにしても、どうしたんですか?突然部室に現れたと思ったら、ただぼ〜っとしているだけで。何かあったんですか」
「……別に、なんでもないけれど」
「そんなはずないでしょう。どれだけお姉さまと一緒にいると思っているんですか。お顔を見ればわかります」
 口やかましい妹。今部室にはこの娘と二人きり。他の部員たちはそれぞれ用事があるとかでまっすぐ帰宅している。こんな調子でリリアンかわら版はこの先大丈夫なのだろうか、と少し不安もよぎったが、今この場にいる真美が一番しっかりしているのだから、心配する必要はないだろう。
(それにしても……)
 辛らつなことをズバズバ言う、私の妹。入学したての頃は、もっと可愛げがあったのに。今だって、黙っていれば可愛らしい顔をしている……。
「お、お姉さま」
 気づけば、真美の顔を凝視していたらしい。ここで頬でも赤らめてくれればいいのに、不審気に三奈子の顔を見つめている。
「……ハァ。もういいわ」
「なんなんですか、いったい」
 部室に来て、ぼんやりして、ただ帰るだけ。訳のわからない姉の行動に、真美はため息をつく。
「ねぇ真美、たまには一緒に帰りましょうか」
「残念ですが、私まだやることがありますので」
 にべもない。少しは別れを惜しんでくれないものかと思ったが、そんなベタベタした間柄なら三奈子は真美を妹に選びはしなかっただろう。
「そう。じゃ、がんばってね。アレに負けないとびきりのスクープ、期待しているわ」
「……アレ?」
 真美が聞き返すよりも早く、三奈子はヒラヒラ手を振りながら部室を出て行ってしまった。何かイヤな予感がする。一人部室に取り残された真美は、背筋がムズムズして思わず背を震わせた。



「それで」
 真美はため息をついて、目の前でニコニコしている姉を見た。受験生だというのに、今日もまたこうして部室に顔を出している。嬉しくない訳はないが、それ以前に心配が先にたってしまう。
「今日は、どういったご用件ですか」
「あら、私だってまだ新聞部員なのよ。部室に来てはいけないの」
「そうは言いませんけど」
 真美の憎まれ口を、笑いながら受け流す三奈子。これだけ上機嫌だと、真美はかえって心配になる。こういう時は大抵、反則スレスレの『スクープ』を手に入れたときだろうから。
「言っておきますけど、次号のリリアンかわら版の原稿はもうほとんど出来上がっていますから、今更差し替えはできませんよ」
「あら、がんばってるじゃない、関心関心」
 三奈子がポンポンと真美の頭に手を置く。キッチリ整った髪形が崩れてしまうかと、頭を振って逃れたが、そのせいでかえって崩れてしまった前髪が数本目の前にハラハラと垂れ下がる。
 なんだろう、この余裕は。号外でも出す気なのだろうか。祐巳さんや由乃さんともクラスメートとして親しくなった以上、あまり無茶をして友情を壊したくはないのだけれど……。
 何気なく二人の友人の顔を思い出したところで、真美は自分が教室に用事があったのを思い出した。
「私、教室に行かなければならないので、いったん失礼しますけど……」
「ええ、わかったわ。留守番は私に任せていってらっしゃい」
 にこやかに微笑みながら手を小さく振る三奈子。釈然としないものを感じながらも、真美はとりあえず部室を出て教室に向かった。

