一切の音が途絶えた。あまりの衝撃的な告白に、ポップは言葉を失う。
あの時、自分が魔法を放っていなければ、ダイは確実に殺されていたかもしれなかった。運がよくても、致命傷になりかねないほどの傷を負う事にはなるはずだ。誰がどう見ても、あの魔物はそれだけの力を持っていた。ダイ程の使い手であれば、その力量を肌で感じ取る事が出来たはず。なのに……ダイは無防備な姿をわざと作り、その身を危険に晒したのだ。
「……おれ、魔物を殺したくない。ううん、生きているものを殺したくないよ」
ダイの切なる願いであった。人間の持つ負の感情から切り離された世界で、育てられた少年の、ささやかな願い。その祈りに似た想いは、島を離れた瞬間から過ぎた願いになるなど、誰が予想出来たであろうか。
(皮肉な話だな……)
胸の内で呟き、ポップはダイの言葉を待つ。
「でも、頭では理解してるんだ。凶暴化するのはハドラーが復活したからだし、そんな魔物達をデルムリン島に連れていけるわけでもない。先生は――」
続くはずの言葉を口にしかけ、ダイは迷ったようにポップへと視線を向ける。自分に対する相手の気遣いに苦笑し、ポップは小さく頷いた。自分はもう、大丈夫だから……と、目だけで相手に伝える。きちんと伝わったかどうかは分からないが、意味は通じたようだ。ダイがゆっくりと唇を開く。
「……先生は、いないんだから、あの凄い呪文を使える人はいないし、例え使える人がいたとしても、この世界にいる魔物達全てを救うなんて出来ない――だから、ハドラーを倒すしかないんだけど、でも……」
握り締めた拳に一層力を込めて、ダイは苦しそうに告白した。
「でも、心が痛いんだ。凄く、凄く辛いんだ。苦しくて、苦しくて仕方ないよっ」
胸元を押さえ、ダイは痛みを訴える。苦しさを滲ませた顔でポップを見上げてきた。今まで誰にも言えなかった心の慟哭。悲痛の叫びであった。
「でも、でもこんな事、皆に言えるわけない! 分かってるから!!」
目の前にあるポップの服を掴み、ダイは堪えるように歯を食いしばる。その様子にかける言葉が見つからず、ただ相手を静かに見つめることしか出来なかったポップは、不意に気がついた。
だからだ……だからだったのか。
頭では理解していても、気持ちが追いついてくるわけではない。それ故、ダイは無意識の内に感情を切り離し、そうする事によって魔物を倒すことが出来たのだ。これまで魔物達と戦ってこれたのは、そのせいだったのだろう。けれども、幼い子供が背負うには、あまりにも重すぎる罪であった。その心が純粋であればある程、心に重くのしかかる。ダイの心の中に矛盾が生じ、押さえつけ、歪められた偽りの感情が、少しずつ表に現れ始めたのだ。
結果、消える事のない罪の意識を少しでも払拭すべく、ダイは魔物の攻撃をその身に受けようとした。罪を消す、と言うより自身に罰を与えたかったのかもしれない。一歩間違えれば命を失う結果となる……そんな簡単な事すら気付かないままに。
それほど、この幼子は追い詰められていたのだ。魔物でもなく、人間でもなく。もっとも信頼すべき仲間達によって――
ポップは、ダイの肩に手を置く。はっ、として相手が俯かせていた顔を上げた。その目は大きく見開かれる。
「ダイ、ごめんな?」
ポップは柔らかく微笑みながら、静かに告げる。自分の気持ちがダイに少しでも伝わるように。
「ずっと……それこそ最初からお前と一緒にいて、お前を見てたのに、気付けなくてすまねぇ」
「ポ……ップ?」
突然の謝罪に驚く相手を、ポップはそっと抱き寄せた。強張る身体を、ほぐすかのように、その背を優しく撫でる。
「おれ、お前に甘えすぎてたな。いくら姫さんを助けるからって言っても、まだ12のガキだもんな。お前があの、すげぇ力で魔物を倒してくれっから、頼りにし過ぎてた。そんな風に考えてるなんて、これっぽっちも思わなかったぜ」
「違うポップ!」
ポップの腕の中で落ち着きを取り戻しかけていたダイであったが、言われた言葉に慌てて身を離す。相手の強い否定に面食らいながらも、ポップはゆるゆると首を振った。
