コンコンッ。
「は〜い」
 優希が扉を開くと、そこには意外な顔があった。
「よっ」
「あら、唯さん」
 そこには、すでにプロレスラーを引退しフェアリーガーデンのフロント業務に回っている成瀬唯が立っていた。
「珍しいですね〜。寮の方に来られるなんて〜」
「うん、ちょっとな。話したいことがあって。上がってもええ?」
「ええ、もちろん。どうぞ〜」
 優希は唯を部屋に招き入れると、いそいそとお茶の準備を始めた。

「久々に見たけど、あんま変わってないなぁ保科ちゃんの部屋」
 3月とはいえ、北国はまだ寒い。畳の上に腰を下ろすとこたつの中に足を突っ込み、唯はぐるりと部屋を見渡した。純和風の落ち着いた調度品で統一された部屋の、所々に旧式の列車の写真が飾られている。それがまた郷愁を誘い、不思議とこの部屋の雰囲気に融合していた。
「うふふ、人の好みなんて、何年経ってもそれほど変わらないものですよ〜」
 優希が二つの湯飲みと急須、お茶請けの煎餅の入った皿の乗ったお盆を運びながら、小さく微笑む。お茶と皿をこたつに並べ、寒かったのか優希もそそくさとこたつの中に入った。
「変わらない、ねえ」
 唯はお茶を啜りながら優希の顔を見つめる。唯が既に20代を折り返し少女の殻をとうの昔に脱ぎ捨てたのに比べ、優希はいまだ少女の面影を残していた。二人の内面の違いによる部分も少なからずあるだろうが、それだけでこれだけの違いが出るものだろうか。端的に言えば、5つは年が離れて見えるのだ。
「どうかしました?」
 己の顔をまじまじと見つめられても戸惑った様子もなく、優希はにこにこと唯を見つめ返す。
「ううん、別に。おっ、この煎餅美味いね」
「でしょう。気に入ったなら差し上げますよ〜。私いっぱい買い溜めしてありますから。一袋食べるたびに、廃線が1分延期されていくんです〜」
「廃線? どういう事」
 それからしばらくは、久々の茶飲み話に花が咲いていた。

