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NOVEL

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エピソード7 01

注意事項:救いなし

 記憶が戻った時、僕はベッドの上に寝かされていた。
 天井には白い蛍光灯が無味乾燥と灯っていて、その白い天板に跳ね返って酷く目を傷める。

「……っう……っ。」

 小さく喉から声が漏れた。
 だが、その途端体中に凄まじい激痛が走る。
 痛みにのたうち回り、悲鳴を上げそうになるが、僕の体はほとんど動かず、声もまともに出ず、変わりに僕の指先だけが痙攣したように動いただけだった。
 ただ自由に動かせるのは、瞳だけ。
 それもあまりはっきりとは見えない。
 顔の皮膚が引き攣る痛みに喉の奥で呻きながらも、僕は、視線をゆっくりと動かした。
 目に見える範囲には、天井と蛍光灯、そして何か解らないけど機械類。後は、目の端に大きなガラスが見えて、その先には何か人影がちらちらと動いているようだ。
 耳に聞こえてくるのは、機械が動作する鈍い音と、ピッピッピッピ……と言う電子音、それから自分の呼吸らしきゼーゼーという音。
 一体ここはどこなんだろう。
 視界から得られる情報と、耳から得られる情報ではそれを把握するのは困難だった。
 周りには人は居ないらしく、そして僕の口からはどうやっても声が出ない。
 声を出そうとすると、喉が酷く痛む。しかも唇はかさかさに乾いてて長期間言葉を発していなかったせいか、口の中もカラカラに乾いていた。口の奥には舌が小さく縮こまり、動かそうとしても巧く動かせない。
 どうしよう……、そう思っていると無音に近かったこの部屋に突然ざわざわとした雰囲気が流れ込み、床の上を歩く無数の足音がそのまま僕が横になっているベッドへと振動として伝わってくる。
 そして、蛍光灯の光に照らされた男の人の顔が僕の顔を上から覗き込んだ。
 僕の目が開いている事にその男の人は驚いたような顔をした後、すぐにその相好を崩す。恐らく笑顔になったのだろうと思うのだけど、その男の人は青いマスクでその顔の半分を覆っていて、はっきりとは解らなかった。

「幸田一臣くん? 私の声が聞こえるか? 聞こえるなら、ゆっくりと一回瞬きをしてくれるかな?」

 まるで子供に語りかけるかのように優しい声で、その人はゆっくりと僕にそう話しかけてくる。
 だけど僕の関心はその話し方ではなく、その人の言った、瞬き、という単語にだった。
 何故、瞬きなんだろう。声や頷きではダメなんだろうか。
 瞬間的にそう思ったが僕はすぐに自分の体が何かに拘束されていて、そして、声も何故か出せない事に思い当たる。
 だからその男の人が言った通りに、少しの間はあったけど、僕はゆっくりと一回瞬きをした。
 すると、僕の顔を覗き込んでいる男の人と、僕の周りを取り囲んでいる他の人達が、わっと歓声のような声を上げ、ホッとしたような様子で僕を見下ろす。
 この喜びようはなんなんだろう……。
 なんでこんなに喜んでいるんだろう……?
 なんで……?
 そこまで考えていると、不意に頭の中に鋭い痛みが走った。
 ズキズキとする痛みに、僕は顔を顰め、いや顰めようとして、だけど、瞳を薄く細める事しかできない。
 呻き声も出そうとするが、喉の奥で空気が漏れるような音がしただけで、その痛みの声は外には漏れなかったみたいだった。
 だけど、目の前に居る僕の顔を覗き込んでいる男の人は、そんな僕の些細な変化を感じ取ったらしい。
 すぐさま、僕の周りを取り囲んでいる人達に何事か指示を出すと、青いだぼっとした服のポケットの中から聴診器らしきものを取り出すと自分の耳にかけ、そして、僕の来ている服を緩くはだけさせるとそこにその丸い集音部を僕の胸に押し当てた。
 そうしながら周りが慌ただしく作業をしたり、何かをガラガラと押してくる音を聞きながら僕は頭の中で酷くなる頭痛に、ゆっくりと意識がまた真っ暗な闇の中に落ちていくのを感じる。
 そしてこの感覚をつい最近感じたような気がしながら、僕の顔を覗き込んでいた男の人が何度も何度も僕の名前を呼んでいる声を意識に残したまま、僕の意識は完全に闇に包まれた。


