「……本当に、いいのか」
保科優希の突然の申し出に、社長は混乱していた。
「はい〜、もう決めたことですので〜」
こんな事態だというのに、彼女は普段通りのんびりとした口調を崩さない。
「じゃあ、せめて来月まで待ってくれないか。他の子たちも、ファンもこれでは納得しないだろう。引退式くらいさせてくれ」
「いえ、お気遣いなく〜。それと、その件についてお願いがあるのですが〜」
「なんだ? この際だ、私に出来ることなら何でも言ってくれ」
「ありがとうございます〜。それでは、私を引退ではなく、解雇扱いにしてほしいんですぅ〜」
「なんだって?」
社長は思わず頭を抱えた。以前から掴み所のないところはあったが、今日ほどそれを痛感した事はない。
「勘弁してくれ。もしそんな事をしたら、私が皆に恨まれてしまうよ」
「でもぉ、何でも言ってほしいとおっしゃってくださったでしょう〜?」
責めるでもなく、純粋な期待に満ちた目で社長を見つめる保科。
「……わかったわかった。そのように処理するよ」
「それと、出来ればでいいんですけど〜、私がいなくなっても、寮の私の部屋は、一週間ほどそのままにしておいて欲しいのですが〜」
「そうだな、空き部屋は一つあるし、身辺整理もあるんだろう。そのままにしておこう」
「ありがとうございます〜。それでは、失礼します〜」
ペコリと頭を下げ、保科は部屋を出て行こうとした。
「なあ。せめてお別れパーティくらい開かせてくれないか。皆も寂しがる」
「いいんですよ〜。またすぐ、お会いする時が来ますからぁ。社長にも、皆さんにも〜」
悲しみや寂しさとは全く無縁な、穏やかな笑みを浮かべ、保科は部屋を後にした。
「すぐにまた会えるって、どういう事だ……?」
社長は頭をガリガリと掻くと、立ち上がって窓の外を見る。オフィス・寮・道場が併設したフェアリーガーデンの敷地のすぐ裏には、鬱蒼と木の生い茂る大きな森が広がっていた。
フェアリーガーデンという名は、何も社長の道楽のみでつけた訳ではない。本拠地のある青森の片田舎のこの町には、古来より妖精にまつわる伝承などが伝えられており、その神秘性にちなんで名付けられたという側面もあった。伝承の中には、永遠の命、若返りの秘薬、など人類の永遠のテーマに関する物もいくつか見受けられる。
ちょうどフェアリーガーデンが所有した敷地のすぐ裏に、地元民の間では妖精の森と呼ばれる大きな森が広がっていた。設立当初は命知らずだなどと散々言われたものである。その森に迷い込んだものは神隠しに遭う、という言い伝えがあったのだ。それ故に、驚くほどの安値で土地を購入できたという理由もあるのだが。
「どういう事やねん、社長!」
バンッと叩かれた机が大きく跳ねる。机を揺らした張本人、成瀬唯は今にも社長の襟首に掴みかからんばかりの剣幕であった。
「保科ちゃんがクビって、なんでやねんな。それも、ウチらに一言の断りもなしにっ」
「どうもこうも、そのままの意味だ。それに、会社の決定に一社員の承認など必要ないだろう」
つまらなそうに頬杖をついて社長は答えた。普段は年齢や立場の差など関係なしに漫才のような掛け合いばかりしている二人だが、今日は明らかに空気が違う。
「そんな言い方ないやろっ」
「とにかく、これはもう決定事項なんだ。今さら覆る事はない。それにここを去ることは保科君の意思なんだよ」
「保科ちゃんの意思、やて? んな訳あるかいっ。今日まで5年間、ウチらみんなで一緒にやってきたのにっ」
唯は机の上についた両掌をきつく握り締めた。社長の決定も、保科が退団の意思を持っていたという事も、何もかも信じられなかった。昨日まで、本当の家族のように過ごしてきたというのに。
「霧子さんもなんとか言ってやってや、この薄情社長にっ」
傍らのデスクで書類整理を行っていた秘書の井上霧子に援軍を求める。しかし、普段は社長を圧倒するほどの強い発言力を持つ彼女は、ただ首を横に振るだけだった。
「私は社長の決定に従うだけです」
「そんな……」
当てが外れた唯は思わず唇を噛む。
「話は終わりかな。じゃあ、練習に戻りなさい」
「練習? こんな時に練習なんてしてられるはずないやろっ」
「何をバカな事を。君にムダに出来る時間などないはずだろう」
