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NOVEL

Un tournesol 〜出会い、そして〜
01

注意) Hシーンなし/女装

 それは、あっと言う間の出来事だった。

 日向蒼衣(ひなた あおい)を取り囲んでいた男達の内の一人、蒼衣の真正面に立っていたが男、が突然横に吹っ飛ばされた。
 そして、吹っ飛ばされた男の仲間達が突然の乱入者の存在に気がつき色めき立ち、後ろを振り返った時には、二人目も殴り倒されてしまった。
 その突然の乱入者による、ほぼ一方的な暴力は結局最後まで一方的なもので。
 最初の男が吹っ飛ばされてから、ものの二分強。
 それはやけにあっさりと片付いた。
 最後の一人が乱入者に殴り掛かるが、それは空振りに終わり、その横顔に乱入者の拳がめり込む。そのまま、鈍い音を残して最後の一人もまたアスファルトの上へとたたき付けられた。
 一連の出来事にア然として、目の前で起こっている事実に思考がついていかなかった蒼衣が、漸く自分が”何者かに助けられた”のだと気が付いた時には、すでに蒼衣を取り囲んでいた男達全員がアスファルトに倒れ臥した後だった。
 その不可思議な光景に分厚い眼鏡レンズの奥で何度も何度も目を瞬かせる。
 自分の身に起こった出来事が信じられなかった。
 おどおどと視線を上げると、乱入者は数人もの男を一瞬で地面に沈めたとは思えない程、飄々とした涼しい面持ちでその場に佇んでいた。

「あ、あ……、あの……っ。」

 思わずビクついた声が漏れる。
 一体どうして彼が自分を助けてくれたのか、一体誰なんだろうとか、そんな疑問と、次は自分も殴られるんじゃないかと言う不安でいつにも増してどもってしまう。

「あ、あ、あ、な、なん……。」
「ビクついてんじゃねーよ。」

 どういった言葉をかけていいのか、どうすればいいのか判らず半ばパニクっている蒼衣に、その男は初めて口を開いた。
 低く不機嫌そうに言われたそれに、蒼衣の体がビクリと跳ね上がる。

「あ、わ、ご、ごめ……っ。」
「ちっ!」

 謝ろうとした蒼衣に鋭く舌打ちが聞こえ、またビクリと体を竦めてしまう。
 とことん自分と言う人間はこの手の人種の反感を買うのだと、そう実感すると蒼衣は自分を助けてくれた相手にお礼を言うことさえ躊躇われ下を向いてしまう。
 しかし。

「……男ならもっとビッとしろよ、日向。んなんだから、こんな奴らに囲まれるんだろうが。」

 突然、耳に飛び込んで来た自分の名前に、蒼衣は驚き、跳ね上がるように顔をあげた。
 だが、一瞬、目の前に立つ男と視線が絡まると蒼衣は慌て下を向く。
 しかし、何故男は自分の名前を知っているんだろう。気付かなかっただけで自分の知り合いなのだろうか? そんな疑問が頭をもたげ、蒼衣は一旦は下に向けた視線を怖ず怖ずと自分を助けてくれた男の顔に戻し、改めて相手を見た。
 男はシャープさを感じる細面に、柔らかい栗色の前髪が無造作に額に垂れている。その前髪から覗く、意志の強そうな、だがやや垂れがちな瞳が印象的な男性だった。歳の頃は、恐らく日向と同じ大学生くらいか……。しかし倒れ臥している男達や日向に比べやや小柄なその体躯の全体的な雰囲気は、未だ少年らしさを残しているように見え、高校生だと言われれば納得出来そうな感じではあった。
 だが、年下、もしくは同年代の知り合いの中にこんな風体の男は居ない筈で。
 そもそも記憶を漁るほど蒼衣には友達や知り合いは居ない。
 一体、この男の人は誰なんだろう。なんでこの人は僕の名前を知っているんだろう。
 蒼衣の疑問と不安はますます深まる。
 そんな不安と警戒心が蒼衣の表情にありありと浮かんだのだろう。男は、苦笑をその口元に浮かべた。

「直輝。芹沢直輝(せりざわ なおき)だ。アンタと同じ大学で、アンタも取ってる高畠の講義取ってる。何度かアンタの隣に座った事もあんだけど。」
「……え……?」

 男、芹沢直輝が自分と同じ 大学に通い、同じ講師の講義を受けていたと聞かされ、蒼衣は驚き、その言葉にどう反応していいか戸惑う。
 そして、彼の雰囲気だけで高校生かも、と一瞬でも想像した自分が少しだけ恥ずかしくてまた下を向く。

「ま、アンタいつもそんな風に下向いててあんま人の顔見ないもんな。覚えてなくて当然か。」

 直輝は蒼衣の戸惑いに苦笑を深く顔全体に広げ、ボリボリと頭を掻いた。
 しかしすぐに表情を引き締めると、今しがた自分が殴り倒した男達を見回す。

「とりあえず、そろそろこいつら目を覚ますだろうから、一旦ここから離れようぜ。」

 にやり、とどこか悪戯っぽい笑いを口元に浮かべると、直輝は驚きと戸惑いで固まっている蒼衣の背中を押した。

◆◇◆◇

 裏通りから表通りに出ると、先程までの人気のなさがまるで嘘だったかのように人が溢れ返っていた。
 日曜だけあってごった返すような人波に紛れると、蒼衣と直輝は暫く無言で歩く。
 蒼衣の胸中は複雑だった。
 助けて貰っておいてなんだが、隣で歩く直輝の行動の意味が全く理解出来ない。
 だいたいなんであんな場面にタイミングよく現れ、友達でもない、しかも男の自分を助けようと思ったのか……。いくら腕に覚えがあるからと言っても、見た顔が絡まれているとは言っても、相手は四人もいたのだ。
 よっぽど正義感に燃える男なのか、それともなんらかの下心……、いや男に対して下心はなにだろうから、何か目的があっての事か。
 蒼衣が女でそこそこ可愛ければ、正義感であっても、下心や目的であってもそれなりに納得が出来る。
 だけど、自分は、日向蒼衣は男だ。
 しかもただ背ばかりがひょろひょろと伸びた、風体のあがらない、存在感の希薄な人間で。
 直輝があんな危険を冒してでも助けようと思うような人間ではない筈だった。
 ちらりと隣で無言で歩く直輝を見る。と、何故か直輝も蒼衣を見ていて、ばっちり目が合った。
 予期せぬ間近な直輝の瞳に、その場で固まってしまう。
 しかもどういうつもりなのか、直輝もその場で足を止め、蒼衣の瞳を無遠慮に見つめ返す。

「……ぁ、そ、その……、ぅあっ!」

 あまりの気まずさに、何か喋った方がいいのかと、からからに渇いた唇を動かす。が、後からやってきた通行人に肩を強くぶつけられ、腕に抱えていた紙袋を落としてしまう。
 小さく痛みに呻いた蒼衣に、肩をぶつけた男は忌々しそうに舌打ちした。

「ボサッと突っ立ってんじゃねーよっ!」
「あ……、す、すいませ……。」

 そして、ぶつかってきた相手は低い声で蒼衣に対して文句を言う。その声に含まれる物騒さに、蒼衣は下に落とした袋を拾う事も忘れ、慌てて自分にぶつかった人間に頭を下げる。
 すると、相手と蒼衣の間にすっと人影が割り込んで来た。
 直輝だった。

「アンタこそきちっと前見て歩けよ。ちぃせぇガキが立ってた訳じゃねーんだ。充分避けれただろうが。」

 しかも低くドスの聞いた声で、文句を言ってきた相手に絡み始める。
 その声を聞いて、蒼衣はサーッと血の気が引いていくのを感じた。
 咄嗟に自分と相手の間に立った直輝の腕を掴む。