 僕は死ぬのかな。
 そう言えば、こんな事思うの二度目だっけ?
 でも一度目は、いつ……?
 なんでそんな事思ったんだっけ……?
 ……あぁ、そうか……。
 僕は殺されかけたんだ。
 誰かもしれない相手に。
 僕の家で。
 あの時は、確か、暗闇の中、体中を侵入してきた男に滅多刺しにされて、そいつの笑い声を消えゆく意識の中でずっと聞いていたっけ。
 そいつは笑いながら、僕に謝っていた。
 ごめんね。ごめんね。ごめんね。
 でも、君が悪いんだよ。
 だから死んじゃうんだよ。
 馬鹿だね。
 もっと上手に立ち回らないから。
 そうずっと僕のなくなった左耳に囁いていたっけ。
 どこかで聞いた事のある声、だけど、くぐもっててはっきりとは誰かなんて僕には解らなかった。
 あれは一体誰だったんだろうか。
 暗闇の中今はっきりと覚えているのは、割とがっしりした体格だった、って事だけ。
 ナイフを握る手には黒い手袋。体に纏っていたのは水をはじくタイプのフード付きのジャンバー。下半身はどんなズボンを穿いていたのかは解らない。
 顔だってほとんど大きなマスクで覆っていて、見えていたのは目の部分だけ。
 その眼も血走っていて、誰の眼かなんて全然解らなかった。
 だけど、きっと相手は僕の知ってる奴なんだろう。
 でないと、あんな風に僕を責めないだろうから。
 そこまで考えて僕ははたと思う。
 そうか、僕はあれだけあちこちを刺されながらも、一命を取り留めたのか……。
 じゃああの時僕と一緒に居た、コータはどうなったんだろうか。
 コータは僕を庇うように僕を抱きしめて……、それから、あいつに、その背中を滅多刺しされていた筈……。
 その後、そんな体で僕を助けようにして、……そして……。

 「ぅ……うぅ……っ!」

 僕の口からくぐもった声が漏れる。
 そして初めて僕は、自分の意識が覚醒した事に気がつく。
 まるで酷い悪夢を見ていたように心臓は激しくドクドクと脈打ち、カッと見開いた瞳はせわしなく辺りを見回す。
 相変わらず僕の視界に入るのは、白い天井と蛍光灯。そして、眼の端には大きなガラスと、機械類。
 ハァハァと荒い息を吐きながら、僕は自分の体がガクガクと震えている事にも気がつく。
 するとどう言う仕組みになっているのか、それともずっと傍で様子を見ていたのか、またさっきのようにざわざわと人が慌ただしく入ってくる音が聞こえる。
 そして、またさっきと同じ男の人が僕の顔を上から見下ろした。

「良かった、気がついたんだね。処置は施したから、もう大丈夫だよ。落ち着いて、ゆっくり息を吸って……、そう、そうだ。うん、いいよ。」

 まるで僕を安心させるようにゆっくりと優しく声をかけながら、周りに居る人間にも素早く指示を出す。
 僕のベッドを取り囲んでいる人間、恐らく看護師さん達は相変わらず慌ただしく動き、機械の操作をしたり、点滴のチェックをしたり、僕の前に居る男の人に数値を伝えたりしていた。
 そんな人達を横目に見ながら僕は、目の前の男の人が言うとおりゆっくりと息を吸う。
 するとバクバクと煽るように脈打っていた僕の心臓は少しずつ平静を保っていく。
 だけど、平静を取り戻す半面、僕は今さっき見ていた夢を思い出していた。
 酷く真っ赤な、痛みの走る、嫌な悪夢。
 ――いや、あれは夢じゃない。
 夢なんかじゃない……!
 あれは現実にあった事。
 僕は。
 僕は殺されかけた。
 そう認識した瞬間、僕の心臓がドクンッと大きく脈打ち、悲鳴にならない悲鳴が僕の喉から空気となって漏れた。

「――――っっ――――ひっ、ぁああああああああああああああ!!!!!!!?????」

 動かない手足を精一杯じたばたと動かし、襲ってくる恐怖に僕は抵抗しようとする。 
 だけど、そんな僕を目の前の男の人は慌てたように僕の体を上から押さえつけようとした。
 途端に表現しがたい激痛が体中に走る。
 体がバラバラになりそうなその激痛に僕は更に悲鳴を上げ、そんな僕を困ったような顔をしながらも男の人は押さえつけ、そして大声で看護師さんに何事かを命令していた。
 すぐさま荷台のようなカートの上に乗っていた注射器をその看護師が手に取ると、僕の頭上で揺れている点滴から伸びているチューブの途中にある何か連結するような小さな器具の膨らんでいる部分にその針を刺して注射器の中に満たしてあった透明な液をそこに流し込む。
 ややあってその液が僕の体の中に流れ込んでいたのか、僕の意識はすーっと落ちていき、そんな僕の傍で男の人の独り言のような言葉が聞こえてきた。