「ハッ。どんだけ練習したかて、こんないつクビ切られるかわからん所じゃ意味ないわ、ドアホッ」
唯は吐き捨てると、踵を返してドアを開き、はめ込みのガラスが割れそうなほど乱暴にドアを閉めて社長室とは名ばかりの雑多な部屋を出て行った。
「……ハァ」
唯が部屋を出ると、社長は大きく溜息を吐く。
「もっときちんと説明して差し上げたら良かったですのに」
霧子は湯飲みにお茶を淹れると、社長の前に差し出した。
「ありがとう。……私自身混乱していて、うまく説明できる自信がないんだよ。それに、これは保科君との約束でもあるから」
湯飲みに口をつけ喉を潤すと、また一つ大きな溜息が出る。
「しかし、このままでは皆さんに悪影響が出てしまいます。最悪の場合……退団を希望する選手も現れるかと」
「それは……保科君自身の口から、語ってもらうしかないだろうな。しかし、誰にも相談していなかったとは。そう言えば、その保科君は?」
「朝から見当たらないそうです。部屋はそのままですので、まだ寮を出たという事ではないと思いますが。社長に話を通しているのならば、そのような夜逃げ同然のマネをする必要もありませんし」
「そうか……保科君、君は一体、何を考えているんだ?」
社長は再び溜息を吐き、立ち上がると窓の外の森を見た。太陽の光に照らされて輝く緑の木々が美しい。しかしそこに見えるのは表面のごく一部だけであり、その奥には光の届かない鬱蒼とした森がどこまでも広がっているのだった。
「どうだった?」
唯がドアを開けると、同期の選手達が並んで待っていた。
「話にならんわ。ったく、あの冷血社長」
唯はいまだ怒りが収まらないという感じでそう吐き捨てた。
「じゃあ……私達も、いきなりクビにされちゃう可能性もあるって事なのかな」
ドルフィン早瀬こと、早瀬葵が不安気に呟く。
「でも、私まだ信じられないよ。社長が優希の事クビにしたなんて。何か事情があるんじゃないの?」
この話を最初に小耳に挟んだ、テディキャット堀こと堀咲恵が首を傾げる。たまたま社長室の前でそれを聞いてしまい、まずは同期の仲間に話を聞いている者がいないかと相談したのだった。すると唯がその話を聞くや否や真偽を正しに社長室へ飛び込んでいった、という訳だ。
「ボクもそう思う。だって優希の部屋の荷物とか、全部そのままにしてあるし。一時的な事じゃないのかな」
中江里奈も堀に同意して頷いた。
「せやったらなんでそう言わへんねん。社長、ウチにはっきり言うたんやで。『会社の決定だ』って」
「それは……」
「う〜ん……」
唯の言葉に、納得はいかないながらも返す言葉がなく、二人は黙り込んでしまった。
話しながら移動をしていた4人は、腰を落ち着かせて話す為に食堂の前までやってきた。そこではフォクシー真帆がおむすびを、榎本綾がプリンを食べていた。
「のんきなもんやな、あの二人は。こんな時に」
美味しそうにそれぞれ頬張っている姿を見て、唯は思わず溜息を吐いた。
「どうした唯。難しい顔して。腹が減ってるなら真帆のを分けてやるぞ」
椅子を引いて隣に腰掛けた唯達に、真帆が無邪気におむすびを差し出してくる。
「そんなんちゃうわ。保科ちゃんの事について話してたんや」
手を振っておむすびを遠慮すると、唯は頬杖を付く。
「優希? ああ、心配しなくてもその内帰ってくるぞ」
「え、真帆さん何か優希さんに聞いてるんですか」
早瀬が尋ねると、真帆はブンブンと首を横に振った。
「なんにもだ。でも真帆にはわかる」
「それって、ただの勘やんか」
「けど真帆姉の勘ってよく当たるんだよなあ」
唯は即座にツッコミを入れたが、中江は否定しきれなかったようだ。事実、野生の勘というものなのか、真帆の勘は良く当たるのだ。
「そうだよ〜。だってゆーきせんぱい、またすぐ会えるって綾に言ったもん」
「綾ちゃん、何か聞いてるの?」
綾の隣に座った堀が、綾の跳ねた髪を撫でながら尋ねる。綾は気持ち良さそうにしながら答えた。
「うん。昨日の夜、一人でトイレに行くの怖かったから、ゆーきせんぱいにいっしょに行ってもらったの。そしたらゆーきせんぱい、『明日から私はいなくなるから、一人で行けるようにならなきゃダメですよ〜』って言ったの。『いつ帰ってくるの』って聞いたら、『わからないけど、またすぐ会えますよ〜』って言ってたもん」