「ウフフフフ……」
 誰もいない、いや、正確には自分ひとりだけが残された部室の中、三奈子は笑いながら文字通りクルクルと回っていた。手にはできたてほやほやのリリアンかわら版特別号。もちろん、正式に配られるものではないのだが。
「はぁぁ、なんて素晴らしい出来なのかしら。惚れ惚れしちゃうわ」
 自分が書き上げた発行されることのない特別号を見ながら、三奈子はうっとりと目を細める。
 結局三奈子は悶々とした時を過ごすのに耐えられず、発行するしないにかかわらずとりあえず原稿を作成してみたのだった。どうせ発行しないのだから、そう思えば、小説イエローローズの時のように自主規制をかける必要もなく、かなりきわどい描写もしている。
 写真も自分の手持ちの中から友人と寄り添っているものを選び、パソコン好きの友人の自宅へ尋ねてわざわざ加工したものを用意した。首から上は見えないようにしているが、寄り添いあう仲の良い姉妹、うまくその感じが表せているのではないかと自負している。
「ああ、もう自分の才能が怖いわ」
 頬に手を当て、悦に入っていると、コンコンとノックの音がした。
「ひゃっ」
 突然の物音に驚き、三奈子は反射的に特別号を自分のカバンの下に隠す。扉を開けると、そこには真美が立っていた。
「……なんだ、真美じゃないの。驚かさないでちょうだい」
「私、ちゃんとノックしましたけど。お姉さまこそ、驚かさないでください。廊下の先まで笑い声が聞こえていましたよ」
「あらやだ」
 そう言ってコロコロ笑う三奈子。真美は眉をひそめて、自分の姉を見つめた。
「真美、そんな顔をしてはダメよ」
 三奈子が真美の脇に立ち、腰に手を回す。
「お、お姉さまっ?」
 驚いて硬直している体。真美が抵抗しないのをいいことに、三奈子はその体を抱き寄せ、胸の間に顔をうずめさせる。
「アナタは笑っているときが一番かわいいわ。ね、もっと笑って見せて」
 真美の顎に手をかけ、クイと上向かせる。突然の展開に、胸がドキドキと早鐘を打つ。そういう対象として姉を見たことなど今までなかったし、まさか姉のほうからこのような 行動に出ようとは。普段は冷静な真美も、すっかり混乱してしまっていた。
「綺麗なクチビル……」
 三奈子の指が、真美の唇の形をなぞってゆく。息をするのも忘れて、真美は三奈子の顔を見つめる。その瞳は真美を写しているようで、実際はどこか遠い世界を写しているように思えた。
 三奈子の顔が、吸い寄せられるように真美の顔に近づいていき、そして……。
「やっ」
 真美は弾かれたように三奈子の体を押しのけた。
「な、何をなさるんですかお姉さまっ。どういうつもりなんですっ」
 感情の高ぶりが抑えられない。隣の写真部の部室に聞こえてしまうのではと、いつも気を使って喋っている真美だが、この時ばかりは自分でも驚くほどの大声を上げていた。
「あ、あら、ごめんなさい。ちょっとした冗談のつもりだったんだけれど」
「冗談でこんな事しないでくださいっ」
 真美は自分が涙を零しているのに気づく。いつも暴走しがちなお姉さまを律するために、弱みを見せないようにしていた真美だが、そこは年頃の女の子。許容を超えた出来事に、感情の暴発を抑えられなかったようだ。
「ごめんなさい……」
 頭を撫でようと伸びる三奈子の手を、真美は首を振って嫌がった。行き場の失った手で、三奈子はしょうがなく頬を掻く。どうも昨日の夜、原稿を書いていた時から頭が桃色に染まってしまっていたようだ。『妹』というキーワードに触発され、まるで物語の中の出来事のように、現実と空想が区別できずに気づけば真美に手を伸ばしていた。
(そんなに嫌がらなくたっていいじゃないの)
 少しはそう思ったが、真美からしてみればいきなりお姉さまが豹変して襲い掛かってきたのだから、たまったものではないのだろう。
「あ、そうそう。あなた、教室に戻ったのよね。福沢祐巳さんはまだいたかしら」
 気まずい空気を変えようと、三奈子が唐突に切り出した。
「……いらっしゃいましたよ。これから小笠原祥子さまと一緒に帰られるそうですけれど」
 ボソボソと呟くように答える真美。いつもの彼女の面影はすっかり影をひそめている。
「祥子さんと?」
 そんな妹とは対照的に、姉は喜色満面。カバンを引っ掴むと、猛然とドアへ向かう。
「お、お姉さまっ、どちらへ?}
「真美、今日のお詫びは特大スクープで返してあげるわ。楽しみにしてなさい」
 マリア様のお庭に集う乙女もスクープの前には気品を保てず、スカートを大きく翻しながらドアを開け放ちバタバタと廊下を駆けていった。
「……なんなのよ」
 真美はため息をつき、手近にあった椅子へ腰掛けた。いつもは考えていることが丸わかりの姉だが、今日はさっぱりわからない。いや、何かを掴んで舞い上がっているというのはわかるのだが、それがなんなのか……。
「……?」
 その時、床に落ちている一枚の紙に気づく。
「リリアンかわら版・特別号……?」
 真美は最初の数行に目を通す。
「なんなの、これ。こんなの、私知らない」
 現在、実質新聞部の運営を取り仕切っている自分が知らない、特別号。文体は明らかに自分の姉のもの。そしてその内容は……。
 最後まで読み終え、顔を上げたときには、真美は恐れと興奮が混じった、複雑な表情をしていた。
「お姉さま……」
 真美は、姉が飛び出していった扉をただ見つめていた。

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