「やあ、お待たせしたか、な……」
 思わずぎこちなくなってしまった挨拶。普段見慣れている顔なのに、こうも違って見えるとは。車の脇に立つその女性の姿に、思わず息を飲んで見入ってしまう。

 伊達遥が「話がある」と社長室を訪れたのは一週間ほど前。だが、室内は二人きりなのに、なかなか切り出さない伊達。元々口数の少ない女性ではあるが、この場に及んでもまだ迷いがあるのか、口を開きかけては押し黙るを繰り返している。その日は予定が詰まっていたので、後日時間を作るので食事でもしながらゆっくり話を聞こう、という事になったのだが……。

「あ、あの……変、ですか……?」
 その囁くようなか細い声を聞いて、ようやく自分の記憶の中の彼女と一致する。
「い、いや……そんな事はない。普段とイメージがあまりにも違うから、思わず戸惑ってしまった。とても良く似合っているよ」
「あ……ありがとう、ございます……」
 はにかみながら微笑む彼女は、確かに自分の良く知っている彼女であり、だが全く知らない女性のようにも思える。
 レスラーとは思えないほどスレンダーな体を、ノースリーブの真紅のカクテルドレスに包み、肘まで覆っている黒のロンググローブの手首には、控え目にゴールドのブレスレットが輝く。元が長身なのでヒールはさほど高いものではないが、足元にはシルバーのパンプス。一見どこのご令嬢かというこの佇まいを見て、我がプロレス団体の無敵のチャンピオンだと想像できる者が、万に一人もいるかどうか。
「そのドレス、どうしたんだい。まさか、今日の為に?」
「あの……社長と食事するって言ったら、つばさちゃんが選んでくれました」
「ああ、野村君が……なるほど」
 常日頃から大人の女性への憧れを隠そうとしない野村つばさ。おそらく、こういったセクシーさを前面に押し出したドレスにも憧れがあったのだろう。悲しいかな、我が団体に15歳で入団して以降もほとんど背が伸びず、自分では到底着こなせない為、これ幸いと長身でスタイルの良い伊達を理想に見立ててあれこれ着せ替えしたに違いない。
「結構大変だったんじゃないのかい、振り回されて」
「ううん……私の為にしてくれたんだし……私も、楽しかったから。……あ、あの、社長。……乗っていい? みんな、見てる……」
 いつの間にか、彼女から少し離れた所に人垣が出来ており、皆、彼女の方を溜息をの出そうな顔で見つめている。これだけの美女がドレス姿で街中で立っていれば、いやでも注目を集めるものだ。
「あ、ああ、すまん。乗ってくれ」
 どうにも私自身戸惑いがあるようで、今日は全く気が回らない。慌てて助手席のロックを開けた。

「なんだか、かえって気を使わせてしまったかな。結構高かったんじゃないか、そのドレス」
 車を走らせながら、助手席の伊達に話しかける。行き先は当初とは変更した。幸い、スーツを着てきたので横に並んで著しく見劣りする事はないが、最初に行く予定だった店はこの格好の彼女を連れて行くには雰囲気が軽すぎる。慌てて友人の経営する店に連絡を取ったが、ちょうど混雑していないようで、急な予約だが受けてくれた。
「そんな事ない、です……それに、こういう事でもないと、お金の使い道もないから……」
 確かに、人ごみが苦手な所のある彼女は、オフも寮の部屋から出てこないことが多いらしい。
「なんなら、私がプレゼントするべきだったかな」
「それこそ……悪いですから……。……私の方こそ、ごめんなさい。こんな格好したから……社長にかえって、気を使わせちゃったみたいで……お店も、変更したんでしょう?」
「いやいや。こんな素敵な女性とご一緒できるなら、お安い御用ですよお嬢様」
「…………はぅ」
 私の軽口に、真っ赤になって俯く伊達。かわいいヤツだ。

 湾岸沿いの落ち着いた雰囲気のホテルに車を止め、地上20Fのスカイラウンジを目指す。着慣れない格好をして心細いのか、伊達が私の肘に手を回してきて、年甲斐もなくドキリとした。ドレス姿の美女を連れ歩くなんて、せいぜい仕事絡みのパーティで秘書の井上君が同伴した時くらいだものな。
 店に着き、友人と久々に挨拶を交わすと、窓際の良い席に案内された。景色も料理も気に入ってくれたようで、いつもは下ばかり向いている伊達も、今日はニコニコと笑顔が耐えない。そんな彼女を見ていると、私の頬もまた自然と緩む。

