意識を取り戻したポップが、最初に目にしたものは、ダイの顔であった。先ほどまでの表情は欠片すらなく、心配そうな眼差しでこちらを見下ろしている。
ダイの唇が動いて、何かを言ったようだが、ポップにはよく聞き取れなかった。
そのまま辺りへ視線を向けると、見慣れた風景が目に映る。どうやら自分の部屋らしかった。
いつの間にか自室へと運ばれていたのだろう。身体は綺麗に清められ、新しい服に着替えさせられていた。その上から毛布で身体を包まれ、そのまま相手に横抱きにされる形で眠っていたらしい。
ダイがここへ来た時間、日の光が眩しい午後であったはずなのだが、とうの昔に日は落ち、照明が灯されていない部屋は暗く静まり返っていた。外からの僅かな光源が、閉ざされたカーテンを淡く輝かせている。
ポップは小さな吐息を漏らした。行為の後特有の疲労は身体に残っているものの、痛みは感じられない。自分の状態をもう少し把握しておきたくて、身体を動かしたかったのだが、ダイの腕と毛布に阻まれ、身動きがとれなかった。喉の渇きを覚える。
「ポップ、大丈夫?」
こちらの様子を察してか、ダイがやや遠慮がちに声をかけてくる。今度はしっかりと聞きとる事ができた。
「……み、ず……ほし、い」
掠れた声で途切れ途切れに紡げば、わかった、と相手から返事が返ってくる。暫くして、ガラス同士がぶつかったような澄んだ音が響き、こぽこぽ……と水を注ぐ音が耳に届いた。
どうやら、自分の身体を抱いたまま、枕元に置いてある水差しを片手だけで操っているようだった。
「ちょっと温いけど……」
そんな声が頭上から聞こえたのだが、そんな事よりも、この喉の渇きを一刻も早く癒したかったポップは、口を薄く開けて視線を上に向ける。すると、ダイの顔が近づいてきた。
相手の真意に気付き、コイツ阿呆か……とか思いつつ、どうせ抵抗するだけ無駄だろうし、そんな事で体力を減らすのも馬鹿らしくて、ポップは大人しくダイを受け止める。
「んっ……ン」
冷えた唇が触れ、口腔へと水分を流し込まれる。咽ないようゆっくりと嚥下していくと、やはりと言うか、予想通りと言うか……ダイの舌が滑り込んできた。
これも先ほどと同じ理由で相手の好きにさせておく。こちらの体調を考慮してか、驚くほど優しいキスだった。
息を奪わないように、ゆっくりと施される口付けは甘く、ポップは無意識にダイを求め、応えるように舌を擦り合わせる。
互いの舌を絡み合わせ、暫くして満足したのか、ダイが離れていった。口の中に溜まった唾液をこくっ、と飲み込むと、ポップは小さく息を吐いた。
「ポップ、ごめんよ」
不意の謝罪に、ポップは驚いて、ダイをまじまじと見上げた。
「ごめん。お前に酷い事したって、思ってる。でも――でも、おれは後悔してない」
「…………」
「お前の全てが見たかったから……後悔してないよ」
はっきりと、ここまで言い切られては、何も言う事が出来なくて。けれども何かを言わなければ……と、散々迷い考えた末、ポップはある重大な問題にぶち当たった。
『何故、こんな事をしたのか』ではない。『何故、知っているのか』という問題に。
小さな島でモンスター達と暮らしていた彼が、このような行為を知っているわけがないのだ。ならば、誰かが彼に教えた事になる。
自分が知っている中で、教えそうな人物は一人しかいない。と、言うより思いつかない。
嫌な予感を覚え、ポップの瞳に剣呑な光が帯びた。
「……ダイ、お前誰にこんな事習ったよ」
「え? あ、レオ……っ!」
静かに、相手を怯えさせないよう務めて冷静に尋ねれば、目論見通り、簡単に口を滑らせた。
慌てて口を押えても、もう遅い。ポップの予想は的中した。
「だああああ、やっぱりか、やっぱり姫さんか! ったく、何考えてんだあの馬鹿女はよぉ!!」
「お、怒らな……あっ、あ、暴れないでポップ!」
怒りのままに、ポップは毛布に包まれたままの身体を激しく揺らし、両足をばたつかせる。その姿はまるで芋虫が飛び跳ね、じたばたしているようにも見え、傍から見れば滑稽の何ものでもないのだが、自分の腕の中で急に暴れられたダイの方は、たまったものではなかった。
慌てたように抱きしめる腕に力を込め、暴れる身体を押さえに掛かる。咄嗟の事で力加減が上手く出来なかったのか、今度はポップが悲鳴を上げる番となった。