「ほ、本当にごめんなさいっ! 気をつけます!」

 そう、文句を言ってきた相手に早口気味に謝ると、蒼衣は直輝の腕を強引に引っ張ってその場を足早に去った。
 急いで人波を分け、目についた路地へと飛び込む。
 そして背中をビルに押し付け、その影からそっと顔を通りへと覗かせて文句を言ってきた相手が追って来てない事を確認するとホッと胸を撫で下ろした。

「――おい。」

 と、隣から声がかかる。ビクッとして声の方を見ると複雑な表情で蒼衣を見ている直輝が居た。
 一瞬、なんでここにこの男が居るのだろう、と不思議に思う。
 だが。

「いい加減、手を離せよ。」

 続けてそう言われ、そこで初めて自分が直輝の腕を掴んで逃げて来たのだと解り、蒼衣は慌てて掴んでいた腕を離す。

「ご、ごめん……。」

 咄嗟だったとは言え、会ったばかりの人間の腕を掴んで逃げるなんて蒼衣としては、初めての経験で。
 何故自分がそんな行動に出たのか自分でも理解出来ず、おどおどと視線を泳がせてしまう。
 すると目の前にずいっと紙袋が差し出された。
 それは先ほど肩をぶつけられた時に地面に落とした袋だった。
 どうやら逃げ出したあの瞬間に、直輝はそれを拾い、そのまま蒼衣に引っ張ってここまで来たのだろう。
 目の前に差し出された紙袋に蒼衣は、目を何度か瞬く。

「あ、……それ。」

 直輝から袋を受け取り、蒼衣はその袋の存在を今の今まで忘れていた事に気がつかされる。
 慌てて紙袋を胸に抱きしめ、その中身をそっと確認した。

「大切なモンなんだな、それ。」
「え……? あ、う、うん……。ありがと……。」

 すると、蒼衣の行動に余程大切なものが入っていたのだろう、と直輝は当たりをつけ、そう尋ねる。
 蒼衣は一瞬直輝の言葉に怪訝な表情をしたが、すぐにコクリと頷き、紙袋を拾ってきてくれた事へのお礼を控えめに付け足し頭を下げる。
 しかし、大切なモノ、と直輝に聞かれ思わず蒼衣は頷いてしまったが、その中身はどちらかと言えば人に見られたくない代物が入っていた。確かに大切といわれれば大切だが、あのままなくなったとしても他人に自分の持ち物だと解らなければ、なんら問題はない。
 ただ、蒼衣の持ち物だとばれてしまうのだけは、避けたかった。
 そう言った意味で直輝が拾っていてくれた事にホッとし、感謝もしたが、はたと重要な事に気がつく。

「あ、あのっ……、な、中身、見てないよね?」

 胸中に湧き上がった不安に、思わず直輝にそう確認を取ってしまう。

「……、あ――、いや、別に。」

 だが、やや間があって返って来た答えに、蒼衣は先程直輝が男に絡んだ時よりも更に血の気が引いてしまう。
 血の気が引く音が聞こえるほどサーーっと青ざめ、受け取った紙袋を震える腕でぎゅうと強く抱き締めると、蒼衣は居た堪れない気分で俯いた。
 正直、自分と言う存在を消せるものならば、このまま消え去ってしまいたい、そんな思いに囚われる。
 そんな蒼衣を見て、複雑な表情を更に複雑に顰め、直輝はボリボリと頭を掻いた。

「ん、まぁ、誰かへのプレゼントなんだろ、それ。んな恥ずかしがらなくても……。」

 自分でも白々しいな、と思いながら直輝は完全に青白い顔で俯いてしまった蒼衣に声を掛ける。
 だが、その言葉は返って蒼衣の何かを刺激したようだった。

「……っ!! そ、そんな思ってもいないフォローしないでよっ! 僕の事、少しでも知ってるなら、僕にこんなのプレゼントをするような女の子の知り合いが居る筈ないって解ってる癖に!!」
「え? あ、や、それは……そんな事は……。」

 青く染めていた顔を今度は耳まで紅潮させると、蒼衣はキッと顔を挙げ直輝に食ってかかる。その剣幕に押され、直輝は困ったような表情をして蒼衣の言葉を否定しようとしたが上手く言えず口ごもってしまった。
 事実、直輝も蒼衣にそんな女の知り合いが居るとは、全く思っていない。
 それを本人にはっきりと指摘され、直輝は余計にマズッた事を口走ったと後悔した。

「いいよっ! もうっ!! そうだよっ! これ、僕が着るんだよっ!! 悪いっ!?」

 口ごもってしまった直輝に、蒼衣は自暴自棄な気持ちになる。
 そして腕に抱き締めていた紙袋の中から勢い良く、ソレ、を取り出した。
 ひらひらの。
 ふりふりの。

「メイド服! 僕、こういうの、着るの大好きなんだよっ!!」

 盛大なカミングアウトだった。

◆◇◆◇

 蒼衣の思いも寄らないカミングアウトに、直輝はポカンと目の前に晒されている乙女感たっぷりなふりふりのメイド服と、恥ずかしさとヤケクソで顔を真っ赤に紅潮させ分厚い眼鏡レンズの向こうで今にも泣きそうに瞳を潤ませている蒼衣の顔とを何度も見比べる。
 そこには直輝が大学で時折見かける蒼衣は居なかった。
 その始めて見る蒼衣の顔に、直輝はカミングアウトされた内容の重大さと特殊さよりも興味を引かれる。
 最初にあの人通りのない路地裏で絶対に友達ではないだろうガラの悪い男達に囲まれた蒼衣を見かけ、本当にただの気まぐれで蒼衣を助けたときにはこんな展開になるとは想像だにしていなかった。
 直輝が知っている蒼衣は、大学では地味で全く目立たない男で。
 背は高いがそれがコンプレックスなのか猫背気味で、いつも視線はおどおどと下を向いている。しかも目が余程悪いのか度のキツイ、今時どこで売っているんだ? と聞きたくなるようなダサ眼鏡をかけていて、その下にある目が見えることは本当に稀だった。
 それに服だってファッションには全く興味はないのか、いつも酷く適当な格好をしているし、長く伸びたままになっている後髪などは無造作にゴムで括っているだけ。前髪は一応ある程度の長さで揃えてあるみたいだが、それでもカラーリングなどしたことなどなさそうな真っ黒な髪は、重く俯き加減の顔に影を落としていた。それは、おどおどとした態度と相まって人を寄せ付けない雰囲気を強調していて。そのせいかいつも一人で、誰かと一緒に居る所や話をしている姿など一度として直輝は見た事さえない。
 普通なら勉強だけでなくサークル活動だったり、バイトだったりを通して色々と楽しみを見つけられる筈の大学生活なのに、蒼衣はサークルにも、バイトにも興味などないかのように、ただひたすら毎日自分の取っている必修科目の講義にはまじめに出席し、黙々と授業に打ち込む為だけに通っているように直輝には見えていた。
 つまり、日向蒼衣という男はどこからどう見ても、地味で、つまらない、根暗な男。
 それが直輝の認識だった。
 そんな男が今、学校では見せた事のない表情と顔で自分を睨みつけている。いや、睨みつけているというよりは、ヤケになって目を合わせてると言った方がしっくりくるが……。
 しかも、カミングアウトされた内容は全く普段の蒼衣からは想像もつかないものだった。

