オレとお前は似てるって。
あの日、虚ろな顔でさ迷い歩いている
お前の姿を見た時から、ずっと感じてた。

オレには何も無い。
お前にも何も無い。
だから、オレ達はお互いの特別になれる。
どこかでそう思っていたんだ。

でも、違ったんだよな。

お前は、迷い犬。
オレは、捨て犬。

今は忘れているだけで。
お前には、帰る家がちゃんとあるんだ。
でも、オレにはやっぱり、何も無い。

そう。何も無いんだ……。

「……なんだよここ」
 優香は呆れた顔で、ワイワイと騒がしい少女達の姿を見つめていた。

 フェアリーガーデンの新人テストに晴れて合格した優香は、アパートを引き払って団体の寮に住む事になった。もちろん、唯も一緒だ。今日はまず事務所に顔を出し、その後秘書の女性に連れられて先輩達に挨拶をする為に道場に来たのだが……。
「瞳先輩、ダンベル運ぶの手伝ってくださいよー」
「え〜。いやよ。アイドルはお箸より重い物は持たないんだから」
「じゃああたしも持つの止めよっかな〜。はい、聡美、プレゼント」
「わわっ、智美先輩まで。私そんなに持てませんってば」
 まるでアイドルかと見紛うような美少女達が楽しげに笑いあっているかと思えば。
「やーんっ、止めてよつかさ先輩ーっ」
「えっへへ〜。カニの足が絡まっちゃったね、つばさ」
「こらっ、つかさっ。つばさをイジめるとボクが許さないぞっ」
「むー。かすみんがつばさの味方ばっかりするよー。ぶーぶー。あの日誓い合った愛は嘘だったのー」
「誰もそんなの誓ってないっ」
「えっ、うそ、女同士でなんて……かすみん先輩、大人だぁ……」
「つばさも信じるんじゃないっ」
 小さな子供達が群れて遊んでいた。
「……オレ、プロレス団体に入ったんだ、よな?」
 優香の漏らした呟きを耳にした秘書は、額を押さえて溜息を吐いた。

 優香と唯がそれぞれ自己紹介を終えると、あっという間に二人の周り、いや正確には唯の周りに人だかりが出来た。皆口々に、「久しぶり」「元気だった」などと唯に声を掛け、バシバシ背中を叩いている。
(そういや、前にここに居たとか言ってたよな)
 以前ファミレスで唯と社長が話していた内容を、ふと思い出す優香。しかし、その突拍子も無い内容については、考えれば考えるほど訳が分からなくなりそうなので、優香は頭を振ってその考えを頭から追い出した。
 クイクイ。
「ん?」
 ふと、ジャージのズボンが引っ張られて、優香は視線を下ろす。すると小さな少女が、優香のズボンの裾を摘まんで、優香を見上げていた。目が合うと、にっこりと笑いかけてくる。
「すごいね。おっきいね」
「あ、ああ」
 目を輝かせて優香を見上げている少女。その頭をグリグリと撫でてやると、少女はくすぐったそうに目を細めた。
「なんだお前、どこから入ってきたんだ。迷子か? お母さんの名前、わかるか」
 優香は中腰になり少女に視線の高さを合わせてから尋ねる。すると、それまでニコニコしていた少女が突然頬を膨らませ、テテテッとその場を離れた。
「あっ。お、おいっ」
 少女はジャージを着た三つ編みのおっとりした女性の背に隠れると、頬を膨らませてこちらを覗き見ている。
「あら〜。綾さんを怒らせてしまいましたね〜」
「へっ。その子の事、知ってるんすか」
 尋ねる優香に、答えは別の所から返ってきた。
「こら〜。失礼だぞ、ゆかちん。あやっぺはアンタより、ずっとずーーっと、先輩なんだから」
「…………はああぁぁっ!?」
 朝から驚きっぱなしの優香であったが、この時の驚きぶりはこれまでの比ではなかった。それこそ、「ゆかちん」などという妙なあだ名への抗議すら忘れるほどに。