「……やはりショックが大きすぎたんだな。退院するまでに心への負担が少しでも良くなってくれればいいのだが……。」

 悲しそうに呟れた言葉に、僕は一体誰が大きなショックを受けたんだろう、なんてまるで他人のように考えていた。
 そして、その日から覚醒をする度に興奮、錯乱、それを薬で強制的に落ち着かせ、睡眠を繰り返す日々が気がつけば一カ月は過ぎたらしい。
 らしい、と言うのは僕自身に日付の概念が全くないからだ。
 ただ、月日が経つ毎に少なくとも体の傷は癒え、集中治療室から普通の個室へと僕はベッド毎移動した。
 最初は全く出なかった声も、少しずつだが出るようになった。
 しかし、僕を襲った犯人は僕の声帯そのものを持っていたナイフで傷つけて行ったらしく、まともな言葉はまだまだ話せない。
 だけど言葉が話せないのは僕にとって特に苦痛ではなかった。
 だって僕の一日のほとんどは強制的に眠らされている。
 起きている時間なんてほんのちょっとで、その時間の大半も僕は悲鳴ばかり上げていて、ちっともまともな思考も生活も送れていなかったから。
 それでも日々、ほんの少しの時間でも僕の心は平常を取り戻す事がある。
 その時に、僕が今いる所が大きな病院で、毎回僕の顔を覗き込む男の人は僕を担当しているお医者さんだと解った。
 そしてあれだけ忙しかった母さんが、何故か僕の運び込まれたこの病院に通い詰めているのだと、個室にベッドが移った時に看護師さんの一人が教えてくれた。
 まさかあの母さんが仕事よりも僕を優先する時が来るなんて思いもよらなかった。
 僕が個室に移ってからは母さんはまるで今まで僕に興味がなかった事が嘘のように、僕の世話をあれこれと焼いている。
 仕事はどうしたんだろう、とか、新しい恋人はどうしたんだろう、とも思ったが今僕は言葉がほとんど話せない。だからそれらの事を聞く事はなく、ただ、母さんが傍に居る事をひたすら不思議に思い続けていた。
 一方母さんの方は、僕が集中治療室から出てこの個室に運ばれて初めて僕を見た時、物凄い勢いで泣き崩れた。
 それからも時々、僕を見ては涙を零して年の割に綺麗なその顔を涙でぐちゃぐちゃにしている。
 そして、僕の動かない手を握り締めながら、ずっと、ごめんね、と呟き続けていた。
 一体何が、ごめんね、なんだろう。
 僕が襲われたのも、死にそうになったのも、母さんが僕を殺すようにあの犯人に依頼したのでなければ、彼女にはなんの非もないない筈だ。
 それなのになぜ、彼女はいつまでも僕を見て泣き続け、謝り続けるのか。
 そんな彼女を横目に見ながら、僕は彼女が呟く言葉に嫌なフラッシュバックを起こして急激に神経が逆上し、興奮状態を押さえられなくなってしまう。
 言葉の出ない声で、獣のように狂った悲鳴を上げ、微かに動くようになっている左手を振り回す。その僕に母さんは更におろおろと泣き崩れ、飛び込んできた看護師さんに僕は押さえつけられ、また鎮静剤だか睡眠剤だかを点滴チューブに刺される。
 そして僕はまた血の色が飛び散る悪夢を見る為に眠りに落ちた。
 そんな事を何度繰り返しただろう。
 いつしか母さんは僕の前で泣かなくなった。
 無理して笑うようになった。
 無理して楽しくなるような色々な会話を試みようとしていた。
 そんな彼女が痛々しくて、会話が出来ないのが申し訳なくて、僕は、ベッドに横たわったまま、ずっと彼女から顔を背けて過ごす。
 もし僕が言葉を話せるようになったら、こんな風に母さんを苦しませなくて済むのだろうか。
 そんな事まで思う。
 だけど依然僕の言葉は回復しない。
 早く言葉が回復すればいいのに。
 僕はもう彼女の無理矢理な笑顔を見たくなかったし、彼女が楽しいと思っている話題をただ聞き続ける日々はもう嫌だった。
 日々は刻一刻と確実に過ぎているのに、体の傷はそれに合わせてゆっくりと治っていっているのに。
 なんで言葉だけは戻らないのだろう。
 毎日のように当たり前の診察以外にも時間を見つけては様子を見に来る、主治医の先生も僕の喉の状態を見ながら最近は首をひねる事が多くなった。
 結局更に一か月以上が経過しても、僕の言葉は戻る事がなかった。

「……うーん……もう声が出てもいいんだけどねぇ。」

 外科医であるその担当医は僕の喉の奥を見ながらそう首を捻る。
 そしてややあって、僕の喉に突っ込んでいた器具を引き抜くと難しい顔をして僕の瞳を覗き込む。

「幸田くん、体の傷は大分良いから、今度先生と一緒に少し散歩してみようか?」
「……?」
「部屋の中ばかりじゃ飽きるだろう? 窓から見える景色も変わらないし。少し外の空気に触れてみるのもいいかもしれない。……あ、勿論、その時には十分安全には配慮するし、他の看護師さんも連れて行くから僕を信用してくれよ。」
「……。」