『メイド服を着るのが大好き。』

 先ほどやけっぱちになって蒼衣が叫んだ言葉が、直輝の頭の中にはっきりと蘇る。
 その言葉に、もう一度目の前に突き出されているメイド服と、蒼衣を顔を見比べてみた。
 普段のやたらにおどおどとした蒼衣の態度はひょっとしたらこの特殊な趣味に在ったのかもしれない。思わずそう納得する。
 “女装”なんて、確かに早々受け入れられる趣味ではない。余程、美形な男や女顔の男がすると言うのならば兎も角、蒼衣のようなダサ眼鏡をかけているような大して美形でもない男がそんな特殊な趣味を持っているなんて周りの人間に知られたら、確実に嘲笑の対象になるか、嫌悪の対象になるかのどっちかだ。
 だからこそ、周りにその趣味がばれないように地味に大人しく目立たないようにしているのか。
 そんな風に妙に納得しながら直輝は蒼衣の瞳を、初めて眼鏡越しとはいえ真正面から見る。
 いつもは分厚いレンズに覆われて隠されているその瞳は、切れ長のなかなかに綺麗な形をしていた。睫毛も前髪と太いフレームに隠れてはいるが、割と長そうだ。
 このダサ眼鏡をやめてコンタクトにすりゃ、少しは女装してもマシに見えるんじゃね? なんて事までチラリと思ってしまう。
 直輝がそんな風に妙な感心と新鮮さを感じながら、ひたすらまじまじと観察するように見詰め返していると、ふいに蒼衣の視線が泳ぎ始めた。 
 どうやら直輝が蒼衣の決死のカミングアウトに対して何も言わず、反応もなく、ただひたすらじっと自分を見詰め返している事に戸惑いを覚えたのだろう。

「あ、あの……っ、芹沢くん……。」

 先ほどまでの勢いはどこへやら。蚊の鳴くようなか細い声で、先ほどとは違う感情で頬を赤く染め視線を反らせながら直輝の苗字を口にする。
 そこで直輝も我に返った。

「あ、いや、そのっ、ま、まぁ、いいんじゃねぇの。人の趣味なんざそれぞれなんだしっ。気にすんなよ。それ、メイド服ってーの? いいじゃん、可愛いじゃん。そーいうの、日向に似合うと俺、思う……し……って。」
「……え……?」
「あ゛っ!?」

 蒼衣に話しかけられ、思わず焦って直輝は早口で適当に言葉をまくし立てる。だが、途中で自分が何を口走っているのか気がつき、慌てて自分の口を押さえた。
 幾らなんでも適当な事を言いすぎだろう、そう思い、直輝はチラリと日向を見る。
 すると蒼衣もチラリと直輝を見返していて。その瞳と視線が絡まり、互いに視線を外すに外せなくなり暫く二人は無言で見つめあう形になった。

「…………。」
「…………。」

 気まずい沈黙が二人の間に落ちる。
 あまりの気まずさに、直輝はこの沈黙をどうやって破ろうか必死になって考える。だが、また変な事を言って蒼衣との間に気まずい雰囲気が流れるのは、流石にもう勘弁だった。
 直輝はもともと通りすがりに、暴力沙汰に巻き込まれている蒼衣を気まぐれで助けただけで、特に蒼衣と親しくなろうとかは考えていなかった。確かに構内でいつも一人で居る蒼衣が少しばかり気にはなっていたが、だが、だからと言ってこんなカミングアウトされた後では、これ以上の深入り出来ない。いや、深入りするには余りに状況が危険すぎる。
 女装趣味の男相手と仲良くなるなんて、無理。そう、直輝は結論付けると、無理矢理この嫌な空気を破った。

「……あ、じゃ、じゃあ、俺は、これで。ガラの悪い奴等に気をつけろよ。お前、絡まれ易いみたいだから。じゃあな。」

 そう多少引き攣った笑いを口元に浮かべ、絡まっている視線を無理矢理外すと、直輝は片手を軽く上げて蒼衣に帰る素振りを見せる。
 そして、踵を返してその場からとっとと去ろうとした。
 したのだが。

「……あ、あのっ、芹沢くん……っ!」

 去ろうとした直輝のシャツの裾を、蒼衣の手が咄嗟にしっかりと掴み、しかも呼び止められる。
 ミッション、失敗。そうげんなりした気持ちで直輝は胸の中で呟くと、小さく溜息を吐き、ゆっくりと蒼衣を振り返った。
 直輝の視線の先には、子供のようにしっかりと直輝のシャツの裾を掴み、俯いている蒼衣の姿。まるで母親に置いてけぼりにされるのを悟ってそのスカートの裾を必死になって掴むかのような蒼衣の態度に、げんなりしていた直輝の表情になんとも言えない色が広がる。
 自分より身長の高い蒼衣が、必死になって直輝を留まらせようとしている。それが何故か妙に直輝の優越感を誘った。

「……んだよ。まだ何か用か?」

 努めてぶっきら棒に蒼衣の呼びかけに答える。
 すると、蒼衣の体が最初に会った時の様に小さくビクリと震えた。だが、すぐに蒼衣は顔を挙げ、珍しく自分から直輝に視線を合わせる。

「あ、あのっ、良かったらお礼させて……っ。」
「は?」

 余程勇気を振り絞って言った言葉なのだろうか。蒼衣は顔を真っ赤に紅潮させ、眼鏡の奥で瞳を潤ませながら、直輝が予想もしなかった言葉を口にした。
 その言葉に、直輝は思わずきょとんと蒼衣を見詰め返す。

「ぼ、僕ん家、この近くなんだ……。大したお礼、出来ないけど、さっき助けて貰ったから……その、良かったら……お茶、でも、どうかな……。」

 おどおどと、しかし、どこか有無を言わさない迫力を持って蒼衣は直輝にそう続ける。しかも、じっと直輝を見詰める蒼衣の視線には、今まで見た事もないような感情の色が滲んでいた。
 その迫力と瞳に含まれる感情の色に直輝は妙な不信感を覚える。
 何故行き成りこんな事を日向が言い出したのか。
 そんな疑問が直輝の頭の中で点滅する。
 だが、直輝のシャツの裾を掴んだ手が、余程緊張して強く握っているのか、白くなり、そして小刻みに震えている事に気がつくと、直輝は自身の中に湧き出た不信感を無理矢理拭い去った。
 それは蒼衣が精一杯の勇気を持って直輝を誘っている証拠だと気がついたから。
 だが、たかが家に人を誘うくらいで何故、こんなに蒼衣が緊張して必死になっているのか直輝には良く解らない。それに礼がしたくて、その礼が”茶を奢る”ということなら、別に家に誘う必要はないよな、とも思う。その辺のカフェにでも入れば済む事だ。
 それでも、見るからに不器用そうな蒼衣が精一杯の勇気を振り絞って申し出ている事を無碍に出来るほど、直輝は冷たい人間ではなかった。

「……いいぜ。」

 蒼衣の縋るような瞳に、一つ溜息を吐くと、直輝は苦笑とともにそう頷いた。
 すると、見る見るうちに蒼衣の表情が明るくなり、ホッとしたような笑顔になる。
 その笑顔に、直輝は一瞬驚き、今までおどおどとした表情しか見た事がなかった蒼衣の新たな一面にどこか落ち着かない気持ちになる。
 ……早まったかな。
 思わず二つ返事でOKしてしまった事を後悔してしまう。
 だが、今更頷いたものを打ち消せるわけもなく、直輝はまるで蒼衣の緊張感が乗り移ったような心臓の高鳴りに、酷く不安な面持ちになった。

◆◇◆◇

 案内されたのは、確かにあの路地から歩いて十数分の所にある一つの鉄筋コンクリートで出来たアパートだった。
 古いコンクリートで出来たそれは、あちらこちらに修繕の痕が伺われ、かなりの年季が入っている。
 しかもエレベーターもない。
 らせん状になっている階段を結構な数昇り、漸く到着したフロアのその一番奥に蒼衣の部屋はあった。

「ちょっと狭くて汚いけど……。」

 そう言いながら蒼衣は部屋の鍵を開け、直輝を家の中へと招いた。

「邪魔しま〜す……。」

 ドアをくぐり、玄関で靴を脱ぎ、部屋の中を見渡す。
 日当たりが悪、く薄暗い蒼衣の部屋は、だが、玄関から全ての間取りが見える程小さい部屋だった。
 蒼衣が電灯を点けると、更に詳しく部屋の中全てが見渡せるようになる。
 狭い玄関の隣には小さいシンクとコンロが用意してあり、右手にはトイレ。そして、申し訳程度についている廊下兼台所の向こうには畳の部屋があった。そこには、一つのパイプベッドと、小さなテレビ。後は、小さなローテーブルに壁際には木造の棚があり、そこには大量の本やDVDが納まっているのが見えた。