 それからすぐに、社長の一声で場は解散、皆思い思いの練習に入っていった。優香と唯も、道場の端で柔軟を始め体を解していた。フェアリーガーデンは旗上げから実戦主義を掲げている為、他所の団体よりデビューが早い。最初の月に徹底して体作りと受身を教え込み、すぐにリングに放り込むという荒業は、決して資質に恵まれているとはいえない少女達を新女に噛み付けるように育て上げる為には致し方の無い事なのかもしれなかった。
 しかし、優香はこれから始まる日々をどこか楽観視していた。確かに現在の所属メンバーをざっと見回せば、そう思うのも仕方ない事だろう。見た目だけで言えば、デビュー前の優香より強そうに見える少女はほとんどいないのだから。
「なあ、唯」
 筋を伸ばしながら、優香は隣でべたりと上半身を床につけている唯に話し掛けた。
「んー?」
「本当に大丈夫なのか、ここ」
「大丈夫って、何が?」
「だってよ。プロレス団体って言うからどんな化け物が出てくるのかと思ったら、なんかブリブリしたのと、ちっちゃいのばっかじゃねえか。まともなのは、神田さんだっけ、あの人くらいだろ」
 優香の言葉に、唯はチッチッと指を振る。
「わかってへんな、ユウは。プロレスはガタイでやるもんちゃうねん。そりゃデカい方が有利やけど、そのデカいのをテクニックで倒すんが醍醐味っちゅうヤツや。例えばウチが、アンタを倒すとかな」
「へえ。面白い事言うじゃねえか。なら、やってみっか」
「ふふん、後悔しても知らへんで」
 不敵に笑う二人。二人の初対決は、しかし、
「オーウ、プリティガール。ユーがユイ、デスネー」
 突如道場内に響いた大声に水を差されてしまった。優香と唯が声のする方を振り向くと。
「なっ!」
「デカッ!」
 そこには優香よりニ周り以上大きい、筋肉の塊が立っていた。
「Hi!ミーの名前は、シュミット・テイラーデース。今日からミーはユイの専属トレーナーデース。ヨロシクネ、HAHAHA!」
 白い歯を必要以上に光らせて豪快に笑う筋肉ダルマ。
「いいっ!? ウチのコーチなん? 優香のコーチやのうて」
 唯が優香を指差しながら筋肉ダルマに尋ねる。確かに、見た目からすれば優香のコーチにこそ相応しい気はするが。
「イエース。ボスからの伝言デース。『今回は最初から体力に照準を絞る』だそうデース。ミーの役目は、ユイがそこのビッグガールとクラッシュしても負けないボディを作る事ネ」
「ビッグガールって……」
 確かにこの人に比べたら、自分ですらガール扱いだろうな、と妙に納得してしまった優香だった。
「い、いやほら、ウチはテクニックで勝負するタイプやから。そない筋肉要りませんて」
「HAHAHA! テクニックを語るのは、マッスルボディを手に入れてからネ。2年早いヨ、ユイ。では早速、シュミット式ブートキャンプ、レディーゴー! アードレーナリーン!」
「い、イヤやーっ。ユウ、助けてーっ」
「HAHAHAHA−!」
 Tシャツの襟を掴まれて引きずられていく唯。
「……生きて帰って来いよ、唯」
 優香はそう祈るしか出来なかった。


 こうして練習漬けの日々が始まった。自主的な鍛錬の甲斐もあり、すでにほぼ体が出来ていた優香は、すぐに受身中心の練習へと移っていった。それ故、体力向上を至上命題とされた唯とはプログラムが違う為、練習が重なる事はあまりなかった。たまに顔を合わせても、げっそりした唯は軽口を叩く余裕すらないようであった。
 本格的な練習が始まって痛感したのが、先輩達のタフさであった。自分より遥かに小さく華奢な少女たちが、自分がついていくのすらやっとなキツイ練習を涼しい顔でこなしていくのを見た時は、戦慄すら覚えた。数日の内に、優香が彼女たちに抱いていた偏見や疑いは跡形も無く霧散していた。
 しかしそれは、あくまでプロレスラーの先輩として見た話で。彼女達の、どこか学生の延長のような雰囲気は、義務教育時代をほぼ一人で過ごしてきた優香には馴染みづらいものであった。
 そうして優香は、周囲に馴染めぬまま最大の理解者ともすれ違い、心がどんどん内に篭っていくのを自分自身でも感じていた。


