差し伸べられし 腕
真っ先に気付いたのは、湿り気を帯びた土の匂い。そして、ひんやりとした空気だった。
あれほどまでに濃く香っていた緑も、冷たい雨の感触も、今は感じられない。ここがどこか判断するには、材料があまりにも少なかった。
仕方なく、重い瞼を押し上げる努力を開始する。閉じたがる瞼をこじ開け、ポップが最初、目にしたものは、むき出しの土壁だった。声こそあげなかったものの、いきなりの展開に驚き、目を大きく見開いたポップは、ついで記憶の検索を始める。
確か……自分は先ほどまで森の中にいたはずだ。旅の途中、立ち寄った小さな村で聞いた魔物の話。危険だと判断を下したレオナの提案で、二手に分かれて一掃する事となった。
自分はダイを連れて森の奥深くへと進み、噂と一致する魔物達と対峙を果たした。戦いの最中、ダイと一時的に離れ離れになってしまったものの、無事合流し……そして――
思い出しだだけで、鼻の奥がツン、と痛くなった。気を緩めれば溢れそうになる涙をぐっと堪えて鼻をすする。と、同時に衣擦れの音が耳に滑り込んだ。続いて空気が動く気配。
「ポップ?」
名を呼ばれ、思わず息を呑んだ。反射的に伏せてしまった顔を、恐る恐る上げると、心配そうな表情でこちらを伺うダイと目が合う。
「ダイ……」
自分でも驚くほどの、か細い声が喉の奥から漏れた。瞬間、ダイの表情が一変する。今にも泣き出しそうな……それでも堪えるように笑顔を作った彼は、泣き笑いにも似た表情を、ポップに向けた。
「よかった……気がついて――」
声を震わせながら、ダイはポップに触れようと手を伸ばす。だが、その手は触れることなく、空中で静止した。鋭く息を詰めたポップが、避けるかのように一瞬、身を引くそぶりを見せたからだ。
無意識の行動。脳裏にフラッシュバックする、あの光景。想像を絶する痛みと激しい熱。それ以上に味わった悲しみのせいもあり、ポップのこの反応は仕方の無いものであった。極度の緊張に身体を硬くして、目を瞑って恐怖に怯える。握り締めた掌が血の気を失い、紙のように白くなっていった。
その変化を目の当たりにしたダイが、それ以上動けるわけがなかった。
ぱた……ぱたた……
地面を打つ、小さな音がポップの耳に届いた。不審に思い、ゆっくりと目を開けてみると、大きく開いた両の目から涙を静かに流すダイがいた。滑らかな頬を伝って、雫が一滴、地面へと落ちる。まるで、泣き方を知らない幼子のように見えた。
ポップの胸に鋭い痛みが走る。喘ぐように2度3度口を開いては閉じ、ようやっと声を絞り出した。
「ダイ……なんで、泣いて」
ポップはダイの心が解らなかった。あれほど自分に対して手酷い行為をしておいて、今度はまるで、被害者のように傷ついた顔をして見せる。どうしていいのか分からなかった。
前の自分であったならば、手を伸ばして彼を抱きしめる事ができただろう……しかし、あの時の恐怖を思い出す度に、腕が震え、身が竦む。
動けないでいるポップをよそに、今まで沈黙していたダイが唇を開いた。
「ごめん……ごめんよ、ポップ」
声を震わせながら、ダイ謝罪の言葉を述べる。嗚咽を堪えるかのように、目を瞑った瞬間、その眦から新たな涙が頬を滑り落ちた。
「おれっ……おれ、お……前にっ、酷い事、した……と、思っ――」
しゃくり上げながら、ダイはたどたどしく言葉を綴る。膝の上に揃え置かれた彼の指が、ズボンの皺を作り上げていく様子を、ポップは呆然と見つめていた。
「気付いたらっ……お前が、血まみれで、倒れて……っく、う………動かなく、て……おれ、おれっ」
鼻をすすり、腕で乱暴に涙を拭って、浅く呼吸を繰り返しながらダイは言葉を続けた。
「あわ、慌てて、見様見真似で回復魔法かけて……でも、お前、全然目覚まさなくって……」
何気なく視線を下ろした時、血にまみれた己の下半身を視界に捉え、自分が何をしたのかと、朧げながら理解してしまったダイは、ポップを抱きかかえて、ここへ運んできたのだと説明した。
話を聞き、いくつか腑に落ちない点がある事に気付いたポップは、重い体に鞭を打ってなんとか起き上がり、ダイを見据える。俯き、涙を流し続ける彼の姿に、胸の奥がざわめき始めた。思わず手を差し伸べたくなるのを堪え、ポップは疑問を口にする。
「……お前、もしかして覚えて、ない?」
ポップの言葉に、ダイが小さく頷いた。
「魔物達を倒して、ポップと合流して……雨が降ってきた辺りから、記憶が……曖昧で」
ダイの背中で小さな音が弾ける。気になったポップが、僅かに身体をずらして見れば、焚き火の火が爆ぜる音だった。仄暗い洞窟の中、何故視界が利くのかを今頃になって理解する。