「……さて」
 食事も終わり、この店のオリジナルカクテルが満たされたグラスを傾けながら、伊達に切り出す。彼女のグラスにも、ワインレッドの甘めの液体が注がれている。入団したて、15歳の頃から彼女を知っている私としては、こうして互いにアルコールを楽しめるだけの月日が経ったのだなと、少々感慨深いものがある。ほんのりと頬を染め、夜景を眺めていた伊達が、視線を私に向ける。
「なにか、話があったんだろう?」
「あ……はい……」
 アルコールと雰囲気に酔っていた伊達の表情が幾分引き締まり、一旦視線を落として考え込むと、決意を滲ませて顔を上げた。
「あの……ベルトのこと、なんですけど……」
「ベルト?」
「はい……」
 なかなか次の言葉が出てこない。伊達にベルトと言えば、私が思いつく事は一つ。こちらから切り出してみた。
「もしや……FSPヘビー、返上したいのか?」
 団体を創設して3年目、ようやく作成した我が団体の象徴、FSPヘビーベルト。8年目も終わりを迎えようとしている今も、そのベルトを手にした事があるのは今目の前にいる彼女、伊達遥ただ一人。来月も防衛に成功すれば、20回連続防衛となる、一部のファンの間では『伊達ベルト』とまで呼ばれている、彼女の象徴だ。
「あ、いえ……そうじゃないです。あのベルトは、私のプロレス歴の半分以上を一緒に過ごしてきたベルトだから……誰にも、渡したくない……」
 酔いのせいもあるのだろうか、初めて聞く、伊達のあのベルトへの本当の想い。正直、そこまでの強いものだとは、意外だった。マッチメイカーの立場としても、まさかここまでの長期政権になるとは思ってもいなかったから、なんとかベルトの移動が見たいと色々とタイトルマッチを組んできたものだが、彼女なりのベルトへの執念が、そのことごとくを跳ねのけ、これだけの防衛という偉業を達成させたのだろう。
「違うのか。ん〜、じゃあ、タッグベルトの創設か? 誰か、一緒に組んでみたい選手がいるとか」
 これにも、フルフルと首を横に振る伊達。全く思い当たる節がなく首を傾げてしまう私の目をまっすぐに見て、小さいながらもはっきりと、伊達は口にした。
「……世界のベルト……挑戦してみたいんです」
「…………世界」
 コクリと頷く伊達。それは、全く予想していなかった言葉。いや、少し考えればわかるであろう事だが、私の中からは綺麗に削除されていた言葉だった。
 一番星プロレス旗上げから、純血主義を守ってきた我が団体。それは、他所の人気を借りずとも、自分達の手で天下を取って見せるという、私なりの理想であり、意地。事実、現所属16人のレスラーたちは、皆素晴らしい選手に育った、または成長途中であると自負している。
「ずっと、そう思っていたのか?」
「…………」
 少し悩んだ後、伊達は小さく首を振る。
「初めて世界に触れたのは、あの、ファイナルシリーズです。……世界のトップレスラー達と、連日のシングルで……ああ、こんなプロレスもあるんだって、新鮮で……世界のチャンピオン達には、ほとんど負けたけど……ローズさんと戦って、運良く勝てて……チャンピオンに挑んで、跳ね返されたり、乗り越えたり……これまでの私のプロレスには、なかったものだったから……」
 早くから同期の中で抜きん出た存在だった伊達は、常に追われる立場で。若者らしく、上を目指すという経験は確かに少なかったかもしれない。
「あの後、ローズさんから、また戦いましょうって言われて……社長がGWAとの提携に乗り出してくれて……何度もシングルで戦って、負けて……でも、UVCで、ファイナルシリーズ以来の勝ちを掴んで……」
 目をつぶり、2年前の出来事、懐かしそうに語る伊達。
「その頃から、GWAヘビーに挑戦したかったのか?」
 私の問いに、しかしまた伊達は首を振る。
「その時は……ただ、ローズさんと試合ができるだけで、楽しかった。立場も何もかも忘れて……私より強い人に、まっすぐぶつかっていくのが……」
 数年に渡りトップに居続けるという重責は、私が思っている以上に彼女を苦しめていたのだろうか。
「あ……、違うんです、社長……別に、同期や後輩の皆と試合するのがイヤだとか、そういう事じゃなくて……ただ、挑戦者っていう立場が、あんまり経験したことなかったから……それだけ」
「……つまり、世界を意識したきっかけはGWAでありローズ嬢であったとして……直接世界のベルトへの挑戦意欲が湧いたのは、また別の原因という事か」
 ようやく、私の言葉に伊達の首が縦に振られる。
「……今年に入って、同期のみんな……あの……」
「……ああ」
 伊達は言葉を濁したが、彼女の言いたい事は伝わってきた。8年目を迎え、伊達の同期……旗上げ時のメンバー7人に、それぞれ衰えが見え始めていた。沢崎はケガがちで、越後や近藤は、気持ちに体が完全についていかなくなっているように見える。本人の資質か、チャンピオンという立場を考慮してシングルマッチを他の選手より少なめにしていたからかはわからないが、幸い伊達にはまだそういう傾向は見られていない。
「……この間……夜、眠れなくて、なんとなく外に出たんだけど……しのぶが庭で、ずっと木刀で素振りしてて……2年目の新人達に、シングルで負けたのが、悔しくてたまらなかったみたい……」
 ここの所、越後は特に調子が悪い。新人達の育成の為にシングルマッチを時々組んでいるが、この間は2年目の石川に3カウントを奪われた。1年前には考えられなかったことだ。石川の成長は確かにあるが、それ以上に越後の動きが悪かった。素直に喜ぶ石川の横で、必死に悔しさを押し殺している越後の表情が、今も目に焼きついている。
「……その時に、しのぶに言われたんです……『おまえは何をしているんだ』って……『私がおまえなら、すぐにでも世界に挑戦して、ローズのベルトもメガライトのベルトも奪ってやるのに』……って……」
「越後君らしいな」
「私は……社長の下で、プロレスが出来るだけで楽しくて……こんな性格だから、新女のテストにも落ちちゃったし……それが、最優秀選手に選ばれるようになるなんて……それだけで夢見たいで……」
 伊達の言葉に嘘はないだろう。これまでのレスラー人生を振り返る彼女は、とても穏やかな表情をしている。
「……でも……『おまえは全力を出していない。いや、出せなくなっている』って……しのぶが言うんです……口には出さないけど、真琴や美幸も同じように感じてるはずだって……だから……」
 決意をこめて、私の目を真っ直ぐに見つめる伊達。
「私……メガライトさんのTWWAヘビーに挑戦して……仲間が目標にしてくれた、私というレスラーが、どれだけのものだったのかって……タイトルマッチっていう公の場で、示さなきゃいけないってっ……」
 伊達の肩が、小さく震えている。おそらく膝の上では、固く拳を握りしめているのだろう。
「自分で、わかるんです……今の力を維持できるのは、もうそう長くないって……やるなら、今しかないんだって……」
「そうか……」
「もちろん、FSPヘビーの挑戦者に世界のトップクラスを指名することもできるけど……それは、私だけの問題じゃないから……それに、私が世界を狙うっていう、姿勢が大事っていうか……」
「いや、君の言いたい事はよくわかったよ。元々、TWWAからも、何度か打診はあったんだ。『ウチのベルトにそちらのチャンピオンを挑戦させてみないか』ってね」
「本当……?」
「ああ。メガライトが強すぎて、あちらさんもタイトルマッチを組むのに一苦労らしい。挑戦者もおらず、ベルトの価値もかなり落ちているって話だしな。日本NO.1のレスラーが挑戦するという話になれば、あちらにとっても大きな話題だろう」
「そう、なんだ……」
「タイトルマッチの件、こちらからも当たってみよう。じゃあ、未来の世界チャンピオンに乾杯といこうか」
「……もう……社長、気が早い……そんなに、簡単な事じゃないし……」
 そうは言いながらもグラスをおずおずと差し出した伊達に、私もグラスを重ねて今日二度目の乾杯をした。