 にこにこと人の良い笑顔を僕に向けながら壮年のその先生は僕にそうひとつの提案をしてきた。
 その提案に僕は少し悩んだ後、小さくこくりと頷く。
 するとその先生、吉井先生は本当に嬉しそうに破顔した。

「じゃあ、明日にでも行こうか。今日は外、曇ってて肌寒いからあまり体に良くないしね。明日は天気予報では晴れだったから、きっと気持ちがいいよ。」

 吉井先生はそう嬉しそうに明日の予定を僕に取りつけると、ベッドを超えた向こう側に居る母さんにペコリとお辞儀をして出ていこうとする。
 その先生を母さんは追いかけ、そして僕を部屋に残して先生とともに廊下へと出た。
 恐らく先生に僕の症状や他にも色々と不安な事、心配な事を話をしているのだろう。
 ここの所、僕のあの発作のようなパニックを起こす症状は少し落ち着いている。
 この病院に入院して、僕が目を覚ましたその直後のように悲鳴を上げて目が覚めるという事も大分少なくなってきて、手足が不自由な事と声が出ない事を除くと、僕の生活は当初に比べ随分穏やかなものへと変わっていた。
 看護師さんも前ほど頻繁に僕の部屋を覗かなくなったし、母さんも僕がパニックを起こす度に慌ててナースコールを押したり、僕の体を押さえたりと言った事をする頻度は落ちている。
 その事自体は自分でもホッとしていた。
 だけど、精神の平常化が進めば進むほど、僕の頭の中は様々な疑問や不安が満ちて渦巻いていく。
 僕がこうして普通に体を起こす事が出来るようになってからも、その前も、母さんも吉井先生も、そして看護師さんの誰も僕が体験したあの事件の事を話してくれない。
 コータがどうなったのか。
 他の部屋に居た野々村達はどうしていたのか。
 そして、笹川は戻ってきたのか。
 その情報が僕には全く入ってこなかった。
 テレビはまだあまり精神的にも目にも良くない、とかいう理由でこの個室に設置してあったテレビは移動当初に撤去されている。
 そして新聞も母さんは買ってこないし、そもそも母さんに新聞を読みたいとも声が出ない今は、読みたくとも伝える事が出来ない。
 声がダメなら筆談で、とも思うが、僕の指は両手とも神経が切れているらしくてシャーペンもボールペンも今はまともに握れなかった。
 こんな状態で入ってくる情報と言えば、母さんの話す学校の話や、今が何月何日で何曜日かと言う事と、先生が話す僕の体の状態、そして窓から見える天気。
 それくらいなものだ。
 そして、本来なら来るはずの人達も僕の元を訪れない。
 何故、来ないのだろうか。
 僕がこうして入院しているという事は、寝ている間に見ているあの悪夢は事実だったって事だ。
 だったなら、絶対に僕の元に来なければならない人達が居る。
 だけど僕がこの病院に入院してから、昏睡していた時期も含めて、おおよそ三カ月半くらい。
 最初の頃は仕方がないとしても今はもうこうして体を起していられるし、覚醒している時間も長い。
 それなのに、あの人達が来ないなんて……。
 なんでだろうか。
 僕の供述は必要ないのか、それとも、聞く必要さえないのか。
 いや、ひょっとしたら母さんや先生、看護師さん達がそういう人達をシャットアウトしている……?
 もしそうだとしたら何故?
 そんな思いに駆られる。
 だけどその人達が来ない事に、僕は心の片隅で少しだけホッとしていた。
 だって彼らが来たら僕はきっとまたあの悪夢を起きていても見るだろう。
 今でも必死になってフラッシュバックが起こる度に、悲鳴を上げたり暴れたりするのを耐えているんだ。
 あの悪夢が事実だと告げられて、僕以外のあの場に居た人間の行く末を聞いて、僕は発狂しないなんて自信なんてない。
 だからもう少しだけ、こうして母さんと病院の先生と、そして看護師さん達だけの生活を送っていたい。
 そんな事を思って窓の外を眺めていると、ガラリ、と病室のドアが開く微かな音が聞こえてきた。
 てっきり母さんが帰って来たのだと思い、僕はベッドのリクライニング機能を使って起こしていた体を布団の中に潜り込ませると、ドアに背を向けてベッドの上に寝っ転がる。
 しかし、そんな僕の背中に声をかけてきたのは母さんではなかった。

「……もう起きられるようになったんだ。安心したよ。」

 男の声に、僕の体がびくりと固まる。
 するとその声の主はわざわざ僕の顔の方へとベッドを回り込んで、僕の顔を覗き込んできた。

「……。」

 心の中で、委員長、と僕の顔を覗き込んできた男のあだ名を呟く。
 だけどそんな声は委員長には届かなかったらしく、彼は僕が返事をしない事に少しだけ不満そうに唇を尖らせた。

