- 「ごめんなさい!」
廊下の端から端まで響き渡るような大声に、辺りの生徒の視線が一斉に集められる。
僕もきっと、それを外側から見ている立場なら、声の主は誰だろうと視線を巡らせただろう。教室から出てでも絶対探しに行く。そうは見えないとよく云われるが、これでも結構好奇心が強いのだ。
だけど、残念ながら、とでも云うべきなのか。僕はどう考えても当事者に位置する人間で、好奇心に満ち満ちた注目を浴びなければならない側だった。
「あの。本当に……」
昼休みが始まったばかりの騒がしい廊下。こんな場所で僕は突然後ろから右腕を掴まれて、そして大声で謝られている。
周りの視線が集まるのは至極当然、というやつだ。こんな状況、注目されないわけがない。ただでさえこの学校、こういう騒ぎとかが大好きな人でいっぱいだっていうのに。
「本当に、ごめんなさいっ!!」
女子の団体が教室の出入り口からこちらを覗き見ているのが視界の端に写り込んで、僕は居たたまれない気持ちで胸がいっぱいになる。よく聞き取れはしないけれど、僕や相手の顔を見て何やら楽しげに囁き合っている。この状況は彼女たちにとってそんなに面白い事なのか。
とにかく早急に事態を収束させないと、後でどんな噂話となって生徒の間を飛び交うか、分かったものじゃない。相手が悪すぎる。
このままでは、学園掲示板で変なタイトルをつけられて面白可笑しく語られたりする可能性大だ。あげくにジュンペーの『伊織順平アワー』ネタに加わるという流れになるかもしれない。……考えただけで頭痛い。
「望月。急に、何」
腕を掴まれたまま大声の主、そこに居るというだけで周囲の注目を浴びる、望月綾時へ向き直る。彼の手は、振払おうと思えば簡単にそうできる力加減で握ってくるものだったけど、僕はそこまで荒い態度に出ようとは思わなかった。
それは、シャツとブレザーの隔たりがあっても尚肌に伝わってくる、その手のぬくもりの所為なのか。
そういえば、昨日も似たような事があったなと、望月の少し青ざめた顔を見て思った。
「あっ、あのほら、朝の事だよ。僕が君に、その……」
「……ああ」
さっきまでの大声はどこへ仕舞い込んだのか。まるで秘密を囁くような声で望月が瞼を伏せる。
彼が何を必死に謝っていたのか、漸く思い至った僕は、納得がいったという意味合いで一つ頷く。
「気にしてない。って、云ったけど」
「うん、あの、そうなんだけど。……でも、」
彼の空いている左手が、そろそろと持ち上がるのが僅かに見えて、視線を向けた。
線が細くて真っ白な手が肩から流れ落ちる黄色のマフラーを握り込んで、その下の白いシャツにも皺を刻む。
「迷惑かけちゃったかなって……」
「……、」
迷惑。
誰にとっての迷惑? 僕、だろうか。
……ピンとこない。噛み締めるように反芻して、それでもやっぱり、どこか遠い言葉だった。
クラスメイトの前で抱き上げられた事。今こうして多数の好奇の視線に晒されるはめになっている事。
どっちも確かに、相手によれば迷惑なのかもしれない。これがジュンペーだったら確実に足が出る。文句など云わせない。
でも望月には……どうしたいとも、思わない。気にしていないのだ。僕は、本当に。
「だから、ちゃんと謝ろうと思って。あの後僕、すごく取り乱しちゃったし……」
「ん、凄かった」
「……ごめんなさい」
何故そこでまた謝るんだと見てみれば、いよいよ情けない具合に眉を歪める望月。
どちらかといえば、あれだけの大声がよく出せるものだと感心して云ったのだけど、どうも逆の意味に取られてしまったみたいだ。彼の目の底に映る色合いが、僕に『動揺』とか『怯え』の気持ちを伝えてくる。……そんなに冷たく聴こえてしまっただろうか。難しい。
「別に、怒ってない」
「ほ、本当かい?」
「嘘だと思うのか」
「ちがくてっ!! あ、あの……」
望月に握られた腕、少し痛んだ。多分無意識に締め付けてきてるんだろう。
力任せに僕を繋ぎとめるそのてのひらは、なんだか何処にも行かないでと縋りつく子供みたいだと思った。
そう。ちいさな、あの子みたいな。
「僕の事、嫌いに、なってない……?」
きゃあ、とかいう女の子たちの小さな悲鳴が聞こえる。あと、ぼそぼそとした沢山の呟き。これは男子の声だ。何だろう。
周りを見回したい気持ちになるけれど、それよりも今は望月の言葉に答えてやるのが先だなと、改めて彼を見据えた。
こういう質問をされていながら、他に気を回したりなんかしたらきっと泣かれる。そんな事、同じ年の男に思うのは変なんだけど、望月はそういうものだ、という変な確信が僕にはある。本当に変だ。
ああでも、当たった。望月の右の目尻には、既に光る雫が生まれている。
僕は、息をはいて少し笑う。あまり笑顔は得意じゃないけど、少しでも望月を安心させる為だ。頑張る。