「なあ、遥君……私の方針は、間違っていたのか……」
 すっかり酔いが回ってしまった私は、なんだか口が緩くなってしまったようで。普段は口に出す事のない弱気な言葉が、つい口から滑り出てしまう。いつの間にか、遥への呼び方も変わってしまっている気もするし、いかんなとは思いつつも、口が止まらない。
「……そんな事ないと思うけど……どうして……?」
 彼女もだいぶ酔っているだろうが、だからといって大きく変わった様子もなく。ただ、いつもより優しい視線で、テーブルに突っ伏しそうになる私を見守っている。
「最初は、何もない所から始めた、プロレス界への挑戦だったんだ。新人ばかりを集め、地方の小さな会場をいくつも回って……いつしか、経営も軌道に乗り出して……選手達も、あの新女のメンバーと遜色ないほど強くなって」
 私の言葉を、遥は黙って聞いてくれている。
「遥君が、プロレス大賞を受賞した頃からかな。チャンピオンの威厳を守ろう、なんて、極力シングルを減らしたり、挑戦者は団体内で固めたり……あと少しで世界のベルトに手が届く所にまでいながら、FSPが海外の団体より下に見られるのがイヤで、挑戦を避けたり」
「違うよ……社長は、いつも私達の事を一番に考えていてくれたの、知ってるから……逃げてたわけじゃないって、わかってるから……」
 遥が、私の手をそっと握ってくれる。滑らかな布地の感触が、心地良い。
「北条君や滝君の成長を見ていると、思うんだよ。若い内から、君達や世界の選手、実力が上の選手をその都度目標に出来たから、あれだけの成長ができたんじゃないかと。君達にも、もっと最初からそういう機会を与えられていれば、より秘めた実力を開花できたんじゃないかと」
「……それは……」
 否定はしない。彼女のどこかに、そういう想いがあったのは確かだろう。
「……でも、社長の方針は……安易にスター選手に頼らずに、自分達でやっていくって事は……私達に、プロレスの能力以上の、大事なモノを育ててくれたって、そう思うから……」
 もう片方の手も、私の手に重ねられる。私の手をギュッと両手で握り締めながら、彼女は言った。
「……だから……そんな風に社長に育ててもらった、私が……世界に挑戦するの……社長は間違っていなかったんだって、証明したいから……」
「遥君……」
 思わず私もその手を握り返す。
「……もちろん……必ず勝つなんて、カッコいい事は言えないけど……実際、シングルでは、メガライトさんに勝てていないし……他の外国人選手にも、負けちゃうこともあるし……」
「そうか。それで最近、メガライトとの対戦や、シングルマッチの要求をしていたんだな」
 私の言葉に、コクンと頷く遥。
 TWWAとの提携後、私はマッチメイクで悩んでいた。確かに遥はいまや国内最強のプロレスラーとなったが、相手が世界最高のスープレックスモンスター・メガライトではかなり分が悪い。団体と彼女の立場を考え、最初の内はメガライトの参戦すら二の足を踏んでいた。
 だが、提携半年を迎えた頃に、彼女自身の要望でメガライトのシリーズ参戦、タッグマッチが組まれ、年明けからはメガライトだけでなくTWWAのNO.2であるキャシー・ウォンやフリーのユーリ・スミルノフらとのシングルも組まれ始めた。
 その勝ったり負けたりの結果に、ここ数年で築かれていた『絶対王者・伊達遥』のイメージは揺らぎつつあり、事実私もそれを心配していたのだが、むしろそんな試合を見る為に、最近またファンの客足が伸びつつある。
「ハハ……なんだかバカみたいだな、私は。一人で考えすぎて、余計な心配をして」
「ううん……そんな事ない……そういう社長の優しい所、嬉しいし…………好き、だから……」
 遥の優しい声音が、耳に心地よい。なんだかここしばらく凝り固まっていた心が解きほぐされていく気がして、自然と頭と瞼が重くなる。
「……遥……タイトルマッチ、楽しみにしてるぞ……勝っても負けても、君は……私の大事な、娘だから……」
 自分の体を支えきれなくなり、私はテーブルに突っ伏してしまう。遠ざかっていく意識の中、微かに、頬に柔らかく温かな何かが、触れた気がした……。