「なんで何も言わないの?」

 瞳を細めて僕を見つめながらそんな事を聞いてくる。
 それに僕はやっぱり心の中で、言えるものなら言っている、と毒づいた。
 だけど声に出せないそれは当然委員長に届くはずもなく、委員長はまた不満そうに眉根を寄せたがそれ以上は追及はせず、僕の顔から視線を逸らせる。
 そしてその手に持っていた様々なフルーツが大量に持ってあるバスケットを僕のベッドの横に置いてある簡易的な机とロッカーを兼ねている棚の上に置いた。

「これ、お見舞い。もし食べられるようなら食べてよ。」

 さっきまでの不満などなかったかのように僕ににこりと微笑み、そのまま母さんがさっきまで座っていたスチール椅子に腰をかける。
 長居する気かよ、そう思い、とっとと出ていけ、と言った思いを込めて委員長の顔を睨む。
 すると、委員長の瞳がまた細くなった。
 そして、つぃっとその唇が今までの柔和なものとは違う笑みの形に釣り上がる。
 その嫌な笑みに僕は何故か心の奥底からざわざわと気持ちの悪い虫が這い出てくるような不快感を覚えた。
 何故委員長がそんな嫌な笑みを浮かべるのか。
 不機嫌とは違う、気味の悪い笑みに僕は体中を虫が這い回るような感覚と、微かな恐怖を感じる。

「……一臣、本当に大変だったね。でも一命を取り留めて、本当に良かった。」
「……。」

 くすくすと鼻を鳴らすように笑い、全然良かったとは思っていないような表情で上辺だけと解るように、心配をしていたんだ、なんてそんな事を言う。
 瞳は笑みの形に細められてはいたけど、その奥にある光は全然笑っていなくてそれが凄く薄気味が悪い。
 だけど僕がやっぱり返事をしないで居ると、委員長の瞳はまるで何かを探るように僕の瞳を見返す。
 そして、ゆっくりと口を開いた。

「……それにしても、笹川の奴、思い切った事したよね。」
「……っ?!」

 突然笹川の名前が出た事に、僕は自分が思った以上に動揺する。
 目の前に居る委員長の顔が激しく揺れ、僕の喉は声にならない空気が漏れる音をヒューヒューと漏らしてしまう。
 今、委員長はなんて言ったんだろう。
 頭の中が委員長の言った言葉を理解しようとするのを、僕の理性が何故か阻んだ。
 息が苦しくなり、小刻みに呼吸を繰り返す。
 そんな僕の様子に委員長は少しだけその整った眉を動かしただけで、驚きもせず、僕を細めた瞳で観察するように眺めていた。
 そして、暫くそうして僕を観察した後、にたり、と嫌な笑みを浮かべる。

「そうか……、一臣はまだ知らないんだね。和美さんも話してないのか……へぇ、意外だな。君は真っ先に知らせてると思ってたのに。」

 委員長は僕の反応をどう受け取ったのか、一人ぶつぶつと自分を納得させるように呟く。
 暫くそうして呟いた後、不意に顔を上げると今までのような嫌な笑顔は消し、最初の頃に見せたようなにこやかな、人当たりのいい笑みを浮かべた。

「良い事教えてあげるよ、一臣。」

 にこにこと上機嫌な笑みで委員長は僕に近づいてくる。
 その雰囲気に、そして迫ってくる委員長の顔に何故だが僕は言い知れない恐怖を感じ、上手く動かせない体を必死になって動かし、少しでも委員長から離れようと試みる。だが、どうあがいても手足がまともに動かない今、委員長の接近を避ける事なんて出来なくて。
 委員長は本当に嬉しそうな笑みを浮かべあっという間に僕の真ん前にその顔を近づけた。
 もう少しで鼻が触れそう、と言う所まで近づくと、委員長はまるで僕を更に怯えさせるかのように、嬉しそうな、幸せそうな笑みをその唇に強く現す。

「君を襲った犯人、知りたいでしょ?」

 耳に委員長の粘ついている声が絡まり、僕の体を恐怖で固めた。
 聞きたくなんてない。
 そう咄嗟に思うが、僕の口は情けない事に小さな唸り声しか出せなかった。
 そんな僕にくすくすと笑い声を吹き込みながら、委員長は僕のまだ治療の為のガーゼで覆われている頬に手を伸ばし、ガーゼの上から傷に痛みを与えないように優しく触る。
 その触り方や、委員長の笑い声に僕の心臓は縮みあがり、動悸がまた激しくなっていく。
 何故か体中の治りかけた傷がズキズキと疼き、首の奥が締め付けられるような息苦しさを覚えた。
 委員長は目の前で優しい、ある意味慈愛を湛えた笑みをその顔に浮かべている。
 だけどその瞳の奥は今まで見た事もないような、心が凍りそうになる冷たさを湛えて僕を見つめていて。

