「にゅふふ〜」
つかさはご機嫌だった。
「か〜すみんに、勝っちゃった〜♪」
即興で作った喜びの唄を歌いながら、満面の笑みで食後のデザートを頬張っている。
先シリーズ最終戦、サキュバス真鍋こと真鍋つかさは辻香澄とのシングルマッチに勝利した。素質の面で不安視されていた5期生だが、乾いたスポンジが水を吸うが如く3人ともすくすくと成長し、反面16で入団した辻は同期の小早川志保に差をつけられ伸び悩んでいた。
それでも経験の差と持ち技の数で後れを取る事はなかったのだが、とうとう2年後輩のつかさに黒星をつけられてしまった。
ここ数日、つかさは事あるごとにそれを口にしている。仲の良いそれでいて目標視していた先輩から初勝利を上げた事がとても嬉しかった為であり、そのような軽口を聞いても怒らない相手であると信じていたせいもある。だが。
「……ごちそうさま」
テーブルの向かいで食事を取っていた香澄は食器の乗ったお盆を手に立ち上がった。
「あ、待ってよかすみん。あたしもうちょっとで食べ終わるから」
「ボク、寄る所があるから」
「え〜、いいじゃ〜ん。待っててってば〜」
「……先に行くよ」
「あっ、ちょっと。……もう、ケチー。ぶ〜」
さっさとつかさを置いていってしまった香澄の背中を見ながら、つかさは唇を尖らせた。
「あ〜あ、かすみん先輩怒ってるんじゃない。つかさがあんまりからかうから」
隣で食事を取っていた渡辺智美がつかさの頬を突付きながら言う。
「だいじょうぶだよ。あたしとかすみんの強ーい絆はこのくらいで壊れないの」
「どうだかね〜」
ふんぞり返ってそう言い切るつかさに、智美は思わず肩を竦めた。
コンコン。
「あの、優希先輩。いらっしゃいますか」
「あら〜。どうぞ、開いてますよ〜」
ノックに応えたその声を受け、香澄は扉を開く。そこでは保科優希、いや、今はフェアリー保科か、がこたつに入ってお茶を啜っていた。
「いらっしゃい、香澄さん。何の御用でしょうか〜」
「あ、えっと。ボク、優希先輩に相談があって」
「まあ。私でお力に立てるのでしたら伺いますよ。ささ、どうぞこちらに。お茶を入れますから少々お待ちくださいね〜」
優希はこたつに香澄を招き入れると、立ち上がりいそいそとお茶の準備を始めた。
「それで、お話というのは〜」
穏やかな笑みを浮かべ香澄を見つめる優希。その笑顔は全てを許してくれそうで。ずっとためらっていた、タブーになっているあの事についても、今なら聞けそうな気がした。
「ボク、強くなりたいんです。でも、多分もうボクには時間がなくて。来年からは成長どころか、今を維持していくので精一杯になりそうで。だから、その……」
香澄は優希の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私に何か特別な力があるわけではないんですよ」
「それはわかってます。でも、優希先輩は今こうして、レスラー人生をやり直している。もし、叶うのなら、ボクも」
「一番大切な物を失ってしまうとしても、ですか」
「えっ」
穏やかな笑みがふと隠れ、真剣な眼差しが香澄を貫いた。香澄の心臓がドクンと大きく跳ねる。一番大切な物。いくつか候補はあれど、一番と言われても今すぐには絞りきれない。だが。
「……構いません」
「香澄さん」
「こんな中途半端で終わるなんて、嫌なんです。これじゃボクは、プロレスラーとして何も残せていない。もう一度やり直せるのなら、何を犠牲にしたっていい。ボクはっ」
拳を握り締めて言葉を搾り出していた香澄の唇に、優希の人差し指がそっと置かれた。
「わかりました。あの時私が体験した事をお話しましょう。もっとも、私に出来るのはお話しする事だけですけど〜」
「は、はいっ。ありがとうございますっ」
勢い良く頭を下げた香澄を、優希は温かな目で見つめていた。
翌日。寮は大騒ぎになっていた。辻香澄が忽然と姿を消していたのだ。
「まさか、夜逃げ?」
「そんなはずないですよ。あの香澄ちゃんが」
「でも、最近思いつめた顔してるの、ボク見たよ」
ざわめく寮内。そして、一番ショックを受けていたのはつかさであった。
「わあ〜んっ。あたしがかすみんにヒドイ事ばっかり言ったから、かすみんいなくなっちゃったーっ」
つかさは床にへたりこんで、わんわんと大泣きしていた。
「別につかさのせいやないって。ほら、泣き止んで」
成瀬唯がハンカチでつかさの顔を拭いてやるが、しかし後から後から涙は溢れてくる。
「あたし、かすみんに褒めてほしかっただけなのにーっ。3年間頑張って、初めて勝ったんだよ。だから、すごいねって、よく頑張ったねって言って欲しかった、それだけなのにーっ。うわあーん、ごめんなさい、かすみんーっ」