「な、なんでそれをすぐ言わへんねんっ」
思わず大声を上げて立ち上がる唯に、綾はビクッと反応して泣きそうな顔をした。
「だ、だって聞かれなかったんだもん〜。うぅ〜、ゆいせんぱい、こわい〜」
「ちょっと唯。綾ちゃんに当たらないでよ。よしよし、大丈夫よ綾ちゃん。ほ〜ら、プリンだにゃ〜」
ビクついていた綾だったが、堀に頭を撫でられながら口元にプリンの乗ったスプーンを運ばれると、いつもの笑顔を浮かべてパクついた。
「あ、ああ、スマン。ゴメンな、あやっぺ」
「ん〜ん、だいじょぶ」
唯が素直に謝ると、綾はプリンですっかり機嫌が直ったようだった。
「綾ちゃんの話が本当だとすると、優希さんは数日で帰ってくるつもりって事だよね」
「うん。でも、だったらなんで解雇なんて形にしたんだろ」
皆一様に首を傾げる。と、その時。
「たいへんたいへんっ。大変だよーっ」
大慌てで辻香澄が食堂に飛び込んできた。
「どうしたの、香澄ちゃん」
早瀬がテーブルに置かれていた自分の分のグラスを辻に渡すと、辻は中に入っていた水を一気に飲み込んだ。
「ぷはっ。ありがとう、葵先輩。それで、大変なんだよっ」
「大変大変って、何が大変なのかさっぱりわかんないよ」
中江に促された事で、ようやく話が進む。しかしそれは、俄かには信じ難い内容であった。
「優希先輩が、消えちゃったんだっ」
朝方ジャージのまま寮の玄関を出て行った保科。たまたまトイレに起きた帰りにそれを見かけた辻は、胸騒ぎがした為真鍋と連れ立って後をつけていった。保科が向かった先は寮の後ろに広がる妖精の森。地元民でさえ迷いやすいので滅多に入らないというその森を保科は迷いなくズンズン進んでいき、20分ほど歩くと大きな泉の前に出た。
そこに跪いて手を合わせた保科が何事が祈っていると、その泉から真っ白な服を着た女神のような美しい女性が現れ、保科の周りがキラキラと煌くと、次の瞬間その姿が消えていたのだった。
「ホンマか〜? 夢でも見てたんちゃうの、かすみん」
とても信じられないといった顔で見つめる唯に、辻は両手を大きく広げて訴える。
「本当なんだってばっ。見たんだよボク、優希先輩が消えちゃう所。だって本当に優希先輩、いなくなっちゃって帰ってきてないんでしょ」
「それは、確かにそうだけどにゃあ」
「所で、つかさちゃんはどうしたの」
「つかさは、なんか頭が痛くなったって、戻ってくるなり寝ちゃった」
「でもよく香澄、あの森から一人で戻って来れたね」
「うん、それなんだけど。泉の周りをいくら探しても優希先輩いないから、とりあえず一旦帰ろうって事になったんだけど、どれだけ歩いても出口が見つからなくて。疲れて休んでたら、ふと優希先輩の声が聞こえたような気がして。その声の方向に歩いていったら、森から抜けられたんだ」
またも信じられない内容を口にする辻に、一同黙り込む。
「とにかく、保科ちゃんが森で消えたのは確かなんやろ。探しに行かな」
そう言って立ち上がった唯だが、その腕を真帆に掴まれた。
「行っちゃダメだ、唯」
「なんでっ。保科ちゃんかて迷ってしもてるかもしれへんやろ。迎えに行ってやらな」
「優希は、森の神様にお願い事に行ったんだ。だから唯が行っても会えないぞ」
「神様って、んなアホな」
「本当だぞ。真帆を信じろ」
自信満々に頷いてみせる真帆。
「せやけど、ホンマに迷子になってたらどないすんねんな」
「とりあえず、社長に相談してみようよ。私たちがあの森に入ったって迷子になるだけだろうし、地元の人に協力して探してもらった方がいいにゃ」
「あの、すみません」
いつの間にいたのだろう。食堂の入り口に、神田幸子が立っていた。首にかけたタオルと額に浮いた汗からして、ロードワークを終えて戻ってきた所だろうか。
「どないしたん、さっちん」
「はい。保科さんの事でしたら、捜さないでほしいという事です」
『ええっ!?』
「これを」
驚きの声を上げる皆の前で、神田は一枚のメモ用紙を取り出してテーブルの真ん中に置いた。そこには、保科のものと思われる達筆な時で『本日から留守に致しますが、いずれまた会えると思いますので、捜さないで下さい。ご心配をおかけして申し訳ありません』と書かれていた。
「幸子、なんでこれをもっと早く出さないんだよ」