「なあ、保科ちゃん」
「はい〜」
 お茶のおかわりを急須に注ぎながら、優希がのんびりと返事をする。
「あんた今、楽しい?」
「ええ。唯さんとお話するのはとても楽しいです〜」
 少しピントのずれた答えに、唯は思わず頭を掻く。
「ああ、そういう意味と違うねん。今、充実してるかっていう事。プロレスラーとして」
「……ああ、なるほど」
 湯飲みを唯の前に差し出すと、自分の湯飲みを手に取り、口をつける。
「ベルトはまだ巻けていませんけど、プロレス大賞も頂きましたし。私は幸せ者だと思います〜。……本当に、あの頃には考えられなかったくらい」
「そっか」
 唯は両手を湯飲みに当てて、手のひらを温めながら微かに揺れる水面を見つめる。そこには茶柱が、横になってたゆたっていた。
「ウチも、自分は十分幸せ者や思うねん。ウチみたいな大した素質もないのを、社長が拾ってくれて、リングに上げてもろて。引退した後も、学のないウチをこうして雇ってくれてる。ほんま、これで不満なんて言うたらバチ当たるって、自分でもわかってんねん。……でもな。ウチ、自分でもビックリするくらい欲張りやったんや」
 唯は湯飲みを呷り、熱いお茶を喉に流し込む。傾けられて波打った水面に翻弄されて浮き沈みを繰り返した茶柱は、波が引くにつれて再び横たわったままたゆたい始めた。
「あの頃は、訳も分からず走り続けて。気がついたら、ゴールを走り抜けてた。でも、走ってる間の景色とか、何も覚えてへんねん。目の前の、すぐ側におるのに、手の届かんかった背中ばかり見つめとったから」
 搾り出すように呟き、唯は俯いた。
「でも」
 ゆったりとお茶を啜ってから、優希が口を開く。
「もしももう一度頭から走り始める事が出来たとして〜。今度こそ先頭を走れるかどうかなんて、わからないんですよ。……もう一度走る為の代償は、唯さんの一番大切な物。その不確かな可能性の為に、一番大切な物を捧げる事ができるのですか」
 唯は顔を上げて優希を見つめる。その瞳は、不思議な輝きを放ち、ここではないどこかを見つめているようで。そこにいるのは、いつも穏やかな笑顔を浮かべている、友人の保科優希ではなく。神秘的で神々しい、人を超越した存在のように感じられた。
「ウチには、何もあらへんよ。親兄弟もおらんし、財産や家がある訳でもない。はした金でええんならいくらでも持ってったらええ」
「大切な物というのは、何も物理的な話だけではないんです。例えば……幸せだった時間の、大切な記憶」
「記憶……」
 幼い頃の記憶には、あまり良い想い出はない。物心ついた頃には天涯孤独の身であった唯を拾って育ててくれたのは、小さなサーカス団の団長だった。厳しい人ではあったが、芸を覚えるたびにご褒美をくれたのは覚えている。
 だが、そんな団長が事故で亡くなり新しい団長に変わった事で、唯の生活も一変した。新しい団長は行く当てのない唯を最低限の賃金で働かせる事ができる労働力としか見ておらず、ともすれば年若い唯の肢体に下卑た欲望を向けてくる事すらあった。
 サーカスではスポットライトも当たらぬ雑用ばかりをさせられ、夜は空腹と身の危険に怯え震えながら眠る。義務教育を終えた事により学校という逃げ場すらもなくなった唯には、たまたまテレビ画面の中に見た、リングの上でスポットライトを一身に浴びるチャンピオンの姿が、どうしようもなく魅力的に見えたのだった。
「アハハ、ウチの記憶なんてロクなもんないで。欲しけりゃいくらでもあげるわ」
 昔を振り返り、自嘲気味に呟く唯。
「唯さん。あなたは今、幸せですか」
「えっ」
 優希の姿をしたその存在は、まっすぐ唯の瞳を見つめていた。昔の記憶など、出来る事なら捨て去ってしまいたい。だが、フェアリーガーデンに入団してからの記憶。同期の仲間や後輩達、そして社長と共に過ごした記憶は、かけがえのない、今の唯の全てであった。
「……幸せや。さっきも言うたように、ウチにはもったいないくらいの幸せっぷりや。ここに入ってからの記憶が、ウチの全てなんや。……ハハ、きっついわ。まさかそれ全部、引き換えにせえ言うんかいな」
「六の年を遡り似て非なる者に生まれ変わるのならば、その者の一部を代償とすることで叶える事が出来ます。しかし、十二の年を己の名を持ったまま遡るには、より多くの代償が必要となるのです」
「……なるほどな。保科ちゃんやかすみんみたいにはいかへんって事か」
 唯は溜息を吐き、少し冷めてしまった湯飲みを呷った。
「……なあ、保科ちゃん」
「はい〜」
 いつの間にか、優希から発せられていた神秘的なオーラは消え失せ、彼女はいつもの柔らかな笑顔を浮かべていた。
「保科ちゃんの一番大切な物って、なんやったん」
「私の大切な物ですか〜。それはですねぇ」
 優希が右手で壁を指差した。そこには一枚の写真が飾ってある。
「古い……電車?」
「はい〜。私の地元の、さらに田舎の方を走っていた列車です〜。母方の祖母が住んでいる村を、一日に数回だけ通る列車なんですよ。夏休みや冬休みに、その列車に乗って祖母に会いに行くのが、私の一番の楽しみだったんです〜」
「へえ」
「でも、今は廃線になってしまいました。6年前、祖母が亡くなったのと同じ時期に」
「6年前……そっか……」
 それを偶然と片付けることは容易いだろう。だが結果として、彼女は一番大切な物を失い、プロレスラーとしての新たな生を手に入れた。
「保科ちゃん」
「はい〜」
「ウチ、あんたの事、大好きや。親友や思っとる」
「私も、唯さんの事大好きです〜」
「ふふ、ありがと」
 唯はこたつを出て立ち上がると、部屋の扉に手を掛けた。
「ありがとうな。話聞いてくれて」
「いえ〜。あまりお役に立てませんでしたけど」
「そんな事あらへん。ウチには覚悟が必要やって事が、ようわかったわ。ほんまに、ありがとう」
「……あの〜、唯さん。社長にお話しなくても、良いんですか〜」
「……ええねん。社長には言われへん。言ったら、ウチは動けんようになってしまうから」
「そうですか〜」
 唯は扉を開くと、首だけ振り向いて言った。
「ほな、またな」