「へぇ、綺麗にしてるじゃん。」

 キョロキョロと部屋の中を見回しながら、狭いながらもきちんと整理整頓された部屋に直輝は感心する。
 それに蒼衣は、そうでもないよ、とちょっとだけ照れたように答えると、直輝に適当に座るよう促した。その言葉に曖昧に頷くと、直輝はベッドを背もたれにして畳の上へ胡坐を掻く。

「その辺の本とか雑誌とか適当に読んでていいよ。お湯沸かすのに少し時間かかるから。」
「あ、あぁ……。」

 キッチンからまた声を掛けられ、直輝はまた曖昧に頷く。
 気がそぞろなのは、あまりに綺麗に整頓されている部屋の中で、妙な居心地の悪さを感じていたからだ。
 それは恐らく仲良くもない、今日初めて話をした相手の家に、完全なる相手のテリトリーの中にいる緊張感からだろうか。しかも相手はさっき盛大に特殊な趣味をカミングアウトした男だ。
 今まで女装に対して特に酷い嫌悪感や差別意識は持っていなかった直輝だが、流石に幾ら普段話もした事がないとはいえ、多少なりとも自分の知っている人間が”そう”だと判れば平静ではいられない。
 それに女装が趣味、と言う事は、つまり、そう言う事で。
 その相手の部屋で、直輝が貞操の危機による居心地の悪さを感じても致し方ない話だ。
 とりあえず蒼衣の言葉に頷いては見せたものの、直輝は居心地の悪さが先に立って本など読む気にはならなかった。かといってする事もないので視線を落ち着きなく動かし、部屋の中の様子を見るともなしに見る。その視線がちょうど玄関からは死角になっていた壁の前で止まった。
 そこには、小さな机の上に遺影と位牌が乗っていた。遺影も位牌も二つ。遺影には男性と女性が映っている。
 直輝の心臓がどきりと高鳴った。

「それ、僕の父さんと母さん。」

 ふいに頭上から声を掛けられ、直輝の体がビクリと飛び上がる。視線を上へ向けると、お盆にマグカップ二つと何か菓子を入れた皿を乗せた蒼衣が立っていた。

「僕が小さい頃に交通事故で、ね。あんまり小さい頃に死んじゃったから僕自身、二人の事全然記憶にないんだけど……。」

 驚き固まっている直輝に、にこりと笑いかけ、蒼衣は膝を折るとローテーブルの上にそのお盆を乗せる。そして、そのまま一つのマグカップを直輝の前に、もう一つを自分が座る位置へと置くと蒼衣はまた立ち上がった。

「それでもこれがお前の父さん母さんだよ、って言われたら、大切にしなきゃな〜って。記憶になくたって、僕の両親は施設の先生じゃなくて、この二人だから。」

 そう言いながら遺影の一つを手に取ると、写真立ての縁に乗っている埃を手で払う。そして、また元の場所へと戻した。
 そんな蒼衣の横顔を見ながら、直輝は一層居心地の悪さを感じる。
 会って間もない、同じ学部の生徒同士とは言え、いまだ顔見知り程度の直輝に行き成り、両親とは他界してるとか、施設育ちだとか、さらりとヘビーな話をされても、どう返答していいかわからないからだ。
 蒼衣の告白に直輝が困り小さく、あー、とか、うー、とか口の中で唸っていると、くるりと蒼衣が振り返る。
 その顔には、どこか苦笑じみた笑顔が浮んでいた。

「なんか、芹沢くんには今日は変な話ばっかりしてるね、僕。ごめん、引いてるよね。」
「……。」

 図星を指されて直輝は返答のしようがなく、ただ無言で出されたマグカップの中身を啜る。砂糖もミルクも入っていないそのコーヒーは、直輝の心中を表しているかのように酷く苦かった。
 顰め面をして、それでもとっとと出されたものを飲み食いしてこの場を後にしよう、という思いのままにその苦いコーヒーを無理矢理喉に流し込んでいると、蒼衣が自分用のマグカップを置いた場所ではなく、何故かすっと直輝の隣に座る。
 その蒼衣の行動を、視線だけ動かして訝しげに見ると、蒼衣は手を伸ばしてテーブルの上に置いた菓子の乗った皿を直輝の顔の前に差し出した。

「良かったらこれも食べて。」

 にこりと眼鏡の向こうから笑いかけられると、直輝にはそれを拒否する事は出来なかった。口につけていたマグカップをテーブルの上に置き、差し出された皿に恐る恐る手を伸ばす。
 皿に乗っていたのは丸い、シンプルなクッキーだった。
 一つ取り、そっと口に運ぶ。サク、とした食感と、ちょうどいい甘さが口の中に広がった。口の中でほろほろと溶ける感じはなかなかに後を引く好食感で。
 あ、結構旨い……、そう思いつつ直輝は、サクサクとしたクッキーをもう一口、口に運ぶ。

「はい、コーヒーどうぞ。」

 直輝がクッキーを全て口に中に入れた頃を見計らって、蒼衣がすっと直輝が飲んでいたマグカップを差し出してきた。それを怪訝に思いながらもとりあえずマグカップを受け取り、クッキーの余韻の残っている口の中にその苦いコーヒーを流し込む。

「!」

 思わず小さく声を漏らす。
 先ほどまでただ濃くて苦いだけだと思っていたコーヒーが途端にまろやかでちょうどいい苦味になったように感じたからだった。
 まるで魔法にかかったようなその変わりように、直輝はまじまじとマグカップと目の前に居る蒼衣の顔を見比べる。
 直輝の視線に、蒼衣は少しだけ照れたように笑った。

「へへ、びっくりでしょ? ここまで上手くコーヒーと調和が取れるクッキーって珍しいよね。」
「……市販品か?」
「ううん。今日、僕が男の人達に絡まれてたあの裏通りの近くにある、小さなコーヒーショップのオーナーの手作り。僕、そこでバイトしてて。で、今日、午前中にちょっと忘れ物取りに行ったら、沢山作ったから持って帰れ、って手土産に持たせてくれて。」
「へー。」

 楽しそうに、少し照れくさそうに、しかも饒舌に話をする蒼衣に少々面食らいながらも、直輝は体にあった緊張感が取れていくのを感じる。それとともに、今まで感じていた居心地の悪さも危機感も薄まっている事に気がついた。
 それは一重に、蒼衣の明るい表情と話す内容のせいかもしれなかった。
 その他愛ない蒼衣が送っている生活の一端が見える内容と、それを話す蒼衣の表情が直輝の存在を受け入れているようで。
 今、直輝の目の前で楽しそうにそのコーヒーショップの事や、そこでのバイトの事を語っている蒼衣は、もうすでに大学で時折見かける時のような、陰気でおどおどとした、他者を寄せ付けない雰囲気を持つ地味な男ではなかった。
 普通の、年相応な男にしか見えない。
 ましてや女装が趣味の男にも見えなかった。
 その蒼衣の変わりように、いや、直輝自身の蒼衣を見る目の変わりように、そっと直輝は苦笑を漏らす。
 たかがコーヒーとクッキーを出して貰って、それについて話をしただけ。たったそれだけの事で、直輝の中にあった蒼衣への警戒心や変な緊張感はみるみる溶けていく。
 寧ろ、勝手に余計な事まで想像して貞操の危機を感じていた自分を恥じた。
 そうして暫く二人は、クッキーとコーヒーを共に、好きなDVDやCD、本など、本当に普通の友達同士がするような他愛のない話をした。
 あっという間に時間は流れ、外がかなり暗くなっている事に漸く気がついたのは、直輝の腹の虫が盛大に鳴った頃だった。