相手の手が、かき集めてきたらしい木の枝の束へと伸び、その中の一本を選んで無造作に炎へと投げ入れた。赤く照らされた頬に、涙の跡が刻まれており、その姿が痛ましく映る。
「ポップ、寒くない? 火の傍へおいでよ」
無理矢理笑顔を作るダイに、ポップは困惑した表情でしか返すことが出来なかった。その様子を見て取り、寂しそうに笑ったダイがゆっくりと立ち上がる。
「おれ……離れておくから、大丈夫だよ」
背を向けられて、そこでようやく自分が浮かべた表情が、ダイに大きな誤解を与えてしまったのだと、ポップは気付いた。自分に対する拒絶なのだと、そう相手に思わせてしまったという事に。
「だ、ダイ! 待て……っ!!」
引き止めるべく立ち上がったポップであったが、その衝撃により身体に痛みが走り、崩れるようにその場にしゃがみこんでしまった。
振り返ったダイが慌てて傍へと引き返してくる。
「ポップ!?」
助け起こそうと伸ばされた腕は、ポップの身体に触れかけ、そのまま動かなくなる。耐えるように唇を噛み締めたダイの腕が、そのまま力なく地面に落ちるのを、ポップの腕が阻んだ。驚きの表情を浮かべる相手に、ポップは不敵な笑みを見せる。
「ちったぁ……怪我人労われよ。せめて手ぇくらい貸せ」
その言葉に含まれる、ポップの精一杯の譲歩を感じ取ったダイは、言われた通りポップに肩を差し出す。それを支えにようやく火の傍へと移動したポップは、いつもの笑顔で礼を口にした。
「ところでよぉ……ここどこだ?」
「分からないよ。手近な洞窟に飛び込んだから……どう来たのかもちょっと」
ダイの言葉を聞いて、ポップは盛大に顔を歪めた。気の強いお姫様の顔が、脳裏を通り過ぎる。
「うげぇー姫さんにめちゃくちゃ文句言われそうだなぁ」
「………ごめん」
それまで大人しく座っていたダイが、そっと呟き立ち上がった。
「ダイ?」
「な、何か食べる物を探してくるっ」
「ダイ!!」
頭よりも先に身体が動いた。咄嗟に伸ばした腕が、ダイを捕らえる事に成功する。ポップは思わず、安堵の息を漏らした。
「……ここがどこか分からねぇのに、闇雲に動くのは得策じゃねぇよ。ちょっと落ち着け」
ダイの腕を引いて座るよう促せば、これ以上何を言っても無駄だと判断したのか、諦めたように大人しく、その場に腰を下ろす。こちらを見向きもせず、項垂れるその姿は、まるで叱られた子犬のようであった。
相手の様子を視界の端に収めながら、ポップは嘆息する。
正直どう扱っていいのか困り果てていた。頭をこりこりと掻き、積み上げられた木の枝を手に取ると、炎に向かって放り投げる。火の粉が舞い上がり、炎が僅かに勢いを増した。
ダイの行動について考えてみる。ポップにとって、あの行為は辛く苦しいものであった。いくらダイだからと言って、男としてのプライドを踏み躙られ、許せるはずもない。けれども、ダイはその行為自体をあまり覚えていないと言う。相手に対しての怒りはあるものの、そう言われると怒鳴る気すら失せてしまった。そして、なんとなく悲しくもなる。
(その程度でヤられちまった、おれの立場って……)
こっそり小さく息を吐いたポップは、不意にある事を思い出した。魔物達を倒した直後から、ダイの様子がおかしかった事を――
ポップは気付かれないように、ちらっとダイを見遣った。足を抱え、じっと炎を見つめているその表情からは、何も読み取れない。彼が今、何を思い、何を考えているのか、ポップには分からなかった。ただ、思いつめているように見える。あの時の心情を尋ねたら、答えは見つかるだろうか……自分に見せてくれるだろうか。
「……なぁ」
意を決して声をかければ、ダイの体が小さく震えた。それには気付かない振りをして、ポップは続ける。
「お前、最後の魔物が背後から襲って来た時、気付いてたろ……なのに、何で反撃しなかった?」
ダイは答えない。いや、答えあぐねているようだ。その証拠に、瞳が忙しなく動いている。相手から答えを引き出すべく、ポップはさらに言葉を重ねた。
「おめぇはさ、物心つく前から沢山の魔物達に囲まれて暮らしてたからよ……仏心が出るのは分かるぜ、おれも。でもよ、島を出てからそんな素振り、一度も見せてなかったろ?」
一旦言葉を止め、ポップはダイの方へと顔を向ける。一呼吸置いて、再び口を開いた。
「なんで……なんで今なんだ? あの時、お前は何を考えてたんだ」
足を抱えている腕に力がこもってゆくのを、ポップは静かな眼差しで見つめていた。やがて、ダイが口を開く。
「……魔物に、やられる事を――」
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