「……はあ」
 優香は一つ溜息を吐き、手の中で四角い箱を転がした。それは、タバコの箱だった。ランニングの帰りにいつもタバコ屋で牛乳のビンを買うのだが、今日はあまりに不景気な顔をしているからと、タバコ屋の婆さんがタバコを一箱オマケと言って押し付けてきたのだ。
「こんなもん吸った事ねえっつうのに」
 確かに自分のビジュアルを傍から見ればタバコを愛飲していると思われるのも仕方ないか。そう思い、苦笑する優香。実際には、未成年だからなどという優等生意見を振りかざす気などはさらさら無いが、それこそ金の無駄だと考えていたから、自腹で購入する事など有り得なかった。
「こんなんでストレス解消になるのかねえ」
 なんとなく封を切って一本取り出し、しげしげと見つめる優香。ぼんやりと歩いていたせいか、すでに道場の側まで戻って来ているという事をすっかり忘れていた。門の前から出てきた人影と、うっかりぶつかりそうになる。
「うわったった。何すんだ、って、神田さん」
「……朝比奈か」
 その人影の正体は、先輩の神田幸子であった。優香が唯一認め、勝手にシンパシーを感じている先輩である。ジャージ姿で首にタオルを掛けている。これから走りに行く所だろうか。走りに行くと言っても、ただ走るのではなく、細かなダッシュやシャドーボクシングなどを組み合わせたよりハードなものである。こうして出掛けた後、数時間は帰ってこない事もざらであった。
「お、お疲れさまっす。これからランニングっすか」
「ああ」
 わずかに上ずる優香の声に、しかし神田は興味無さそうに答える。
「……タバコ」
 ふと神田の視線が、優香の手の中のそれを捉えた。
「えっ。あ、いやっ、違うんすよ、これは。ちょっと貰っただけで、別に吸う訳じゃ……」
 慌てて否定する優香だが。
「別に構わない。自己管理できているなら。ただ、コーチには見つからない方がいい」
「は、はあ」
 やはりあまり興味なさげな神田。まだ叱られた方が良かった。優香は少々落胆しつつ、タバコをジャージのポケットに押し込んだ。
「それじゃ」
 そう言って走り出そうとした神田の後姿に、
「あ、あのっ」
 優香は思わず声を掛け呼び止めていた。神田の足が止まり、顔だけ振り向く。
「なに?」
「いや、えっと、その……」
 自分自身すら予想外の行動だった為に、次の言葉が出てこない。それでも神田は咎める事も無く、顔だけでなく体ごと向き直り優香を見つめる。
「……あの、生意気言ってすんません。でもオレ、どうしてもわかんなくて。……神田さんは、なんでここに入ったんすか」
「なぜって?」
「んと、その……神田さんなら、新女とかでもやっていけたんじゃないかって思って」
「…………」
 優香の問いに、黙り込む神田。そして逆に、優香に一つ質問をする。
「……朝比奈は、皆の実力を疑っているのか」
「えっ。いや、あの……まあ、ぶっちゃけて言えば、そうっす」
 取り繕っても仕方ない。優香はぶん殴られるのも覚悟の上で、首を縦に振った。しかし、神田の拳は飛んでこず、代わりに届いたのは小さな笑い声であった。
「フッ。まあ、そう思っても仕方ないかも」
「へっ?」
「朝比奈は、リングの上での皆の姿をまだ見た事が無いだろう」
「はい。プロレス自体、テレビでチラッとしか見た事無いんで。今度の巡業が初めてっす」
「見ればわかる。皆の凄さが」
 そう言って再び背を向けようとする神田に、優香は慌てて言葉を継ぐ。
「いやあのっ。先輩たちが凄いってのはわかるんすよ。オレがついてくのすらやっとの練習を、平気な顔してこなしてくんだから。けど正直、神田さんの相手になるような人があの中にいるとは思えなくて」
「…………」
 神田は再び動きを止め、しばし思案する。そして、
「……やっぱり、皆のリングの上の姿を実際に見ないと、朝比奈の疑問に答えは出ないと思う」
「はあ」
「一つ言えるのは、プロレスは体格でやるものじゃないって事。もちろん体格が良ければ有利なのは確かだけれど」
「えっ」
 それは、以前唯が口にしていたのと同じ言葉だった。その時は唯の負け惜しみくらいに思っていたのだが。
「私は不器用だし、抽斗が少ない。だから自分の武器を突き詰めるしかない。朝比奈も、多分同じタイプ」
「う、うす」
 全く目に入ってもいないのかと思っていたが、それなりに神田が自分を見てくれていたようで、優香は少し嬉しくなった。
「だから、私は見た目にわかりやすいんだと思う。けど、他の皆は多くの抽斗と、リングの上でしか見せない顔を持っている。それを知るには、実際にリングの上の姿を知るしかない」
 神田が冗談やお世辞を言うタイプではないのは、優香もわかる。つまり今の言葉は、神田の本心だという事だ。
「……喋りすぎた。もう行くから」
 神田は優香に背を向け、今度こそ走り出す。
「あ、ありがとうございましたっ」
 優香はその背に向かい、大きく頭を下げた。