「あ……もうこんな時間。」

 直輝の腹の虫に気がつくと蒼衣は視線を柱の上部に設置してある時計へと向ける。時計の針はすでに夜の九時を大きく回っていた。
 どうやら夜も更けて居る事にも気がつかず話し込んでいたらしい。
 その事に今まで気がつかず、蒼衣と話し込んでいた事に直輝は緩く苦笑をする。
 幾らなんでも気を緩めすぎだろう、と思う。
 また直輝と同じように、蒼衣もまさかここまで直輝と話込むとは思っておらず、驚いたように目を丸くして、時計の針を見つめ続ける。そして、どうしよう、と思った。
 蒼衣としては、直輝を部屋に誘ったのはこうしてただコーヒーとクッキーを食べながら話をするためではなかったからだ。
 確かに便宜上お礼をすると言って直輝を誘った文句は、お茶でも、という曖昧なものだったが、蒼衣の目的はまた別にある。大体が、こんなコーヒーとクッキーだけで直輝に対して礼を尽くしたとは思えない。
 蒼衣が思い描く、直輝に対する最善の礼を全うすることなくこんな遅い時間まで話し込んでしまった事に、蒼衣は後悔をする。
 その蒼衣の後悔がありありと浮かぶ横顔を見て、直輝は、しまったな、と思う。
 どうやら長居をしすぎたらしい、そう感じ、直輝はボリボリと鼻の頭を掻く。

「あ、じゃあ、俺そろそろ……。長居して悪かったな、日向。」
「あっ、あのっ、芹沢くんっ!」

 流石にこれ以上長居をしても蒼衣に迷惑がかかるだけだし、と思い、立ち上がる。と、蒼衣がまた直輝のシャツの裾を掴んでその行動を留めた。
 それに怪訝な視線を投げかけると、蒼衣は薄っすらと頬を染めて何かを言いたそうにもごもごと口を動かしている。

「? なんだ?」
「あ、あの……その、もし、そのぉ……。」
「?」

 直輝が蒼衣の行動を問い返すと、蒼衣は恥ずかしそうにもじもじと話し始めた。
 蒼衣の恥ずかしそうな態度と、言葉に直輝は一体何が言いたいのか判らず首を傾げる。

「なんだよ? トイレか?」
「ち、違っ、そうじゃなくて……その……。」

 もじもじとする蒼衣の態度に業を煮やし、直輝が口を挟むと、蒼衣は顔を真っ赤にして頭を振った。
 そして漸く覚悟を決めたかのように、一度大きく息を吸い、吐き出すと、眼鏡の向こう側から直輝に視線をしっかり合わせる。
 その蒼衣の態度に、直輝は軽くデジャヴを覚えた。
 確か、この家に誘われた時もこんな感じだったよな……と思い出し、今の蒼衣のこの態度が直輝を引き止めようとしているという事だけははっきりと理解した。
 だが、一体何のために引き止めたいのかは、直輝には解らない。

「あ、あのさ……、良かったら、その……。」
「……。」

 それでも、必死になって蒼衣が直輝に何かを訴えようとしているのは解る。
 一体何が言いたいんだ? そう思いながら、蒼衣の言葉を待つ。
 しかしいつまで経っても蒼衣は肝心な部分を言い出そうとはしない。あの、とか、その、とかを顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに繰り返すばかりだ。
 そんな蒼衣の姿を見ていると、蒼衣の言葉を待つのにいささか焦れていた直輝の心にふと悪戯心が芽生えた。
 蒼衣が何が言いたいのか解らなかったが、それを逆手にとってからかおうと直輝は考えたのだ。

「あー、もうこんな時間だし、いっそ泊まらして貰おうかな。」

 それはほんの冗談のつもりだった。
 あははは、と笑い、なーんてな、いくらなんでも図々しすぎるよな、と続けようとして、蒼衣をもう一度見下ろす。が、蒼衣の顔を見て直輝はぎょっとした。
 蒼衣は。
 さっきよりも更に顔を真っ赤に染め上げ、それこそ体中が真っ赤になっているんじゃないかと言う位、首や耳まで真っ赤にして、眼鏡の向こう側からまん丸になっている目で直輝を見上げていた。
 それは、何で言いたいことが解ったんだろう、という驚きがありありと表れていて。
 直輝は思わず胸の中で、ジーザス、と呟き天井を仰いだ。

「な、ななななな、なんで……っ。」

 カーーっと顔を染めて、蒼衣は裏返った声を出す。それには動揺と、期待と、なによりも、大きな恥じらいが含まれていた。

「あ、いや、その、冗談。」
「え……? じょ、冗談……?」
「冗談。」
「じょう、だん……。」
「……。」
「……。」

 あまりに蒼衣が見透かされたことを恥らっているようなので、直輝は慌てて言いつくろう。
 すると、蒼衣はきょとんとした顔で直輝の言葉を聞き返し、もう一度言われた言葉をオウム返しで呟いた。
 その表情は妙に落胆したもので、直輝はつまらない冗談を言ってしまった事を後悔する。

「あ、いや、日向……?」
「……そっか、そうだよね……、やっぱり、今日始めて話をしただけの人間の家なんかには、泊まれないよね……。」

 取り繕うとした直輝の言葉をさえぎって、蒼衣はがっくりと肩を落とし、掴んでいた直輝のシャツからも手を離し俯いてしまう。
 それを見て、直輝はチクチクと良心が痛むのを感じた。
 しかし、幾らなんでも蒼衣が言ったとおり、今日始めて話をした人間の家に、少しは仲良くなったとはいえ、そのまま泊まることは直輝には躊躇われる。だいたいが、この狭い部屋に直輝が泊まれるほどのスペースがあるとは思えない。今、直輝たちが居る畳の部屋は、ベッドと本棚とローテーブルで大半のスペースが占められていて。
 一体どこに寝ればいいというのか。
 そんな事を考えながら、チラリと蒼衣を見下ろす。
 蒼衣は、これ以上ないほどしょんぼりとしていた。それはまるで、捨て猫が雨に濡れて震えている様で。

「……うっ。」

 激しく直輝の良心が痛む。

「あ、あのさ、日向。」
「……。」

 思わず膝を折って俯いている蒼衣の肩に手を置きながら、声をかける。
 すると俯いていた蒼衣が、ゆっくりと顔を上げた。
 その顔に直輝はドキリとする。
 至近距離で見た蒼衣の眼鏡越しの瞳が、涙で潤んでいるように見えたからだ。
 直輝の心臓が物凄い勢いで脈打ち始め、体中から嫌な汗が流れ始める。頭の中は、もう半ばパニックだ。
 どうして俺が泊まらないってだけで泣くんだ、とか、なんでこいつはこんなに俺を泊まらせたいんだ、とか、男の癖に、とかとかとか。とにかく直輝の頭の中は許容量をオーバーするほどの疑問で溢れた。

「え、えっと……そのっ……。」

 焦る気持ちと、バクバクする心臓に煽られて、直輝は蒼衣にどう言葉をかけていいか解らなくなり、言葉にならない言葉をもごもごと口にする。
 そんな直輝に蒼衣は少しだけきょとんと瞳を瞬かせた後、ふいに、肩に置かれている直輝の手の上に自分の手を置いた。
 しかもやんわりと直輝の手を握ると、蒼衣は自分の顔の前まで持っていき、両方の手で直輝の手を握りなおす。
 その突然の蒼衣の行動に、直輝のパニックのゲージが凄い勢いで溜まっていく。