 その夜、唯は久しぶりに、寮の食堂に顔を出し後輩達に混ざって食事をした。団体のエースと呼ばれるほど成長した選手達も、唯の前では皆かわいい後輩の姿に戻っていた。
 自分のアパートに戻ると、久々に長電話をした。翌日は休日の為、思う存分話すことが出来た。
 テディキャット堀は、結婚しもうすぐ子供が生まれるという。彼女に似た可愛らしい子供が生まれる事だろう。
 中江里奈は、スポーツジムのインストラクターをやりながら、学校の先生になるべく勉強しているらしい。努力家の彼女なら、必ずや夢を叶えるだろう。
 ドルフィン早瀬には国際電話。ヒューイット家のお屋敷でも良くしてもらっているようで、無事妹のちーちゃんは卒業を迎えられそうという事だ。
 小早川志保は地元でプロレスの道場を開いたそうだ。決して恵まれたとは言えない体格ながらチャンピオンベルトを巻いたという偉業が、女子プロレスラーを目指す小柄な少女達の憧れとなっているらしく、経営は上々との事。
 フォクシー真帆には連絡がつかなかったが、目を閉じれば野山を走り回っている姿が容易に浮かんできた。

 翌日。早朝に一通の手紙をフェアリーガーデンの事務所ポストに突っ込むと、唯は寮の裏手に広がる霧の立ち込める妖精の森に足を踏み入れた。初めて通る道であるにもかかわらず、目的地が分かっているかのように唯の足は迷いなく前へ進んだ。
 すると、一匹のキツネが唯の前に飛び出してきた。
「ん。なんや」
 唯がしゃがみこむと、キツネはトコトコと近づいてきて唯の足元にじゃれついた。頭を撫でてやると気持ち良さそうに目を細める。しかし立ち上がり唯が歩みを進めようとすると、まるで阻止しようとするかのようにズボンの裾に噛み付いて引っ張った。
 唯はキツネを抱き上げるとその顔を覗き込む。キツネはプルプルと首を左右に振った。
「ごめんな。ウチ、どうしても行かなあかんねん」
 キツネの額におでこをくっつけて、話し掛ける。キツネは悲しそうな瞳をして、コンと小さく鳴いた。
 キツネを地面に下ろすと、唯は再び歩き出す。その後姿を、キツネはずっと見守っていた。


 翌月曜日。
「おはよう。いつも早いな、霧子君は」
 事務所のドアを開くと、社長はすでに出社していた秘書の霧子に声を掛けた。
「社長。あの、こんな手紙が」
 いつも落ち着いている霧子が、わずかに声を震わせながら一通の手紙を差し出した。
「どうしたんだ、霧子君らしくもない。何が書いてあるんだい」
 軽く笑いながら手紙を受け取った社長の視線が紙の上を何度か往復し。視線が止まると同時にその顔は凍りつき、力の抜けた手からヒラヒラと紙が舞い落ちた。


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