 そして、いよいよデビューの日がやってきた。
 デビュー戦の相手は、スピードがウリの外人選手。優香はコーチに言われたように、とにかく真正面から全力でぶつかった。対戦相手は新人相手に胸を貸してやるくらいの態度であったが、優香の規格外の突進力はあわやという所まで彼女を追いつめた。それでも最後は彼女のテクニックに翻弄され、優香が気づいたときにはマットに両肩をつけられ3カウントを奪われていた。
 同じ日の第1試合に唯もデビューしていたが、特訓の甲斐なくパワーの差を見せつけられてあっさりマットに沈められ、試合後は気の毒なほどしょげかえっていた。

 この日のメインイベントは「フェアリー保科 vs 神田幸子」のノンタイトルシングルマッチ。先月のタイトルマッチのカードがすぐにノンタイトルで組まれた事に、ファンの間からは訝しがる声が上がっていたが、実はこれは神田の直訴により実現したカードであった。この試合、優香は神田の、唯は保科のセコンドにつくよう社長に言いつけられていた。
「しっかり見てなさい」
「う、うすっ」
 憧れの神田に試合前に肩を叩かれ、優香はデビュー戦の疲労も忘れて興奮した面持ちでリングの上を見つめた。だが、
「……嘘だろ」
 思わず呟いてしまうほど、リング上の光景は優香の当初予想していたものとはかけ離れていた。
 神田の強さは予想通り、いやそれ以上だった。最短モーションで放たれる光速のジャブ掌底は、優香の目では捉えきれないほどだ。しかし保科は、そのほとんどを柳の様に受け流してしまう。何発かヒットして保科が揺らいだかと思えば、追い打ちに間合いを詰めた神田を嘲笑うようにスルリと腕を絡めて投げ捨てると、すぐにバックを取って関節を極める。あの神田が、面白いように翻弄されていた。
 しかし、見た目ほど保科に余裕があった訳でもないらしく。それでも愚直に前に出続ける神田の攻撃に、保科のスタミナもかなり消耗していた。
 最後のシーンもまた、衝撃的だった。神田のフィニッシュブロー、自ら倒れ込みながら捨て身のショートフック掌底を放つGHK(ギャラクシー・ハリケーン・カンダ)をまともにくらい、保科はマットに叩きつけられさらにもんどりうって一回転した。優香の目には、保科が本当に死んでしまったのではないかという程の衝撃だった。
 そのままうつ伏せに倒れてピクリとも動かない保科を、神田が仰向けにひっくり返してフォールに行こうとした、その刹那。保科の体がスルリと神田の腕から抜け出て、その背後に回り、あっという間に神田に絡み付いて強烈に締め上げた。保科の必殺ストレッチ、天国超特急。リング中央でガッチリ捕らえられ、神田はその名の通り、天国に旅立つ前に肩を二回叩いてギブアップの意思表示をするしかなかった。