「ひひひ、日向……?!」
「……芹沢くん、本当に僕ん家泊まるの、嫌?」

 裏返った声の直輝とは裏腹に、妙に落ち着いた、どこか艶かしさを感じる声で、蒼衣が直輝の手をぎゅっと握りながら静かに、囁いた。

◆◇◆◇

 蒼衣はシャワーを浴びながら、直輝に無理を言った事を少し反省していた。
 そしてこれから自分が行おうとしている事に対して、どうしようもない羞恥と不安を覚える。だが、蒼衣自身が考える、男に対してするお礼、というものはこれしか知らない。
 確かに、最初に出したコーヒーとクッキー、そして結局泊まる事に同意した直輝に急遽作った夕飯だけで、人によっては十分礼を返してもらったと受け取るだろう。
 しかし、蒼衣はそれだけでは礼として不十分だと、そう思っている。
 それもこれも、蒼衣が育った特異な環境での教育のせいだ。
 蒼衣は、四歳の頃に両親とは死別している。その後、蒼衣は自分の遠い親戚がたまたま運営していた児童養護施設で十五の春まで育てられた。
 但し、その施設は、特別なもので。
 一般的には、「児童自立支援施設」と呼ばれている。
 しかし、その親戚が運営していた施設が、果たして法の認可の元、正しく運営されていたかどうかは蒼衣は良く知らない。蒼衣はその遠い親戚にそうだと説明され、それを信じているに過ぎない。
 ただ、男しか居ないその場所は、蒼衣にとって安息の場所でも、絶対的な庇護を得られる場所でもなかった。
 親戚である筈の男は、いや、その施設の所長は、蒼衣に対して酷く冷酷だった。
 一体なんの恨みが蒼衣にあるのかは蒼衣自身解らないし、知らなかったが、その所長は蒼衣にことごとく冷たく当たり、人としての全うな教育を施さなかった。
 ただ一つ繰り返し繰り返し蒼衣に教え込まれたのは、自分や施設職員、そして他の入居者の少年達に対して、感謝をし、それを積極的に態度と行動で表す事、それだけだった。
 しかし、その所長が蒼衣に教え込ませた感謝とは、そして、それを表す態度と行動は決して世間一般で言うモノとは違う。
 寧ろ、世間に知れ渡れば『虐待』として、世間の注目を集め、蒼衣の身は他の施設や行政に保護されただろう。
 だが、悲しいことに蒼衣が受けていた『虐待』は、外の世界に知られる事はなく、ひっそりと施設の中だけで横行し、蒼衣は中学を卒業するまでその世界しか知らなかった。
 そう、一応、蒼衣は小学校と中学校と義務教育で必要な学校は卒業している。
 しかしそれは体面的に施設が通わせていた基本的な学力を得る為だけの目くらましだった。
 その学校には同施設の少年たちも勿論通っている。
 お陰で蒼衣は施設以外の人間とはほとんど接触出来ないまま、いや、接触させられないよう見張られたまま、世の中の子供達が一体どんな世界で生きているのか知らずに十五まで育った。
 己の過去を振り返り、蒼衣はシャワーのコックを冷水にするとそれを思いっきり頭から被る。
 冷たい水が一旦温まっていた体から一気に体温を奪っていく。
 蒼衣は、今から直輝にしようとしている事を本当に行動するべきかどうか、悩む。
 恐らく蒼衣がその行動に出れば、直輝は確実に蒼衣に対して嫌悪の表情を浮かべるだろう。
 それでも。
 蒼衣は、それでも、と思う。
 男達に囲まれて困っていた時に突然現れて、難なく助けてくれた直輝に、蒼衣の女装趣味を笑わなかった直輝に、蒼衣はどうしても心からお礼をしたかった。
 それには、小手先だけの夕食や、コーヒーとクッキーだけでは、蒼衣の本当の感謝の気持ちは伝わらない、と蒼衣は思う。
 それがどれだけこの世界での常識に反するか、今では嫌というほど身に染みて解ってはいても。
 蒼衣には、この方法でしか、この方法しか、直輝を喜ばす方法を知らなかった。

「……僕、間違ってないよね……?」

 そっと、蒼衣は自分を奮い立たせるためにそう呟く。
 冷たいシャワーは尚も蒼衣の体温を奪い続けている。
 そのシャワーのコックを捻り、水を止めると、蒼衣は自分の体を念入りに洗うためにボディーソープをたっぷりとスポンジに染み込ませた。






 なんでこんな事になってしまったんだろう。
 バスルームから聞こえてくるシャワーの音を聞きながら、直輝は呆然と思う。
 結局あの後、断るに断れなくなり、直輝は蒼衣の家に泊まることになってしまった。

「……なんでこうなるかな……。」

 自分で自分が情けなくなり、トホホ……と呟く。
 直輝が情けなく思っているのは、泊まる事になった経緯だ。
 渋々というか、やや強制的にというか、断れる雰囲気になかったからというか、蒼衣の妙な雰囲気に呑まれてというか、自分でも何がなんだか解らない内に、蒼衣の囁きに否定をし、それが結果的に”泊まる”という選択肢しか残されない状況に追い込まれていた。
 喧嘩なら負けなしを誇っていて、人の持つ雰囲気に呑まれて自分の意見を曲げると言う事などなかった直輝だけに、蒼衣のあの雰囲気に呑まれて蒼衣が望むままにこの場に残った事に対して情けなく思っていた。
 はぁぁ、と深くため息を吐く。
 泊まること自体には、もう後悔も何もない。結局雰囲気に呑まれたのだとしても、本当に嫌なら嫌だと突っぱねることも出来たのだ。
 だから、その事についてはもう、深くは考えていない。
 だが。
 チラリと、バスルームの方を見る。今はシャワーの音は止まっていて、体を洗っているのか、それとも他の何かをしているのか、小さな物音が聞こえるだけだ。
 その音を聞きながら、直輝は蒼衣がシャワーを浴びる前に言い残した事を思い出す。

『僕、芹沢くんにお礼、ちゃんとしたいんだ。だから、その、びっくりしないでね?』

 そんな意味深な言葉を残して蒼衣はバスルームに消えた。
 一体、蒼衣の言う『お礼』というものが何を指しているのか解らず、しかも、その台詞を言った時の蒼衣の表情が妙に悪戯っぽかったのが直輝には気になっていた。
 そもそも直輝としては、さっきのコーヒーとクッキー、それからご馳走になった夕飯で借りは返して貰っていると思っている。寧ろ、蒼衣は返しすぎな位だ。
 それなのに、これ以上、蒼衣は一体何でお礼をするつもりなのか。
 それがまったく解らず、直輝はベッドの上で腕を組み小さく唸る。
 しかしいくら考えたところで、直輝には蒼衣の考えていることなど皆目検討もつかなかった。

「……どうすっかなぁ……。」

 妙な奴に懐かれてしまった。そう思いながら直輝はそのままゴロリとベッドに横になる。そして、改めて綺麗に洗濯されているベッドにシーツに気がついた。
 蒼衣には、このベッドを使うように言われている。
 まさか直輝が泊まることを見越しての洗濯でもないだろうが、ふんわりと香る洗剤の匂いに直輝は少しだけ癒され、なんともいえない心地よさを感じた。
 そのままつけっ放しのテレビの画面に視線を移し、なかなか風呂から出てこない蒼衣を待つ。

「しっかし、おせぇなぁ……。」

 男の入浴にしては長すぎる時間に、直輝は蒼衣が言っていたお礼の内容に今一度思いを馳せる。
 びっくりするようなお礼。
 蒼衣から得た情報はたったこれだけ。
 風呂に入る前に言った言葉だから、風呂に関係することなのか。
 うーん、と唸りながら、直輝は色々な可能性を考える。
 例えば、風呂に入ったら何かすごい仕掛けがしてあるとか?
 例えば、風呂から出たら何か旨いモンが出るとか?
 直輝が考え付くようなお礼など所詮この程度だった。
 それでも馬鹿馬鹿しいお礼の妄想を続けている内に、シーツの心地よい洗剤の香りと、柔らかさに直輝はすーっと眠りに落ちていった。
 どれだけ眠ったのだろうか。
 優しく肩を揺すられて、直輝の意識がゆっくりと覚醒へと向かう。

「……くん。……沢くん。」

 耳元で蒼衣の声が、直輝を呼んでいた。その声が直輝を呼ぶ度、肩を優しく揺すられる度、直輝の頬に何かさらさらとした物が当たり、それがくすぐったさを生み直輝の意識を更に覚醒へと向かわせた。

