- 月光館学園二年F組教室。前方入り口ドア真正面。
僕はいつになく緊張してここに立っている。それはもう、すごく、ものすごく緊張している。
この二年F組は僕の在籍するクラスで、転校してきたばかりだけど多少クラスに溶け込めるぐらいには時間を過ごしていて、 誰かにいじめられていたりとか、するわけじゃあない。
むしろクラスの、いや学園の女の子たちとは、とてもとても仲良くさせてもらっている。よく休み時間にお喋りするし、放課後にはどこかへ一緒に遊びにいったりもしてる。
逆に男の子とは……って、話が逸れはじめた。これは今はどうでもいいや。
えっと、だからとにかく、普段の僕なら教室に入るのに緊張する理由なんてあるはずない。
だけど、今日は。
「あ、りょーじくんおはようー」
「おはよう、今日も授業がんばろうね」
「うん、休み時間また話そうね」
朝の少し寒くて、人の通りの忙しない廊下。クラスメイトや隣のクラスの女の子が何人も、僕の横や後ろを挨拶の言葉と共に通り過ぎていく。その度に僕は物思いを中断して、一人一人にきちんと挨拶を返す。
「おはよー綾時くん」
「おはよう。あ、髪切ったんだ。うん、似合ってる。ピンが良いアクセントになってるね」
「え。気が付いてくれたのー? さすがー」
もちろん、挨拶だけじゃなくちょっとした話題振りや、些細な髪型の変化に気付いてあげる事も忘れちゃいけない。男にはこういうマメさが大事。女の子が去る時にはお見送りの笑顔を忘れない。
一通りそれがすんだら、僕は中断した考え事を再開する。ホームルームまでまだ時間はあるけど、のんびり考えていては駄目なんだ。
とりあえず、まずは出された課題についての話題から入ろうかな。あ、それとも昨日のお菓子のお礼とか……。
「おはよう、も」
何度目かの後ろからの挨拶に、条件反射で僕は振り返る。綺麗なその声にもしやと思ったというのもある。
そして挨拶してくれた人が思ってた通りの人だと確認して、僕は慌てて最高の笑顔を浮かべてみせた。自分の中でも、とびっきりのやつ。
「おはようっ、天原くん!」
「……ちづき」
上擦った僕の声にたちまち目を丸くした人物こそ、僕の緊張の原因。とても清潔な雰囲気の男の子、天原奏くん。驚いた目をして、それでも云いかけだった僕の名前をちいさく続ける様子が僕をすごくくすぐったい気持ちにさせる、そんな人。
改めて天原くんの姿を眺めると、どうやら今教室に着いたばかりみたいだ。鞄を脇に抱えていて、教室に入るときいつも耳に掛けている丸い銀色のイヤホンを、今ゆっくりと外してる。
僕てっきり、天原くんはもう教室に居ると思ってた。何で確認しなかったんだろう。ドアの前で悩んでいた時間が、なんかバカみたい。
でもこうやって天原くんから声かけてもらえたから、そんなこともういいや。
うん、これは結果オーライというやつだ。
「どうか、したの? ドアの前ずっと、立ってたみたい、だけど」
「え? ……えっと」
あ。どうしよう、見られてたんだ。笑顔はなんとか維持したままで、どう説明しようか僕は考える。
つまりは、君になんて声を掛けるか悩んでたんだよ、なんだけど……。
「えっと。……あ、あはは。なんでもないよ! うん!」
だけど僕は結局、曖昧に笑ってしまう。だって、そんな事を云うのは少し恥ずかしい。
そう、こうやって君と話ができたんだから、もうなんでもないんだ。
「……ん」
ぼんやりと音楽プレイヤーを弄っていた天原くんが不意に顔を上げて、目を見つめられた。そしてすぐに彼の目が笑う時とはまた違う形に細められて、だらしなく口を開けたまま僕の意識が底の見えない青灰色に囚われてしまう。
あれ、なんか変だ。すごくまずい。顔が……どんどん熱く、なって──。
「……そか。それなら、いいや」
見つめられた時と同じぐらい、不意に彼の視線が床に落とされる。僕はそれに、ほっとしたような、少しだけ残念なような気持ちになる。なんだろう、これ。
とにかく早く顔の熱を冷まそうと手のひらで扇ぐ。
顔、赤くなってないかな。変な奴だって、思われなかったかな。
「望月、教室、はいろ?」
「あ、うん」