「いや〜っ、凄かったな、保科姉っ。な、ユウ」
「……ああ」
 帰りのバスの中で、興奮のあまり隣ではしゃぐ唯とは対照的に、優香は押し黙っていた。神田は強かった。自分の想像より、遥かに。しかしその神田を、いつものんびりしていて掴み所のない保科が翻弄し、そして勝利した。それは優香にとって、あまりに衝撃的な事実であった。
「よっしゃ。ウチも、保科姉を目標にしよっ。あんな風にのらりくらりしながら、でも決める時はズバッと決める。かっこええやん。なっ、ユウ」
「っ!? ……あ、ああ。そうだな」
 唯の言葉にビクンと反応して、優香はその顔を見つめた。
「こら唯っ。先輩に対してのらりくらりはないんじゃないの」
「えーっ、そんな、褒め言葉ですやん」
 後ろに座っていたスカーレット小縞が唯の頭を突付くと、唯は振り返って反論する。そしてやいやいと盛り上がり始めた二人を尻目に、優香は言い様のない焦りを感じながら唯の横顔を見つめていた。
 これまで優香には、心のどこかで唯に負ける訳がないという思い込みがあった。実際、今の二人が正面からぶつかったのなら、十中八九優香が勝つだろう。だが、数年後。プロレスラーの肉体を手に入れた唯が、その天性の器用さを武器としたら。最後に立っているのは、どちらなのだろうか……。


 翌日から、優香の周囲を見る目が変わった。これまでは、どこか神田の事しか認めていない節があった優香だが、唯を含め全ての選手が優香をおびやかす存在であると思えてきたのだ。
 そして、それは日々繰り返される試合で証明されていった。雑用の合間にリング上を盗み見れば、そこには優香には無い武器を駆使してぶつかりあう戦士たちの姿があった。藤島の流麗な動き、真鍋の機転、つばさの俊敏さ。あの榎本でさえ、リングの上では信じられない程の跳躍力を発揮し、あらゆる角度からの攻撃で相手を追いつめる。それら全てが、今の優香には脅威に思えた。
 その優香の心の転換は、知らず周囲の優香への態度も変えていく。周囲へのリスペクトが行動の端々に微かながら見られるようになった優香に、周囲もまた扱いにくい一匹狼ではなく一人の後輩として接し始めるようになっていた。


「ね〜。綾せんぱい、いないね」
 ある日の夜。遠征先の旅館の玄関で、金井が何とはなしに呟いた。
「そういや見かけないね。どこ行ったんだろ」
 隣にいた香澄も、キョロキョロと辺りを見渡した。
「あやっぺなら、さっきまであたしと一緒にランニングしてたよ」
 そこへ、棒アイスを咥えた真鍋が玄関から入ってきた。
「あ〜。アイスいいな〜」
「へへ〜。いいでしょ〜。でもあげな〜い」
 話題がアイスに移ってしまいそうになったので、香澄が強引に引き戻す。
「で、その綾ちゃんは」
「さあ。あたし疲れたから、コンビニ寄って帰ってきちゃったし。その内戻ってくるんじゃないの」
 金井の前でこれ見よがしにアイスをペロペロしながら、真鍋が答える。
「ちょっとつかさ。ちゃんと見てなきゃダメじゃんか」
「何言ってんの。あやっぺだってもう大人なんだから。大丈夫だって」
「でも綾せんぱい、この間も道に迷ってたよ」
「…………」
 嫌な予感がして、黙り込む3人。ちょうどそこへ、ジャージ姿の優香が現れた。
「オレ、ランニング行ってきます」
 優香は3人の脇を通ると、玄関を出て行った。
「あれ? ヒナって、さっきランニングから帰ってきたばっかじゃなかったっけ」
 香澄の言葉に、金井と真鍋は首を傾げた。