「ん……ぁ、何……?」

 流石に急激に覚醒したせいか、直輝は目を開くことができず、周りの様子がまったくわからない。
 ただ、目を覚ました割には回りは酷く暗いように感じた。
 ごしごしと目をこすり、隣に居るはずの蒼衣に視線を向ける。

「あれ、もう、朝……?」
「ううん、まだ、夜だけど……。」
「あー……そうなん? んじゃ、俺、まだ寝るわ……。」

 あまりの暗さに蒼衣に確認を取ると、蒼衣は暗闇の中ふるふると頭を振った。その度に何故か、直輝の頬にさらさらしたものが当たり、酷くくすぐったかった。
 だが、そんな事よりも睡魔の方が勝っている直輝は、夜だと知ると目を無理やり開けるのを諦めてまた瞳を閉じる。
 すると横で小さく溜息を吐く音が聞こえた。
 その音に反応し、直輝は開こうとしない瞼を無理やり薄く開ける。

「……何?」
「……あの、お、お礼、したいんだけど……、いいかな?」

 眠さのせいで少し苛立った声が、直輝の喉から出た。
 それに少し蒼衣は怯んだようだったが、すぐに気を持ち直したらしく、直輝の耳元に顔を寄せてそう囁く。途端に、直輝の顔にさらさらしたものが今以上大量にあたり、くすぐったさが増す。
 それが一体何なのか目が開かない上に、暗くされた室内ではよく見えない。

「んぁー、もう俺ねみーから明日でいいよ……。」

 くすぐったいなぁ、と思いながら手でそれを払いながらそう言うと、蒼衣はふぅっともう一度溜息を吐いた。

「……なんなんだよ。ウゼーなぁ、まったく。」

 蒼衣の溜息に、直輝はカチンときてまた苛立った声で呟いてしまう。
 しまった、とすぐに思ったが一度放たれた言葉は回収することができない。また蒼衣を怯えさせたのではないかと思い、薄く開いていた瞳を無理やり開ける。
 だが、暗闇の落ちた部屋の中で蒼衣の表情は見ることが出来ない。
 よく見ようと直輝が目を凝らした瞬間、蒼衣はすっと立ち上がった。

「……え?」

 その時になって蒼衣のシルエットが先ほどまでの蒼衣とはまったく違う事に直輝はようやく気がつく。
 暗闇でもカーテンから漏れる外の明かりを受けて、蒼衣は俯き加減に直輝を見下ろしている。
 そのシルエットは、肩からさらさらと長い髪が流れ、昼間には気がつかなかった体の華奢さが際立っていた。
 何より、腰から下のふわふわとしたまるでスカートを履いているようなシルエットは、直輝の目を覚まさすには十分なインパクトを持っていて。
 だが、そのシルエットを見たのも一瞬の事で、蒼衣は自分を鼓舞するかのように、すぅっと息を吸い込むと、膝をベッドの上へと乗せて来た。

「え? え? え……?」

 ぎしり、と鈍い音を立ててベッドの上に上がってきた蒼衣に、直輝は戸惑いを隠せず、体を起こそうとする。
 しかし蒼衣の手が伸びてきて、やんわりと直輝の体をベッドの上へと押し付けた。

「な、なななな、何?! 日向?!」
「……僕を、女の子だと、思って……?」
「へ?」

 パニックを起こし、裏返った声で蒼衣の名を呼ぶと、蒼衣は直輝の体を跨りながら小さく呟くように、直輝にそう言った。
 その言葉の意味が解らず間抜けな声を出した直輝に、蒼衣は暗闇の中、それでもふわりと笑う。

「今、ここに居るのは、日向蒼衣じゃなくて、アイっていう女の子なの。だから、芹沢くん……、じっとしててね……。気持ち、良く、してあげるから……。」
「ちょ、ちょっ、え? 何? 何言って……わ、わぁっ!?」

 蒼衣の意味不明な言葉の数々に直輝は更にパニックに陥る。
 しかも、蒼衣の手が直輝の体にそっと触れ、着ていたシャツに手をかけるとボタンをはずし、そこに唇を押し当てられると、情けなくも変な悲鳴が直輝の喉から漏れた。
 しかし、抵抗しようとは思っていても、あまりの事に体に力が入らない。
 そうこうしている内に、蒼衣の手は段々と下へと降りていき、とうとう直輝のジーンズの股間の所に到達する。

「っ……!」

 さわりとジーンズの上から股間を撫でられ、その感触に直輝はぞわりと総毛だった。

「なっ、何するんだっ!!」

 流石に貞操の危機を感じ、直輝は力が入らない体に渇を居れ、体の上に跨っている蒼衣の肩を後ろへと押す。

「あ……っ!」

 大して力を入れたつもりはなかったが思ったよりも力んでいたらしい。蒼衣の体がふわりと浮くと、そのままベッドの下へと落ちた。
 どさり、と重い音が部屋の中に響き、直輝は慌てて体を起こしベッドの下を覗き込む。
 蒼衣は強かに背中を打ちつけたらしく、蹲り小さく呻いていた。

「わ、わりぃ……。」

 思わず謝りの言葉を直輝は口にしたが、すぐに、何故自分が謝らなければいけないのかに疑問を持ち、口を閉じる。
 そして、一つ盛大に溜息を吐くと、直輝はベッドの上にどっかりと胡坐を掻いて座りなおす。
 ぼりぼりと頭を掻き、チラリと蒼衣を見た。
 目覚めた頃に比べ、随分と暗闇に目が慣れた為、はっきりと今の蒼衣の姿が見えた。
 蒼衣は、先ほど見たシルエットの通り女物の服をその身に着けていた。
 今まで直輝が気づかなかった蒼衣の体の線の細さに合わせているかのように、ぴったりとしたキャミソールとシャツの重ね着と、白いレースがあしらわれたふわりとしたスカート。
 だが、落ちた衝撃でそのスカートは膝上までまくれ上がり、白く細い足を暗闇の中に浮かび上がらせている。
 また、いつもは後ろで括っている筈の髪は解かれ、背中にさらさらと流れるように落ちている。そこで初めて直輝は、蒼衣の髪の長さが結構な長さだった事に気がついた。
 
「……なぁ、日向。」

 ベッドの下で未だ蹲ったまま、俯いてしまっている蒼衣に静かに声をかける。
 すると蒼衣の肩がビクリと揺れた。
 その蒼衣の反応にこの先を問いかけていいものかどうか、直輝は迷う。
 しかし、ここまでされてはもう迷う必要も躊躇する必要もない事に気がついた。

「……あのさ、お前の言ってたお礼、ってさ、俺とSEXするって事?」

 直輝は一つ覚悟を決めると、ぼりぼりと頭を掻きながら、あまり蒼衣を刺激しないように落ち着いた声でそう、尋ねる。
 だが、返ってきたのは無言だった。
 蒼衣は俯いてしまっている顔を更に俯かせると、ふるふると頭を振る。それは否定なのか、それとも別の意味があるのかは直輝には判別はつかない。

「……から……。」

 蒼衣の反応がどういったものなのかを考えていると、ぼそりと小さく蒼衣が何か呟く。
 その声はあまりにか細く小さいもので。直輝には蒼衣が何を呟いたのかまったく聞き取れなかった。

「え? 何?」

 もう一度聞き直そうと、直輝はベッドから足を下ろす。
 そして、俯いている蒼衣の傍に膝をつくと顔を蒼衣に近づけた。

「……知らない、から……。」

 傍によってようやく聞き取れたのは、そんな言葉だった。
 その言葉の意味が判らず、直輝はまじまじと髪に隠れている蒼衣の横顔を見る。
 すると、蒼衣がゆっくりと顔を挙げ、直輝に顔を向けた。