さすがに入り口で二人話し込んでいるとなると、教室へ入るのに結構邪魔になるだろう。実際、ちょっと離れたところで結構な数の生徒がそこかしこで、僕らの動向を伺っている。
天原くんもそう思ったのか、少し首を巡らせてその様子を見てから僕を促した。
……まあ本当は、敢えて僕らの様子を見るためだけにこんな冷えた廊下に立ち止まっているんだと思うんだけどね。なんだかひそひそと、男女問わず嬉しそうだったり悔しそうだったりと色んな顔で囁きあってるし。どんどんうちのクラスの人数以上に人増えていくし。
ドロドロした殺気ってやつを飛ばしてくる男子陣──ぼそぼそと「たらしのくせに天原に近寄るな穢れる」だの「奏さんまで毒牙にかける気か望月め」とか、なんか失礼な声が聞こえる──まで現れ出して、ちょっとだけ『いいでしょ羨ましいでしょ』なんて気持ちになってくる。
天原くんに変に思われるだろうから、絶対声には出さないけど。
「? 望月」
一向に動かない僕を、不思議そうな声で呼ぶ天原くん。僕は、そんな彼の行動になんだか嬉しくなって、首を傾けてにっこりと笑ってみせた。
「ん、なんでもないよ」
「、そう」
ねぇ、君は皆の視線の意味に気がついていないの? 皆あんなに天原くんの事、気になって仕方がないって感じで見つめているのに。
「うんっ。ほら、教室入ろうよっ」
「……ん」
こくんと頷いて、天原くんはまだあまり人の居ない教室へ一歩踏み込んだ。
……やっぱり気が付いていないんだろうか。
続いてもう一歩。ひょこっと、不自然に大きく揺れた細い身体。
あ。何かが、おかしいような。
「天原くん?」
「なに」
「いや、あの……」
昨日一緒に歩いた時と何かが違うような気がして、席へ歩いていく様子をじっくり眺めてみる。
──分かった。彼、左足を引き摺って歩いてるんだ。
「ねぇ足、どうかしたの?」
「ん……ああ部活の、朝練で。ちょっと、転んだ」
「あ、そうなんだ。……って天原くん!?」
危ない。あんまりにもなんでもない事のように云われたものだから、うっかり流しかけた。
それはつまり怪我してるって事じゃないか。しかもちゃんと歩けなくなっちゃうような酷いやつ。……放っておけない。
僕は早速鞄を教卓に放りだした。
「? どう、したの」
「どうしたじゃないよ。引き摺ってるじゃないか、足。ちゃんと保健室行かなきゃ、ほらっ、ねっ?」
「え、いや……、」
何か云いかけている彼につかつかと近付いて、その細い手首を取る。それから今日はちゃんと手を握って、保健室に連れていこうと歩き出して。
『あ、こういう時は、歩かせたら駄目だよね……』
彼は足を痛めているんだからと、考えを改める。危うく僕は天原くんに痛い思いをさせてしまうところだった。
僕はこの人を痛いとか苦しいっていう気持ちから、これからはどんな事をしてでも守ってあげるって、そう誓ったのに──。
「望月、聴いて。行かなくて平気、さっき皆に、」
──っと、ぼぅっとしている場合じゃ無い。急がないと授業が始まってしまうもの。天原くんの声も、だから少し焦ってる。
何か大事な事を考えたような気がしたけれど、とにかく今は後回しだ。
「天原くん、急ぐよ。ごめんね」
「連れていか、え、いや……え?」
教室と廊下に、わぁとかきゃあとか、いろんなトーンの声のざわめきが生まれた。望月呪う!とかいう雑音も聞こえる。
うん、原因は分かっている。僕が天原くんをひょい、と抱き上げたからだ。背中と膝の裏あたりを両腕で支えるやり方の、所謂『お姫さまだっこ』。正直ちょっと照れちゃうけど、今は非常事態なんだから、気にしてはいられない。
「……あ、の。望月」
「ん、足痛む? ごめんね、ちょっとの我慢だからね」
「え。そう、じゃなくて」
丸い目をのんびりと云いたくなる速度で瞬かせながら、天原くんは僕を見上げてこの抱き方おかしいとかぶつぶつ云っている。
それにしてもこの人ってずいぶんと軽い。両腕に全然重さってものを感じないのだ。
たくさんご飯食べてるか、ちょっと心配になってきた。お弁当自分で作ってるって聞いたけど中身、ちゃんとしたものですか?