「うう〜。ここどこ〜」
 綾は小さな体をさらに小さく縮こまらせて、暗い夜道を歩いていた。どこまで行っても両側は同じような白い壁。街灯は数メートルごとにぽつりぽつりと置かれ、鈍い光を放っている。つかさと一緒に走っていたはずなのに、いつの間にか隣にその姿は無く。辺りはすっかり真っ暗だ。
 と、前方から四つん這いの何かが歩いてきた。
「きゃっ。え、えと……犬さん?」
 綾の前方に現れたそれは、犬ではあったが「犬さん」などと友好的な存在ではなく。グルルルと鈍く唸りながら鋭い牙を剥き出しにしている、大柄の野犬であった。
「ひうっ。……犬さん、お、怒っちゃやだ……」
 綾が震えながら数歩後ずさる間に、さらに野犬の数が二匹増えた。一様に敵意剥き出しで、今にも飛び掛らんばかりだ。
「う、うう……もうやだ……もうやだよ……ひくっ……う、うあーんっ、おかあさーんっ」
 綾はとうとう恐怖の限界を超えて、大声で泣き出してしまった。それに反応し、野犬が一斉に綾に飛び掛ってくる。その鋭い爪があと数センチと迫った、その時。
「うらあぁっっ!!」
 綾の背後から怒声が響いた。野犬と、そして綾もまた、ビクンと反応し後ろを振り返る。そこには仁王立ちしている優香の姿があった。
 低く唸りながら今度は優香を睨みつける野犬共。対する優香も、目で殺さんばかりの形相で野犬を睨みつける。数秒続いた視殺戦。そして、
「キャインキャインッ」
 野犬は優香の眼力だけで恐れをなし、尻尾を丸めて逃げていった。
「ったく。大丈夫っすか、綾さん」
 優香は頭をボリボリ掻きながら、その場にへたりこんでいる綾に近づき、その顔を覗き込んだ。あの自己紹介の日以来、すっかり嫌われてしまったか、綾には避けられ続けている。それ故に今回も逃げられるかと思ったが。
「う……うう……」
 一瞬ぽかんとした表情を浮かべた綾だが、次第に大きな瞳いっぱいに雫を溜めると、
「うわあーんっ。怖かったよ、ひなちゃーんっ」
 弾かれたように優香に抱きつき、太い首に小さな手を回してしがみついた。
「……あ〜。ひなちゃんはちょっと、止めてくんないすかね」
「うあーんっ、うわあーんっ」
 苦笑いしながら呟く優香だが、大泣きしている綾の耳には入らなかったようだった。
「とりあえず、帰りますか」
 優香は綾をひょいと抱き上げると、その背におぶって夜道を歩き始めた。優香の背中にしがみついてしゃくりあげていた綾だが、やがて安心したのか、すやすやと寝息を立て始めた。

 翌日から、綾は優香にべったりとくっつくようになった。どこに行くにも後ろを付いて回る、その姿はまるで親鳥を追いかける雛のようであった。
「アハハ、ヒナに雛がくっついてる〜」
「うるさいっす」
 綾が懐いた事で、さらに周囲と優香の距離は縮まった。そしてそこは、いつの間にか優香が気を張らなくても良い場所になっていた。
 優香は初めて、居心地の良いと思える場所を手に入れたのだった。

オレには、何も無い。
いや、何も無かった。

でも、そんなオレが、居場所を手に入れた。
お前のお陰だ。感謝してる。
面と向かっては言わないけど。

だから、オレは全力で、お前に恩返しするよ。
オレは、お前の壁になる。
お前の前に立ちはだかる、最高にデカイ壁になる。
乗り越えられるなら、越えてみやがれ。

いつか、あの最高に熱い場所で。
お前と真正面からぶつかり合う。
それが、不器用なオレに出来る、たった一つの恩返しだろうから。




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