「つかさ……」
唯はすでにびしょびしょになったハンカチを折り返して乾いた面を表にし、もう一度つかさの顔を拭いてやった。言葉通りつかさは純粋に慕っている香澄に褒めてほしかっただけなのだろう。だが、それが伸び悩んでいた香澄にどれだけのプレッシャーをかけていたか。つかさが思うほど、香澄は人格者ではないのだ。笑っておめでとうと祝福できるほど、香澄もまた大人になりきれてはいなかったのだろう。
「あらあら〜。皆さんどうしたんですか〜」
すると、場違いとも思えるのんびりした声が届いた。
「あ、保科ちゃん。それが、かすみんがおらんようになってしもて」
言いかけて、唯はハッとした。2年前、同じ様に忽然と姿を消した少女がいたではないか。そして数日後、その少女にそっくりの女性がひょっこり現れ、そして今、目の前に立っている。
「保科ちゃんっ!」
「は、はい〜っ」
いきなり両肩を強く掴まれて、優希は目を白黒させた。
「アンタ、もしかしたらかすみんがどこ行ったか、知ってるんちゃう」
「ああ、香澄さんなら〜」
優希の指差した方向を見て、皆一様に脱力した。
「多分、あちらの泉に向かわれたんだと思います〜」
彼女が指差したのは寮の裏手、妖精の森が広がっている方角であった。
今回もまた、社長には香澄からの退団願いが届けられていた。皆、いずれ戻ってくるであろうという安心感と、しかしもし戻ってこなかったらというわずかな不安を抱えていた。
特につかさは極端で、放っておくと一人で森の中へ突入してしまいそうであった為、柱に縛り付けられて交代で見張りがつくという有様であった。
そして、数日後の朝。
「か、かすみんーっ!?」
つかさの大声で、皆が目を覚ました。どうやって縄抜けしたのか、いつの間にか部屋から抜け出していたつかさが、一人の少女を抱えていた。寮の玄関先に倒れていたその少女は確かに辻香澄に瓜二つで、しかし髪の色素は少し薄く、ひどくほっそりして幼く見えた。
「かすみん、目を開けてよ、かすみんってばっ」
つかさが乱暴にその肩を揺り動かすと、少女はゆっくりと目を開いた。
「ん……あ……」
「良かった、目を覚ました。もう〜、どこ行ってたんだよ、かすみんのバカーッ」
つかさは少女の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。しかし、少女は不思議そうな表情を浮かべていた。
「えっと……キミ、だれ?」
「え。何言ってんの、かすみん。こんな時にそんな冗談言っても、面白くないよ」
つかさは香澄を潤んだ瞳で睨みつける。しかし、少女はキョトンとしたまま。
「うそ、だよね。かすみん、あたしの事、覚えてないの」
「え、えと……う〜ん」
少女は眉を顰めて、必死に思い出そうとしていた。しかし、いくら唸っても思い出せそうにないようだ。
「その……ゴメン」
「そんな……ヤだよ、そんなの。かすみんなんでしょ。そうだって言ってよ。ねえ、そうだって言ってよおっ!」
つかさが少女の肩を掴んでムチャクチャに揺する。と、寮の中から様子を見に出てきた唯達が、慌ててつかさを取り押さえた。
「どうして、どうしてあたしの事覚えてないんだよっ。かすみんのバカーッ!」
錯乱するつかさからどうにか聞き出した言葉を繋ぎ合わせ、なんとか事態を飲みこむ一同。
「この子、香澄じゃないのかにゃ」
「そんな。どう見ても香澄ちゃんだよ」
「うむ。この匂いは香澄の匂いだ。真帆にはわかるぞ」
「真帆姉がそう言ってるし、香澄じゃないのかな。優希の件もあるし」
「この子がかすみんやとしたら……もしかして、記憶喪失ってヤツ?」
へたりこんだままの少女を前に話し合う一同。すると、唯の漏らした一言につかさが反応した。
「記憶喪失……じゃあ、あたしの事も、ちょっと忘れちゃってるだけ」
暴れるのを止めてブツブツ呟きだしたつかさに、後ろから羽交い絞めにしていた神田幸子の力が緩んだ。
「……じゃあ、大きなショックを与えれば、もしかしたら」
「どうした、つかさ」
後ろから幸子がつかさの顔を覗き込んだその瞬間、つかさは身を捩って幸子の手を逃れ、再び少女に掴みかかった。
「あ、こらっ」
「かすみんっ。これで思い出してーっ!」
「!!?」
ブッチュウウゥゥッ。
その瞬間、その場にいた全ての人間の動きが止まった。つかさは香澄の唇に、自分の唇を思い切り押し付けていた。
凍りつく時間。いきなり唇を奪われた少女は驚きに目を見開き、息苦しさに小刻みに震えだし、そして。
「……何すんだ、この変態ーっ!」
バッチイィィンッ!