「……っ。」

 喉の奥に何かか詰まったような異物感と息苦しさを必死になって吐き出そうとする。
 しかし目の前にある委員長の顔が、酷く怖くて僕は口を開ける事も出来ず、逆に唇をしっかりと閉じて息を止めてしまう。
 相変わらず委員長は僕の返事を待っているように、にこにこと笑い、僕のガーゼに覆われている頬を優しく撫でていた。
 だけどいつまで待っても僕が口を開かないのを見て取ると、少しだけ呆れたような顔をする。
 そして溜息を小さく吐くと、仕方ないか、と言った風に軽く顔を左右に振った。

「強情だね。そんなに僕と話をするのは嫌? ……まぁ、いいや。君が知らないなら教えてあげるよ。」
「っ……っつ!!」

 呆れたような声で僕が委員長の言葉に反応を示さないのを冷やかな視線を向けて責めながら、それでも僕に僕を襲った犯人を教えようとする。
 それに僕は思わずぶるぶると顔を左右に振って、拒絶に意志を示す。
 すると委員長は少しだけ心外、と言った顔をして肩を竦めた後、ふっと緩く笑った。

「またまた。本当は知りたいんだろ? 誰が君をこんな体にしたのか。その理由はなんなのか。テレビや新聞の報道で得た情報だけど、僕は知っているよ。……勿論、君の家に居た野々村達もどうなったのか、もね。」
「ぅ……っ、う゛ぅ……っ!!」

 くすり、と鼻を鳴らして笑い、委員長はこの入院生活で更に長くなってしまっている僕の前髪を優しい仕草で掻き上げながら、僕に淡々とそうあの事件について話をし始める。
 その委員長の優しげな面立ちの裏にある、酷く残酷で非情な冷たい色に僕は、僕の髪を優しく触り続ける委員長の手を払いのけるように顔を激しく左右に振り彼の言葉を拒絶する。
 だが、そんな僕に委員長はにぃっと口角を釣り上げると、今まで優しく触っていたその手にぐっと力を込めて僕の顎を掴んだ。

「僕は知っているよ。だから、君もそれを知らなきゃいけない。――これから先、君が生きて行く為には、ね。」

 こいつは誰だっ……!?
 そう心の中で叫ぶ。
 目の前に居る委員長は、もう僕が知っている委員長ではないような気がした。
 野々村よりももっとヤバい、恐ろしいモノが委員長の目には宿っていて、僕は顎を強い力で掴んでいる委員長の手を必死になって動かない手で振りほどこうとする。
 だけどそんな僕を滑稽だと嘲笑うかのように、委員長は椅子から体を起こすと、僕の顎から手を離しそのまま僕の両手を掴むと、僕の体を病院のベッドの上へと押し付けた。

「――イケナイ子だね。まだ完全に治癒していないに暴れたら、傷口が開くよ……、こことか、さ。」

 くすくすと笑いながら委員長は、そう言うと、僕の右手の包帯の上にその指を押し当て、犯人に突き刺された場所を寸分の狂いもなく強くその指先で押す。
 深い傷だった為あまり治癒していないその場所から、委員長の指先が与えた激痛が一気に体中に走る。
 あまりの痛みに喉から悲鳴が上がりそうになったのを、寸での所で委員長が僕の口を覆った。
 ……その唇で。
 お陰で僕の言葉にはならない悲鳴は委員長の口に吸いこまれ、そして僕の口の中に反響して消えていく。

「……っう、うぅ……っう……っ!!」

 相変わらず両手はベッドに押えこまれたままで、唇は委員長の酷く生温かい唇がねっちょりと押し当てられていて、僕は声にならない呻き声を口の中で漏らすしか出来なかった。
 委員長の唇からは舌が這いずり出て、僕の震える唇や舌、歯ぐきなどを舐め上げ、這い回る。
 その何とも言えない気持ち悪さに、僕は胃の中から胃液が競り上がってくる気配を感じた。体が小さく痙攣し、えづきそうになるが、委員長は僕の異変なんか気にもせずに僕の口の中をそのぬるぬるした舌で舐め続けている。

「ぅ……う……っ、う゛う゛……っっ!!」

 吐き気の限界が訪れ、僕は委員長の唇を必死になって顔を左右に振って離れるようにしたが、委員長の唇はしつこいくらいに僕に食らいついていて離れない。
 結局、僕はゴフッと喉の奥から少量の胃液が噴き出し、口の中をその嫌な味で満たしてしまった。
 その胃液の味に流石に委員長も驚いたのか、僕の唇からその唇を慌てて離し、唾液でぬめっている唇を着ている服の袖で拭う。