「なってないよ」
「本当!?」
「なってない。嫌い、じゃない」
怯えの色が消えてゆく。望月の揺れる瞳の底いっぱいに、今度は嬉しいって気持ちが広がるのが見えた。
ちゃんと、伝わったようだ。
「よかったぁ……本当に僕、天原くんに嫌われたらどうしようって。授業中もその事で頭が一杯だったんだ」
彼はどうも人から嫌われる事をとても悲しむタイプの人間らしいから、不安で仕方がなかったのだろう。それにしたって大げさだ。僕なんかに嫌われたところで、大した問題でもないだろうに。まあそこまで云われると、不思議と悪い気はしないけど。
君に嫌われるかと思った。嫌われたらどうしよう。──どうか、僕を嫌わないで。
目線にすらそんな言葉を滲ませて、彼はいつも僕に手を伸ばしてくる。
「天原くん」
「ん?」
目前に僕をじっと見つめる望月の顔。近い。
廊下のざわめきがより一層酷くなった。一つ一つの言葉は聞こえない。耳に届いてこない。
「あの、これからお昼ご飯、なんだよね?」
いやに真摯な声色で、望月の目線が瞬間下を見る。今も掴んだままの僕の右腕の先、青い弁当袋を確認したんだろう。
「そう」
別に隠す事でもないし、隠れていないしで普通に答える。
「ご一緒、してもいいですか?」
「一緒?」
うん、一緒。と望月が頷く。そしてぎゅうっと唇を結んで、僕の答えを待つ構えだ。何でそんな真剣。
そこで空気が変わった。一瞬で、あれだけうるさかった音が消える。
え、と喉から声がもれて、僕は今度こそ廊下を見回した。
辺りの生徒の数は減っていない。むしろ増えているぐらいだ。なのに何の音も聞こえない。皆何も云わずに、望月みたいな目でただ僕を見ている。そう、僕だ。間違いない。
何これ、どういう状況なんだ。正直ちょっと、怖いよ。
「……望月」
強張ってしまった声で呼んで、彼に顔を向け直す。
「はい」
唾を飲み込むごくりという音は、誰の喉から響いたのだろう。
「購買急ぎで」
望月の目が丸くなった。驚かれている。
「はい?」
「早く」
「え……えっ?」
何故か目を白黒させる望月。どこかから囁き声で「パン貢いだら同行許可するって事かな」とか聞こえてきた。
ああうん……言葉、少なすぎたかもしれない。僕はこういうのがどうも得意ではないと、息を一つついて云い直す。
「自分の分、まだ、買ってないんだろ」
「え……、あ、うん、まだだった。よく分かったね?」
目の色合いが別の驚きに変わる。純粋に『君凄いね』とか云うような具合の。
「何も持ってない。それに、いつも昼に買って」
「み、見てたの?」
「るって、ジュンペーが」
「なんだー……」
そこでがっくりと落ち込まれる理由が分からないが、今度こそ意図は伝わった。
「でも、それはご一緒してもいいって事なんだよね?」
顔を上げた望月は、今日久しぶりの笑顔。
「ん」
周りの生徒は納得がいった……という顔つきじゃない人も多いけど、とりあえず僕がパシリ目当てじゃない事が分かってもらえれば、それでいい。自分の評判とか気にした事はないけど、悪くなりそうなのを放置しておくのも、少し居心地が悪い。
「じゃあ、急いで行ってくる。屋上で待っててね」
『待っててね』の部分で朗らかに笑って首を傾げ、ぱっ、とでも音が付きそうな具合で望月は僕から手を離す。
掴まれていた部分が、望月の手が離される瞬間、少しだけ痛みを訴えた。
「転ばないように」
「転ばないよっ。僕そんな鈍臭くないもの! じゃ、また後でっ」
ちょっと拗ねたような声で、だけど笑顔のまま望月が綺麗にくるりと背を向け、生徒の間を早足で抜けていく。
別に彼を鈍臭い奴だと思って云った言葉ではないが、それで少しでも気をつけようと意識してくれば良いとは思うので、特に訂正はしない。
僕は、一人で歩く望月を見ていると、どうも胸の奥がむずむずする感じがする。
これは、不安だろうか。それとも……。
「俺らの聖域が穢される……」
「アイギスちゃんを俺は信じる。本当にやつはダメなんだ」
「どーしよー。強力ライバル出現!?」
「カリスマ様私も狙ってたのにー」
「でもこの組み合わせ破壊力大きいっ。ヤバい萌える!」
何だろう。望月が行ったというのに、廊下はまだまだ騒がしい。
今夜から僕は本気で学園掲示板を警戒しなくてはならないのか。あとジュンペー。
「はぁ……」
これ以上ここに留まるのは心に良くなさそうだ。突き刺さるような視線の中では、落ち着いて考え事も出来ない。
いざとなったら誰かに相談しよう。
何人か知り合いの顔を思い浮かべながら、僕は追いすがる視線を振り切って屋上への階段を駆け上がった。
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2007.06.04