「違わねぇよ」
「違うよっ、ポップは頼っていいんだ! 結局おれがお前を巻き込んでしまったんだし……それに」
ダイは逡巡し、ポップの顔を窺うように見上げてくる。その様子に首を傾げたポップの胸に、軽い重みが加わった。ダイが躊躇いがちに身を預けてきたのだ。
「それに、ポップに頼られるのは……嬉しいから。もっと、頼られたいんだ――」
ダイの周りにいる人々は皆、ダイよりも年上の人間ばかりだった。
ダイ自身気にしていなかったし、別に周りの人間がダイの事を子供扱いしているわけではない。それどころか勇者として認め、一人前に扱ってくれているのだから、不満などあるはずもなかった。けれども、自分には理解出来ない事を話し始めた時、無性に引け目を感じる事がある。普段はあまり気にも留めないことなのだが、その輪の中に入っていけない自分が情けなかった。いたたまれず、そっとその場を離れる事がある。そんな時、物心ついた頃からの親友が慰めてくれた。
親友――ゴメちゃんは、ダイが唯一引け目を感じたことのない相手である。今はレオナと行動を共にしているはずだ。ゴメちゃんは小さく、弱い。ダイの中で、この小さな生き物は守らなければいけない存在になっていた。それは自然な成り行きであったに違いない。
レオナの事であってもそうだ。
友達が危険な状況下にいた場合、助けてあげたくなるのは当たり前であろう。しかも彼女は女の子だ。以前島に来た時、呪文を上手く扱えなかった自分を叱咤し、励ましてくれた彼女の窮地を救いたいと願うのも当然の事であると思う。
だけど、ポップは違う。
初めてポップに会った時、年の近い友達が出来た事に喜んだ。彼の、彼なりの不器用な優しさが嬉しかった。
アバン先生がいなくなり、それまで安穏と過ごしていた日々から一転、過酷な旅を強いられ、その恐怖と不安に怯え、遭遇した敵を前に逃げ出す彼を情けない奴だと思った。と、同時に自分がしっかりしなければ、彼を守ってやらなければと心に誓った。そんな彼が大魔道士の元で修行し、自分にはない強さを身につけ、頼れる存在になっていく姿を目の当たりにしたダイは、自分の事のような誇らしさを感じていた。
いつの頃からだろう……彼をこれほどまでに想い始めたのは。頼られたいと思ったのは――
島にいる時は、長老だと皆から慕われていた養い親のおかげか、その庇護下にいた自分に、その想いは縁遠いものであった。
役立ちたいと思った事はあっても、頼って欲しいと思ったことは、一度としてなかったはずだ。
ダイの中で、ポップはいつしか大きな存在に変っていたのである。
「聞いてくれて、ありがとう……もう、大丈夫だ」
そう言って、静かに離れたダイを、ポップは真剣な眼差しで見つめる。眉を寄せ、難しい表情を浮かべるその様子が気になるのか、身を離した相手が恐る恐る腕を伸ばしてきた。
ポップの胸中は疑問の嵐で一杯だった。魔物を倒した時のあの変化の理由が分かったのはいい。しかし、自分が知りたかった肝心の方の理由がさっぱりであった。ダイのこの様子では、自分の事を嫌っていると言う事実はないはず……では、一体どうしてあんな事をしでかしたのか。直接尋ねるしか道は残されていないようだ。
伸ばされた腕を反射的に掴み、驚く相手を真っ直ぐ見詰めて、ポップは徐に唇を開いた。
「おい、ダイ……」
「な、なな何? ポップ」
こちらの真剣な声音と只事ではない雰囲気を感じ取ったのだろう。ダイはやや、気後れしつつ言葉を受け取る態勢をとった。
「お前、なんでおれにあんな事……したよ」
洞窟内が静寂に包まれる。ぽかん、と大きく口を開け、間の抜けた表情を晒していたダイは、長い沈黙の後、ポップに問いかけた。
「あんな事……って、何?」
次の瞬間、盛大に顔を赤に染めたポップの拳が、ダイの頭に直撃する。静かな洞窟に鈍い音が響き渡った。
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