「ぐえっ……い、いででででっ!!」
「あ、あわ……ごめん!」
身体を締め付ける力が緩まり、ポップは安堵の吐息を漏らす。心配そうに覗き込んでくるダイを安心させようと、手を伸ばそうとして……動かせない事に気付き、どうしたものかと悩んだ挙句――
「つーか痛いんじゃボケっ! 力加減考えろ!!」
傍にあったダイの頭に、唯一自由の利く自分のそれをぶつけたのだった。いわゆる『頭突き』と言うものだが、天下無敵の竜の騎士にして石頭であるところの相手より、多大なダメージを受ける事となる。
「ぐおおおっ……!」
「つったぁ〜なんだよポップ、痛いじゃないかぁ」
「るせぇ! おれのが痛いわっ!」
痛みに顔を歪め、ずきずきと痛む箇所を押さえるダイの傍で、それ以上のダメージを受けた上、宥めることも出来ずにひたすら耐えるポップの姿があった。
自業自得とは言え、あまりにも理不尽なこの結果に、ポップは泣きそうになる。
「酷い目にあったのも、こんな痛い思いすんのもぜーんぶテメェが悪い!」
「ええっ!? 今の頭突きはポップの自爆――」
「やかましいっ。つーかさっさと、レオナとの経緯を話やがれ!」
脱線しそうになった話を、強引に起動修正して、ポップはダイを促した。相手は視線を宙に泳がせ、躊躇った後、逃げられない事を悟ったのか、項垂れたまま訥々と語り始める。
「ポップが……この頃忙しそうで、おれにつきあってくれなくなったから……レオナが大変な仕事を頼んだんじゃないか、って……聞きに行った、んだ――」
内政の事でレオナが悩んでいるのを、ダイも知っていたらしかった。しかし、あのレオナが泣き言を言うわけではないので、レオナの放つ雰囲気や城内の微妙な空気を肌で感じ取って、なんとなくおかしいと思っていたらしい。
それから暫くして、ポップが手伝い始めたのを見て、初めて理解したようだった。
最初の頃は、レオナも大変だし……仕方ない、と自分に言い聞かせて、ポップと会う事を我慢していたのだが、それが一ヶ月程続くとは思ってもみなかったようだ。
我慢出来なくなったダイは、ポップではなく、仕事を指示しているレオナに、尋ねる事にした。レオナが指示しているのだから、レオナがやめさせればポップの仕事が減り、少しは自分に構ってくれるであろう……と考えたのだと言う。
いざ、と尋ねてみたところ、指示していたのは最初の頃だけで、今ではポップの意志で動いている事を告げられ、ポップの意思であるのならば……と、ダイは諦めることにした。けれども、
「甘い! ダイ君はポップ君に甘すぎる!! こうゆう事はきちんとしておかないと、あの彼の性格よ? 付け上がるに決まってるわ!!」
と、説得されてしまったと言うのだ。姫さん……アンタに言われる筋合いねぇぞ。てかダイもそれくらいで説得されんなよ……。
「お仕置きしてあげなさい、って……本を見せられたんだけど、おれが読めない難しい言葉ばっかりで。そしたらレオナが教えてくれたんだ」
「あれをかよ」
ポップは大きくため息をつき、瞑目した。あまりの内容に頭痛すら覚える。感じなかった身体の痛みは、ダイが回復魔法をかけ続けてて、癒してくれていたようだ。
「ごめんね、ポップ――」
相手の謝罪の言葉を聞きながら、この落とし前をどうつけさせようか……と、ポップは思案を巡らせるのだった。
次の日、ダイはモップを片手に、浴室の掃除に勤しんでいた。
昨日の情事の最中に気を失ったポップの身体を清め、服を替えさせて寝かせたはいいが、汚れた浴室はそのままの状態で放置してしまっていた。
換気すらなされていなかった浴室は悲惨な有様で、これを見たポップが思わず卒倒しかけたぐらいであった。そのポップからの厳命で、ダイは今、浴室の床を磨いている。
数時間前まで声漏れ防止により固く閉ざされていた窓は開け放たれ、室内にたち込めていた悪臭は殆ど感じなくなっていた。
「お前……なんでそんな楽しそうなんだよ」
その声に反応してダイが顔をあげれば、部屋へと繋がる扉が開いており、その場でしゃがみ込みながら、呆れた表情を浮かべているポップの姿があった。
匂いのキツさにいたたまれず、自室に閉じこもっていたポップであったが、時間の経過により大分マシになったと判断を下し、こちらの様子を見に来たらしい。
「え、そう?」