「……あんなにきび面で不細工な笹川とはあんなに気持ちよさそうにキスしてたのに、僕だと吐く位嫌って事かよ?」

 剣呑な瞳で睨みつけられ、そう今までにないくらい低くドスの利いた声で呟くように僕に言い放つ。
 また笹川の名前が出た事に僕は一瞬心臓がドクッと脈打ったが、それ以上に目の前にある委員長の異様にギラギラした瞳が怖かった。
 今僕の目の前に居る委員長は、まるで今までの品性方向な化けの皮が剥がれたかのように酷く獣臭く、生臭い、人間の持つ負の部分が全面に押し出されたような下品な顔になっていて、僕はその時になって初めて気がついた。
 委員長が今まで僕や周りの人間に見せていた顔が、ガチガチに固めた仮面だったって事に。
 瞳を細め、僕を舐めるように睨みつける委員長は、普段が温厚で、品行方正で固めていた男だけに酷く冷酷で残忍な表情をその皮一枚下に這いずり回している。
 ペロリ、と胃液と唾液が大分落ちたその唇を、肉食獣が獲物を前にして舌舐めずりするように舐める仕草は、妙に堂に入っていて、様になっていて、委員長の本性を垣間見たような気がした。

「ふふ……まぁいいさ、一臣。お前はもうすでに僕の手の内なんだ。すぐに僕だけを、僕だけしか頼れないようにしてあげる。」

 何度も何度も唇を舐めまわし、委員長は嫌らしい笑みを浮かべると、僕の耳に顔を近づける。
 そして、ゆっくりと口を開いた。

「――さ、さ、が、わ。」
「!?!?!?」

 一字、一字をゆっくりと区切るように僕の耳にあいつの名を囁く。
 その言葉に絡まるとんでもなく不愉快で不穏な感情と、囁かれた名前の懐かしさに僕は驚き、僕の間近にある委員長の顔を目を見開いて見つめ返す。
 すると委員長は、整っている癖に酷く醜悪な笑みをその顔に張り付けて僕を見返した。

「一臣を襲った犯人。あの馬鹿だよ。――笹川秋喜(あきよし)。あいつが今回一連の犯人だ。」

 酷く馬鹿にした響きで委員長は僕に信じられない言葉を囁く。
 まさか、という思いが一番最初に頭に浮かび、そして、それはあっという間に僕の脳内をその否定の言葉だけで埋め尽くす。
 どう説明されても、あいつが犯人だなんて僕には納得なんて出来そうもない位僕の頭の中はそれを否定する言葉しかなかった。
 それが顔に現れていたのだろうか。
 委員長は酷くつまらなそうに、鼻先をふんっ、と鳴らして僕のその否定をせせら笑う。

「馬鹿だね、一臣。あんな奴を信じているのか? あいつは君をあんなに酷く虐めていて、しかも、君にあんな変態行為を無理強いしてたサイテーな奴じゃないか。一体奴の何を信用しているのか知らないけど、あのブ男に変な幻想を持つのはやめろよ。あいつが君を死にそうになるまでナイフで刺した犯人だ。警察の発表も見解もそうなってる。これが事実だ。」
「……っう、う……っがう……っ!」

 笹川を見下し、馬鹿にし、こき下ろす委員長に僕は何度も、違う、と口の中で言葉にならない言葉を呟く。
 確かに笹川は馬鹿だが、あんな大それた事が出来るような人間じゃない。
 それにあの事件の少し前にコータが言ってた言葉が本当なら、笹川が僕をこんな風に傷つける筈なんてない。そんな理由なんて、あいつにはない。
 だから、今委員長が言った言葉は嘘だ。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だうそだうそだうそだ……っ!!!
 そんな言葉を口をパクパクと動かして呟いている僕を見下ろしながら、委員長は同じ人間とは思えない凍りつくような冷たい目をして、僕の瞳を覗き込んでいた。

「へぇ……一臣は僕よりあの笹川を信じるって訳だ。お前まであの馬鹿と同じ反応かよ。餓鬼の頃から可愛がってやったっていうのに……あり得ないよな。この僕の言葉を信じないなんて。」

 僕の声にならない心の声が届いたのだろうか。
 委員長はまたあの獣の目をすると、ペロリとその唇を舐める。
 その仕草は委員長の苛立ちを端的に現しているようで、委員長の体自体から無言の圧力と言うか、得体のしれない恐怖のようなものが僕へと吹きつけてきた。
 怖い。
 そう思う。
 なんでこんなに目の前に居る、この男が怖いのだろうか。
 気がつけば僕は歯の根も合わないほどガチガチと震え、顔からも血の気が引いていく。
 そんな僕に委員長は顔立ちは優しいけど、感情の籠っていない笑みを浮かべ唇を釣り上げた。