「今日の昼にこれを見るよう、保科さんに言われていましたから」
中江の追求に、神田は簡潔に答える。
「……確かに、幸子ちゃんなら頼まれ事をしても余計な事は聞かないだろうし、約束を破る事もないものね」
早瀬の呟きに、皆納得する。つまり保科は、森の神様に会う為に朝方寮を抜け出して妖精の森の泉へ向かい、何事か願い事をすると消えてしまった。そうなる事がわかっていたから、神田に伝言を頼んでおいた。それも保科が用事を済ませた後であるはずの、その日の昼に確実に伝わるように。ついでに言うならば、いなくなる事がわかっていたから、綾に一人でトイレに行けるよう言い聞かせていた。そういう事になる。
皆の話が全て本当である事を前提にしての話だが。
「あ〜っ、もう、訳分からんっ」
唯は大声を上げて短い髪を掻き毟ると、テーブルに突っ伏した。
「優希、私たちに心配かけたくなかったんじゃないかな。だから何も言わずに」
「ウチかてそれくらいわかってるよ。でも、肝心な所がはっきりせえへんねん。保科ちゃんは、何がしたいんや」
「…………」
その唯の問いに答えられる者は、誰もいなかった。
結局、保科の申し出通り、彼女をおおっぴらに捜す事もなくそれから3日が過ぎた。彼女はまだ、帰っては来ない。皆、その事実が心に引っかかりながらも、黙って待つ事しかできずにいた。
ドンドンッ!
「唯姉。ゆいねえってばっ」
部屋のドアが何度も叩かれ、自分の名が叫ばれている。この声は後輩の、小早川志保だろうか。唯は眠い目を擦りながら、ドアノブを回した。
「なんやもう、朝っぱらから。今日オフやろ。ウチ、昨日飲み過ぎて頭痛いねん。もうちょっと寝かせてや」
大きな欠伸を一つすると、唯は踵を返して布団に戻ろうとする。
「だ、ダメですよ唯先輩っ。新人さんが保科さんで、大変なんですぅ〜っ」
小早川の隣に立っていた金森麗子が、訳の分からない事を言いながら唯のパジャマの背中を引っ張った。
「はあ、何言うて……保科ちゃん、保科ちゃんやてっ!?」
唯はその名を聞くなり、180°回頭して部屋を飛び出した。
「ああっ、唯姉っ、そっちじゃなくて道場の方だよっ」
見当違いの方向に走り出した唯の背中に、小早川が慌てて叫んだ。
「はあ、はあ……あー、頭いたっ」
飲みすぎでガンガンする頭を押さえながら、どうにか唯は道場まで辿り着いた。保科の事を考えてしまいどうにも眠れないので、オフの前日という事もあり一人で飲みすぎたのが失敗だったようだ。
「あ、おっはよーございまーすっ、唯センパイッ」
道場の入り口に立っていた渡辺智美が、唯を見かけて大きな声をかける。
「アタタ、頭に響く……朝から元気やなあ、トモは」
「何言ってんですか、もう昼ですよ〜。それより、優希センパイ帰ってきたんですよ。それも、なんだか若返ったみたいで、あたしより年下に見えるくらい。どんなエステ行ったのかな。あたしも教えてもらおっと」
「そうや、保科ちゃんはっ」
唯は渡辺を押しのけて道場の玄関をくぐる。するとそこには確かに、保科優希と瓜二つの少女が居た。
「保科ちゃんっ」
唯は居ても立ってもいられなくなり、その彼女に飛びつく。
「アンタ、どこ行ってたんや。心配してたんやでっ」
「あらら〜」
ギュッと少女を抱きしめる唯。少女は戸惑ったような声を上げる。
「待ちなさい、成瀬君。彼女はまだ入団テスト中だぞ」
「何言うてんねん社長。保科ちゃんやで。今さら入団テストやなんて……ん?」
社長の言葉で初めて、唯は違和感に気づく。抱きしめた彼女の体は、まるでプロレスラーとは思えないほど華奢で。
「えっ」
唯は少女の肩に手を置いて密着した体を離すと、頭のてっぺんから足の先まで視線を巡らせる。そこにいるのは確かに保科優希に違いないのだが、髪の色も、瞳の色も、わずかに違うような気がする。そしてそのほっそりした体は、数日前まで共に過ごしてきた彼女というより、むしろ初めて出会った頃の彼女のようで。
「フェアリー保科と申します〜。よろしくお願いします、唯さん」
まるで初めてあったかのように唯に向かって頭を下げた少女は、だがしかしなぜか唯の名を知っていたのだった。
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