「どわあぁっ!? お……、おいお前ら……。何を、爽やかな朝の教室でやらかしてくれちゃってんの……?」
突然ざわめきに混じって、それはもう全く爽やかとは云えない喚き声が聞こえたと思ったら、順平君が僕らを指差してぶるぶると震えながら歩いてきた。大きく口を開けて、信じられないものを見ています!って顔してる。
「ジュンペー、僕。何、してる、のかな……」
対して、すごく途方に暮れました、って感じの声の天原くん。彼は自分のお腹の上に鞄を乗せて、こころもち身体をちいさくしていた。なんかすごく、可愛いって思っちゃう。
「お前が分かんないものがオレに分かるかっての!! いや、そうじゃなくてだな、リョージ!?」
「え、順平君何、どうかしたの?」
「お前こそどうしたんですか。ま、じ、で、何してんだお前? オンナノコにそゆことすんのはお前だとまあアリっちゃーアリだけど、相手が奏ってのはないだろ!!」
すごく必死な顔で捲し立てられた。そんな大声出さなくてもちゃんと聞こえているのに。
「だって、天原くん足怪我してるみたいだから、保健室に連れていこうと」
「いやいや。だからって別にそーゆー抱っことかする必要ないだろ!?」
順平君の声に、外野の一部からのそうだそうだという野太い野次が重なる。あのね、君らは黙ってて。
「でも足引き摺ってるんだもの。歩かせるわけにはいかないよ」
「へ? ……奏ッチ今度は何やらかしたよ」
「ッチとか、嫌。……今日は別に、何も。ちょっと転んだ、だけ」
もぞもぞと居心地悪そうな具合に天原くんは身体を動かしながら答えている。
僕は出来るだけ彼を揺らさないようにゆっくりと抱き直してあげた。これで居心地、少しはましになっただろうか。
「そう、じゃない……んだけど」
……駄目だったみたい。意外とお姫さまだっこは難しいものだと、真剣に僕は首を捻った。
頭に被せた帽子を半ばずり落とし、そんな僕らを呆れた目で見ていた順平君が僕らにしっしっとまるで犬でも追い払うかのような仕草をする。
「あーもー、わーった。とっとと保健室でも屋上でも体育倉庫でもどこでも行きやがれ。お前らとりあえずコトの前には鍵かけておくんだぞー」
「コト? 鍵? ジュンペー、何のことだ……」
順平君に、男子生徒たちがノートやら上履きやらいろんなものを投げ付け出す。伊織てめぇふざけんな俺らのアイドルが手篭めにされちまうんだぞ応援するんじゃねぇ大体お前は天原さんに近寄りすぎだそのポジション替われ、とかなんとか。ちょっと面白い。
とにかく、僕は目の前の騒動に首を傾げている天原くんをもう一度抱き直し、今度こそ保健室へ向かうために歩きはじめた。
「時間無くなっちゃう。天原くん行こう」
「いや。だから、僕」
「おい、天原! 保健室にハンカチ忘れてったろ。結子が持ってきてくれたから後で礼、を……」
大騒ぎな廊下の人垣を、ちいさな青い布をひらひらさせながら割って現れたジャージ姿の男子──確か名前は宮本君──が、僕らの目の前でぽかんと口を開けて固まった。さっきの順平君みたいな顔してる。
「わかった。ありがと、ミヤ」
「あ……天原」
天原くんが布を、ハンカチを受け取ろうと手を伸ばしたところで、宮本君が再起動。
したと、思ったら。
「天原っ! お前ほどの奴がそんな軟派男とだなんて、俺は絶対許さないぞ!?」
「え。ミヤまで、何なの……」
なんて事を大声で詰め寄ってくるから、流石に僕も吃驚だ。伸ばした手をびくりと揺らして、天原くんの声にも戸惑いみたいのが混じる。怪我してるんだから、これ以上不安にさせないであげてほしい。
「軟派だなんて酷いなぁ。それより早く天原くんを保健室に連れていきたいんだけど……」
「なっ! 保健室ならさっき行ったばかりだろ!? まさか天原、お前もう望月に何かされたのか!! だから立てないのか!?」
……ざわめきが一層酷くなる。そこかしこから響く、すすり泣く声が怖い。順平君は順平君で、なんか隅で頭抱えているけど。
いや、そんな事より。
宮本君今なんて云っただろう。……さっき、行ったばかり?
「天原くん……、あの、」
「だから、さっきから云おうと。……部活の皆に、連れてかれて。湿布貼った、から」
鞄に顎を乗せて、天原くんが目を閉じてため息をはいている。もう宮本君に構うのはやめにしたらしい。
あれ、ちょっと待って。
ということは、もしかして。
「じゃ、あの、全然必要ない、行動だった? 僕……」
「……気持ちは、嬉しかった、けど」
望月はなんか行動が飛びやすいんだなとか腕の中で天原くんがぽそぽそ呟いて。
天原くんを見下ろす僕の目と、目を開けて僕を見上げた彼の視線が合わさって。
それで僕は改めて、自分が彼を『お姫さまだっこ』していることを再認識して。
「うわぁぁああ!?」
多分隣のクラスまで響くような大きさの、おかしな叫び声が響いた。
発生元は、僕の喉、だ。
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2006.12.14
2007.03.13加筆修正
- へたれっ子+不思議ちゃん=わけがわからない(……