「じゃあ、あの馬鹿が犯人だって言う証拠を教えてやろう。」
「っ……っ!!」
「……凶器には彼の指紋がべったりと付いていた。そして、ね。最大の証拠。なんだと思う? 一臣?」

 くすくす……と、小さく漏らす委員長のやけに楽しそうな笑い声が僕の心を更に恐怖で染め上げる。
 そして囁かれる言葉の不穏さは僕を脅えさせ、どす黒い不安を生みだし、震え上がらせた。
 委員長の言葉を聞いちゃいけない。
 そんな思いが強くなる。
 だけど僕の手は依然委員長に押さえつけられていて、聞きたくなくても強制的に言葉を耳に入れられてしまう。
 ふるふると頭を振るけど、そんなのは大した抑止力は持たない。
 そしてそんな僕をからかうかのように、嘲笑うかのように委員長はその言葉を口にした。

「――あいつが、あいつ自身が自分で自分の犯行を認めてるんだよ。」

 低い、けど、やけにはっきりと耳に残る声で囁かれた言葉に、僕の中にあった何かの糸がプツン、と切れたような気がする。
 恐怖もなにもかもが麻痺したようなそんな感覚に、僕は委員長の言葉にも反応が出来ない。
 目の前にある委員長の顔さえもつき通して、まるでただ空間を見ているような、そんな変な現実への喪失感と、虚脱感を覚える。
 虚ろな瞳を彷徨わせ、僕は思考する事も放棄した頭の中でただただ今委員長が言った言葉を反芻するだけだった。

「あれ? 驚かないんだ? ……まぁ、いいけどさ。その反応、ちょっとがっかりだよ。」

 僕の反応が乏しかったせいか、委員長が少しだけ怪訝な表情で僕の顔を覗き込む。
 だけど今の僕には目の前にある委員長の顔もまるでテレビを見ているような、そんな遠い存在で。
 段々と意識そのものまで喪失していきそうになる。
 だけど、また次に委員長が囁いた言葉が暗闇に包まれそうになっていた僕の意識をこっち側に引き戻した。

「あぁ、そうそう。ちなみに、笹川の奴。あの事件を起こしてすぐに、犯行を供述する遺書を残してマンション屋上から飛び降り自殺したよ。即死だってさ。本当、馬鹿な奴。……だから、あいつはもう二度と一臣の前には現れない。もうあいつの影に怯える事はないよ。あいつが死んで安心しただろ?」
「――――っつ、あ゛、ぁあ゛あーーーーーっ!!!!!!!!」
「っ?!」

 現実に引き戻された途端、僕の頭の中は真っ白になった。
 目の前に居る委員長の言葉なんて笹川が自殺した以降は全く聞いてなくて、ビクンっ、と大きく体が跳ね上がると腹の奥から絶叫が迸る。
 ガクンッガクンッ、と激しく体がベッドの上で跳ね上がり、僕は声ともいえない咆哮を上げながら自分で自分の喉を掻き毟っていく。ガリガリと爪が不器用に動き、喉に巻いてある包帯をバリバリに引き裂くとその下にある傷口をまた広げるようにする。
 がりっ、と音がして何かかさぶたのようなものをはがすと、じわり、と自分の指に生温かいものが触れた。
 それはすぐに僕の喉を濡らしていき、着ている病院が用意している検査着のような服の襟を濡らしていく。
 それでも僕は掻き毟るのを止めずに、今度は顔や頭も不自由な手を使ってガリガリと掻き毟る。
 大して力が入らないとは言っても、爪にガーゼや包帯が引っ掛かればそれはあっけなく解け、その下にある傷がむき出しになる。そこに爪を立てると呆気なく薄く膜が張るように出来ていたかさぶたは剥がれ、まだ深い傷が残っている場所からは恐らく血が溢れだしてきた。
 そして体にあるまだ塞ぎきっていない傷跡も、無理に体を動かしているせいか、その包帯やガーゼの下でかさぶたが引き攣れ、じわりと血が滲んでいく感触を感じる。
 顔も喉も、そして体もあっという間にぬるぬるとした鉄の匂いに覆われ、僕は、声が枯れてしまうのも構わず絶叫を上げ続け、ベッドの上でまるで強烈な電気を体中に送られたような歪な痙攣を起こす。

「あ゛あ゛ぁあああああああああああああ……っっ!! ひっ、ぎ、つつうううううううううう……!!!!」

 もう頭の中は正常な思考なんて何もなかった。
 訳のわからない感情と、全てを揺さぶる様な恐怖と、暗闇と、恐怖と、言葉にならない不安と、悲しみと、恐怖とが入り混じって、僕を奈落へと突き落としていく。
 そしていつしか、僕は僕自身の意識全てを手放して、逝った。