 プルルルルルルッ、プルルルルルルッ。
 耳元で、何かがけたたましく鳴り響いている。ガンガンする頭を振りながら、音のする方向へ手を伸ばす。そのまま叩き潰そうかと思ったが、手に馴染むその感触が、それが何であるかを思い出させる。
「……もしもし?」
 それ……携帯電話を耳に当てると、朦朧としたまま無意識に操作し、問いかける。
「あっ、社長? ようやく繋がりましたか。今、どこにいらっしゃるんです?」
「んー……どこだ、ここ」
「は?」
 言われて霞む目を開いたが、見覚えのない部屋だ。内装や調度品を見れば、かなり高価なホテルの一室であるのは間違いない。
「それより社長っ。朝から大勢の記者達が押しかけて、大変なんですっ。伊達さんの世界戦がどうとか。社長、何かご存知ですか?」
「……あー。……あー、あーあー」
 ぼやけていた視界と頭が、急速にはっきりしてくる。半身を起こして首を巡らすと、視界の端に一枚のメモが映った。手に取ると、そこには女の子らしい文字が、短く綴られている。

『社長、昨日はご馳走様でした。
 気が変わらないうちに、先に帰ります。
 私、頑張りますから。社長も、よろしくお願いします』

「そうか……ハハッ、なるほどな。これは、いよいよ覚悟を決めるしかないな」
 酒の席での戯言ではなく、そこには確かな意思がある。ならば、私も全力でこれに応えるだけだ。
「社長? どうされたんですか?」
「あー、正式な会見は後日キチンと開くから、記者連中にはとりあえず今は一つだけ伝えてやってくれ。『伊達遥、最初で最後の世界挑戦』とね」


8年目3月
スプリングシリーズ "Final Challenge"
3/29 千葉・幕張コンベンションホール

TWWA世界ヘビー級選手権試合
 TWWA世界王者 "スープレックスモンスター" ジェナ・メガライト
   vs
 挑戦者 "静かなる不死鳥" 伊達遥


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