少女は思い切りつかさの横っ面を張り飛ばしていた。
「いったあぁ〜い。何すんのよぅ」
ひっくり返ったつばさが真っ赤になった頬を押さえて起き上がる。
「殴られて当然だっ。この変態サキュバスッ。あっち行け、この、このっ」
殴った側の少女もまた違った意味で真っ赤に頬を染め、つかさにストンピングを連打していた。
「いた、いたいって……え、サキュバスって。かすみんもしかして、あたしの事、思い出した?」
「何言ってんだよ。こんなHな事するの、つかさしかいないだろっ。バカッ! ボク、初めてだったのにっ」
「やった……やったーっ! かすみん、あたしの事思い出したーっ」
つかさは起き上がると、少女に勢い良く抱きついた。少女はバランスを崩し、つかさに押し倒されてしまう。
「ちょ、離れろーっ。ボク、怒ってるんだぞっ」
「あたしだって怒ってるよ〜。でも、これで許してあ・げ・る。んん〜っ」
「わ、ちょ、やめろって、ギャーッ! 誰か助けてっ、この変態なんとかしてーっ!」
馬乗りになって少女=香澄に再びキスを迫るつかさを、慌てて皆で引き剥がした。
「ええーっ?」
香澄は大きく目を見開いた。一度退団した扱いになっている為、マイトス香澄として再デビューの為入団テストを受ける事になった香澄は、身体測定を行っていた。そして、その結果に耳を疑った。
「ですから、151.6cmです」
身長計を覗き込んでいた井上霧子が、落ち着いた声音で言う。
「うそっ、そんな……縮んでる……」
香澄の元々の身長は152.4cmで、四捨五入して152cmだったのだが、なぜだか約1cmも縮んでしまっていた。四捨五入すれば変わらず152cmなのは、幸か不幸か。
「あらあら〜。どうしたの、香澄ちゃ〜ん」
愕然とする香澄につかさが近寄ってきて、頭を撫でる。
「あら〜、ちっちゃくなっちゃったんでちゅか〜」
「な、何すんだっ。それにつかさだって、ボクと身長そんなに変わらないだろ」
「全然違うよ〜。あたし、153cmだも〜ん。どこかのおチビさんより、ずーっとおっきいんでーす」
つかさは胸を張ってふんぞり返る。つかさの身長は152.7cm。四捨五入すると153cmである。結局公式プロフィールでは1cmしか変わらないのは相変わらずだが、しかし実質3mmから1cm以上差がついてしまったのは、香澄には大きなショックだった。
「あらあら〜、泣かないで〜。ほ〜ら、アメ玉あげまちゅよ〜」
つかさはポケットをまさぐるとアメ玉を取り出して香澄に握らせ、再び頭を撫でる。するととうとう、香澄が爆発した。
「子供扱いするなーっ!」
「だって、これからかすみんはあたしの後輩だもんね〜。ほら、お姉さまって呼びなさーいっ」
「誰が呼ぶかーっ!」
ドタドタドタッ。追いかけっこを始める二人に、身体測定を中断されてしまった霧子は大きな溜息を吐いた。
「社長。また妙な事になってもうたね」
唯が社長の隣で呟く。二人の様子を見守る社長は笑顔だった。
「どういう理屈かはわからないが、もう一度辻君がレスラーとしてやり直せるなら、私としてもこんなに嬉しい事はないよ。これも、妖精のお陰かな」
「ハア。何でもそれで納得してまうんやから」
呆れかえる唯。その傍らで、子供のように元気に走り回る香澄の姿を、優希は優しく見つめていたのだった。
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