「あ……。」

 蒼衣の顔を見て、直輝は小さく声を漏らした。
 蒼衣の顔には、昼間にはしていた眼鏡がなかった。それどころか、暗闇の中でも薄っすらと化粧を施しているのも判る。

「……僕、こういう方法でしか、お礼の仕方、知らないんだ……。」

 フレーム越しではない、素顔の蒼衣の切れ長で睫の多い瞳に直輝がたじろいでいると、小さな声で蒼衣がそう呟いた。
 その声に、言葉の内容に、直輝はハッとする。
 長い睫に彩られた瞳を申し訳なさそうに伏せながら、蒼衣は言葉を続けた。

「僕、施設で育ったんだけど、そこで、その、男の先生とか、上級生の男の人とかに、口とか、体を使って、奉仕っていうの……させられてたから……。だから、僕、人を喜ばす方法、これしか、知らなくて……。」

 小さな声で、本当に申し訳なさそうに、蒼衣は直輝に辛い過去でもあるだろう事を話す。
 暗闇の中でもはっきりと判るくらい蒼衣の体は震えていて、これがどれだけ蒼衣にとって勇気のいる告白なのかが直輝でも解った。

「芹沢くんは、普通の人だから……、こんなの気持ち悪いって思うって、解ってるんだけど……でも、僕……他にどうしたら助けて貰ったお礼返したら良いか、解らなくて……。だから、その……、女の子の格好なら、あまり抵抗ないかなって……。……そんな訳ないって、解ってたけど……。」

 どんどんか細く、小さくなっていく蒼衣の言葉に、直輝はただただ言葉を失っていた。
 こういう時に相手が男だと言うのは、直輝にとって結構な障害だった。これが女の子の告白なら、恐らく一も二もなく抱きしめて、慰めの言葉を本心はどうであれ、囁いただろう。
 だが、相手は間違いなく、男、なのだ。
 男に対して、そんな女にするような対応をしていいものかどうかも直輝の迷いの一つで。
 蒼衣が施設で男の先生や上級生に対して、どんな奉仕とやらをしていたかは直輝にとっては全く想像もつかない事だ。
 ただ、それがどれだけ蒼衣の心に負担をかけて、傷つけているのかくらいは、解る。
 そのせいで、“女装”なんて倒錯した趣味に走ったのかもしれないし、と、そこまで直輝は考えて、もう一度まじまじと目の前で小さく肩を震わせて、もう押し黙っている蒼衣を見た。
 カーテンから漏れる月明かりに晒されたその横顔は、昼間の顔を見てさえいなかったら、普通にその辺にいる女にしか見えないだろう。
 それ程、きっちりとメイクを施してある。
 長い睫はマスカラで更に長く、黒く上へとカールしていた。薄い唇は、淡いローズピンクで彩られ、濡れたような艶を放っていた。
 それらの化粧を蒼衣がどんな思いで、どんな決心で施したのか。
 その事を考えると、直輝はもう迷ってなどいられなかった。

「……チクショウ……っ。」

 そう小さく自分に向けて呟くと、蒼衣に向けて腕を伸ばす。
 小さく震え続けているその、男にしては華奢な肩に直輝の指先が触れると、蒼衣は驚いたように顔を上げた。
 だが、その顔が直輝の表情を捉える前に、直輝の胸の中へと抱きしめられる。

「あ、あの……芹沢……、くん……?」

 突然のその抱擁に、蒼衣は呆然と呟く。
 てっきり直輝には呆れられ、気味悪がられてると思っていた。
 強く拒絶され、恐らくもう二度と関わりたくないと、そう、直輝が言ってくると蒼衣は踏んでいた。
 普通に考えてもそれは当たり前のことで、寧ろ、こんな風に抱きしめられる筈などないはずで。
 それなのに、何故……。どうして……? そんな思いが蒼衣の胸の内に渦巻く。
 呆然とする蒼衣を抱きしめながら、直輝は自分自身の単純さに少しだけ苦笑した。
 それでもこれから先の行動を起こしていいものか、腕の中にある蒼衣の体の細さを感じながら、考える。
 だが、ここまで来たらもう引き返せない。

「……一回、だけだからな。」

 直輝はそう、蒼衣に低い声で囁いた。

「……え……?」

 強く抱きしめられたその耳元に、直輝が逡巡の末、口にした言葉に、蒼衣は何のことかと聞き返そうとする。
 しかし、それを聞き返す前に、直輝に唇を塞がれてしまった。

「っ、……ん、……んんっ……?!」

 驚き、直輝の胸の中でもがく蒼衣を、直輝は更に深く唇を押し付け、その割れ目から舌を忍び込ませた。
 薄く開いている唇から、歯へ、そしてその奥へと舌を侵入させ、驚き縮こまっている蒼衣の舌を探り当てる。軽く舌先で突き、吸い込むように舌を絡めると、蒼衣の体がビクリと震えた。

「んっ、……ふ、ぅあ……っ。」

 空気を求めるように唇の位置をずらす蒼衣に、直輝は執拗に追いかけ、その舌を吸う。
 蒼衣は先ほど自分が直輝にしようとした事も忘れ、ただただ、直輝のこの行動に驚き、その唇から逃げようとした。
 だが、顔を振っても、手で直輝の肩を押しても、直輝の唇が蒼衣の逃がすことはなかった。
 一体そんな状態でどれ程の時間唇を合わせていたのか。
 逃げることにも疲れ、直輝に与えられる口付けの甘美さに、蒼衣の体から徐々に力が抜けていく。
 直輝の体を押し返そうとしていたその腕は、気がつけばそのシャツをしっかりと掴み、崩れ落ちそうになる体を必死になって支えていた。

「……キスは、あんま得意じゃねーみたいだな。」

 ようやく直輝が蒼衣を開放したのは、直輝のキスに蒼衣がぐったりと力が抜けきった後だった。
 意地悪さを含んだ直輝の声に、蒼衣は赤く上気した顔を直輝へと向ける。

「……だ、だって……、えっ……ぁ?!」

 その直輝の言葉に反論しようと口を開いた途端、自分でも驚くほど甘く掠れた声が出てしまい、蒼衣は途端に恥ずかしさで直輝を見れなくなる。
 そのまま、直輝のシャツに顔を埋めると、ふるふると頭を振りながら蒼衣は小さな声で反論の続きをした。

「……その、こ、こんな風に……、先生達とは……キス……、とか、シタ事ない……もん。」

 拗ねたような、恥らっているようなその話し方と、態度に、相手が男だとわかってはいても直輝の中で何かのメーターが振り切れる。
 ゴクリと生唾を飲み込むと、薄い蒼衣の肩を掴みそのまま床の上に押し倒す。

「え……?! あ、あの、芹沢……、くん……?」
「直輝だ。」
「え?」
「SEXすんのに、苗字呼びなんて興醒めだろうが。だから、直輝、って呼べよ。」
「え? え? せ、せっくす……? え?」

 妙な迫力を持って、蒼衣の上に圧し掛かってきた直輝に、蒼衣は目を白黒させる。
 その上、直輝が直球の言葉を口にしながら着ているシャツを脱ぎ始めると、蒼衣はどう反応していいか解らなくなり、あわあわとするばかりだった。
 自分から行くのはそれなりに決意をして、勇気を出しての行動だったから今ほど恥ずかしいとは思わなかったが、まさか、直輝がこんなに突然ノリノリで来るとは全く想像しておらず、身を焦がすほど恥ずかしくなってくる。
 直輝は直輝で、自分の下で顔を真っ赤にさせて、焦っている蒼衣を見ていると妙に色々なものが吹っ切れるだけではなく、何か堪らなく苛めたくて仕方がなくなっていた。
 焦ってあわあわとしている蒼衣に顔を近づけると、直輝は優しくもう一度キスをする。
 そしてすぐに離れると、赤く染まっているその耳へと唇を近づけた。

「男抱くのは初めてだから、どうすりゃいいのか教えろよ、……蒼衣。」

 くつくつと笑いながらそう囁き、直輝は蒼衣の耳たぶを口に含んだ。

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