と聞き返すダイの顔には笑顔。事実、ダイは楽しかった。……と、言うより、嬉しかったと言った方がいいのかもしれない。
確かに、人ひとりが使うにしては広すぎる浴室を、一人でピカピカになるまで綺麗に磨くという事は、大変困難な上、疲れる作業でもあった。けれども、自分がきちんと掃除をする姿を監視すると言う理由から、殆ど会えなかった相手が今日は四六時中傍にいる。
その事がどれ程喜ばしいことか! そんなわけで、相手の疑問をはぐらかしながら、ダイは小さな幸せに浸りながら手を動かしていた。
「……いいけど。もう、あんな事すんなよ」
「あぁ、分かった。もうしないよ」
こちらの様子を怪訝に思いながらも、再度念を押してくる相手に、ダイはにっこり笑って、金輪際しない事を誓った。
実は、ポップに言わなかった事がある。あんなに嫌悪してみせた彼が、さらに不快な思いをし、あげく自分から離れていくのでは……と、言う不安からから、ダイは口にするのを避けたのだが。
レオナが教えてくれた……と、説明したが、正確には実際にその行為を見せて教えてくれたのである。そうでなければ、理解力に乏しい自分が言葉の説明だけで、その通りに行動出来るわけがなかったからだ。
レオナが見せてくれた光景は、あまりにも無残で、痛々しく。見ているだけで不快な気分にさせるものであった。
その行為を受けている相手の悲痛な叫び、押し殺そうとしても、漏れる快楽の滲んだ声。
こちらに気付いた時の衝撃的な眼差しと伝わってくる動揺、そして驚愕。愉悦の表情は瞬時にして絶望の色に塗りつぶされ、さらに激しさを増す行為に、俯いたまま唇を噛み締め耐えていた。
ダイは驚き、それと同時にこんな酷い事をポップにはさせられない……いや、してはいけないと思った。レオナにどう断ろうかと、頭をフル回転させているところに、その様子を察したのか、レオナがそっと近寄ってきて、ダイの耳元で囁いたのだ。
「あれの顔を、よく見てみなさい――」
その言葉に、ダイは無意識に従っていた。屈辱と恥辱に染まった表情……
「ポップ君に、あんな表情させてみたくはないの?」
身体に冷たいものが伝った。知らず喉が小さく鳴る。悪魔の囁きだった。
「ねぇ、ダイ君……させたくない?」
「……させ、たい……」
喉がカラカラに渇いて、掠れた声が喉から漏れた。ポップがあんな風になるのか、なるのなら、どのような表情を浮かべるのか、声をあげるのか……ダイは知りたかった。
想像するだけで身体が打ち震え、熱を帯びる。下腹部が疼き、中心が張り詰めていくのが分かった。
「なら、しっかり見ていなさい。あれがどうなるのかを――」
甘い囁き。ダイの心は、甘美な罠に絡めとられてしまった。
その後、自室にどう帰ったのか、よく覚えていない。気が付けば次の日の朝を迎えていた。
脳裏に焼きついている行為の手順。興奮が醒めやらぬうちに、ダイは計画を立て、ポップの元へと向かったのだった。
この事は、自分の胸の内に仕舞っておこうと、ダイは決めていた。
レオナのおかげでダイの願いは叶ったと言っていい。ついうっかり口を滑らせてしまったが、察しのいいポップの事だ、言わずとも突き止めてしまうに決まっている。
後は、レオナに直談判しに行く彼に付いて行き、マズイ雰囲気になった場合、彼を抱えて逃走すればいい。物凄く怒られ、殴られるかもしれないが、これはポップの為でもあるし、例えポップであっても、レオナに口で勝てる筈はないと判断の上でだ。
約束どおりポップには、このような酷い事を、もうしない。1回だけで十分だ。満足以上の収穫があったのだ。後は誰にも知られないようポップの身を守り、これから先ずっと愛していくだけ……
一方、いやに物分りの良いダイの様子を訝しながらも、楽しそうな様子で掃除に励む相手の笑顔をポップは見つめていた。
随分寂しい思いをさせたようだ。あの酷すぎる行為自体は許せるものではないが、それを行ったダイを憎む事も嫌う事も出来ない。結局彼には勝てないのだ。
レオナはダイに『甘い』と、言ったようだが、ポップ自身こそダイに『甘い』ようだ。それはレオナにも当てはめられる言葉で――
「泣く子とダイには勝てない……てか?」
−完−
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