授業が終わって先生が教室を後にすると、僕の席にはすぐに女の子たちが集まってくる。僕がこの月光館学園に転校してきた日から、よく話しかけてくれるクラスメイトの子たちだ。
 そんなには長くない休み時間だけどちょっとしたお喋りをするには十分で、僕はその時間がとても好き。だって彼女たちの好きな噂話には、僕の知らない日常の話題がたくさん散りばめられていて、そしてどこか秘密めいていて、聞いていてなんだかわくわくしてくるから。

「そうそう、このあいだ駅前に出来たカフェ。昨日行ってきたけど、よかったよぉー」
「あ、知ってる知ってる。あそこのケーキ美味しいよね〜♪」

 今はどうやら、最近近くにできたお店についてのお話らしい。僕の机の丁度右隣に立った、ゆるく波うつ髪の毛の女の子が、胸の前で両手を合わせてにこやかに頷いていた。

「やだ美春。あんたこないだ甘味断ちするとかいってたじゃん。もうやめたの?」
「え……あははっ。一日ぐらいならいっかなーって……ははー」
「油断してると……くるよー?」

 僕の席の正面に立った子が、自分のお腹のあたりをさすりながら面白そうに笑う。途端に右隣の女の子が僕をちらっと見て、赤い顔になった。

「やだ、綾時君の前でそゆこと云わないでよ。今日からはお菓子とか、絶対食べないって決めたし……」

 しょんぼりと肩を落としたその子を見ていると、女の子は大変だなぁと改めて思う。
 彼女たちが楽しげに話す話題の中には、ところどころに自分達を磨くための涙ぐましい努力、というものを感じることがある。順平君に話したら大袈裟だなって笑われたけど、でも自分の為にとはいえ大好きなものを我慢しなくちゃいけないなんて、とても辛いと思うんだ。
 僕だったら、大好きなものと離ればなれにならなきゃいけないなんて、絶対に泣いてしまう。想像するだけでへこんだ気持ちになってくる。

「まー、気持ちはわかるけどねぇ。うちのクラス、休み時間の度にあれ見るわけだし……」

 ほら、と正面の子が顎でどこかを示した。周りの女の子がそちらへ視線を向けたのを見て、僕も首を巡らせる。
 視界に入ってくる青い色。それは、席に座る一人の男の子の姿。

 この学園で、一番僕の目を惹く存在の──。

「天原君、ここんとこいっつも休み時間何か食べてるじゃん? 見てるとこっちもお菓子食べたくなっちゃうよねー」

 教室の中央、前から二番目の席の、天原奏くん。
 表情を感じさせないとても綺麗な顔をしていて、どこか近寄りがたい雰囲気の、でもいつも沢山の人に囲まれている青い印象の不思議な人。
 ──初めて見たときから、気になる人。どうして気になるのかはわからないけれど、とにかく僕の視線は気が付けば彼に向いていた。

 天原くんは丁度お菓子の袋を丁寧に開けて、中の棒状のお菓子を口に運んでいるところだった。白くて、柔らかそうに見える指先が、小さくお菓子の端を摘んでいる。……なんか可愛いな、あの仕草。

「ここ最近、毎日休み時間毎にお菓子パクつくのにあの細さ。その秘訣はいったいなんなのー?」
「やっぱ殺人的スケジュールのおかげ? つーかあの掛け持ちっぷりはありえないでショ」
「肌なんかすごく綺麗だよねー。やっぱお手入れとかしてたりするのかな……」

 天原くんの右手の、空いた薬指と小指で器用に机の上のノートを捲る様子をぼんやりと眺めているうちに、周りの女の子たちの話題は彼の事一色になっていた。
 彼は、よくこうして女の子たちの話題に上る。この学園の女の子のほぼ全員彼の事がお気に入りみたいで、僕と会話をしている時にも、天原くんの名前が彼女たちの口から出てくる事は多い。不思議な事に彼女たちが嬉しそうに彼の事を話すのが、僕はなんだか楽しみというか、嬉しかったりする。
 そんなわけで、すごく頭が良くて毎回テストで学年トップを取っている事、部活を二つも掛け持ちして更に生徒会に入っている事。ついでにちょっと前まで留学生と一緒に何かの同好会活動までしていた事とか、噂話の中の彼の事なら、今じゃ本人よりも詳しいと云える自信がある。

 でも。実際の彼の事を、僕は全く知らない。
 例えば好きな食べ物は何か、どういう趣味があるのか、とか。もう転校して三日も経つけど、直接話した事もないから、全然何も知らなくて──。

『……ん』

 唐突に、胸の、多分一番奥に熱が広がる。ちりちりと身が焼け焦げていくような、嫌な痛み。
 驚いて僕は、シャツの上から胸をそっと押さえた。彼にとても酷い事をしてしまったっていう気持ちが、まるで穴でも開いているかのようにそこからどんどんと溢れてくる。

 ──ああこれ、知ってる。こういう気持ち、『罪悪感』っていうんだよね。

『でも、どうして……』

 だけど何故そんな事を思うのか、僕にはまるで心当たりがない。あるはずがない。
 だって僕は、この学校に来て初めて、天原くんを知ったんだ。今まで一度も会話した事も、ましてや近付いた事すら無いのに、悪い事も何も、しようがないじゃないか。
 なのにどうしてこんな。

「りょーじ君。ねぇ、……聞いてた?」
「えっ、あ……。ごめんね、何かな?」

 名前を呼ばれて我に返る。既に本鈴が鳴り始めていて、僕の周りに集まっていた子たちはもう殆ど自分の席に戻っていた。最後まで残っていた女の子が、僕の様子におかしそうに笑う。
 よかった、話をちゃんと聞いてなかった僕を、怒ってはいないみたいだ。

「あのね、さっき話した店。よかったら今日帰りにりょーじ君も行かない?って」
「ああ、午後のお茶のお誘い? 素敵だね」

 いつもの調子で笑いかけると女の子の頬がほんのり赤くなる。照れてるんだ、可愛いなぁ。
 ……でも僕は、さっきから続く胸の痛みが気になって、今日は楽しくお茶会出来そうにないんだ。

「でもごめん。今日の放課後はご用事があるんだ」

 嘘をつくのはいけない事だと思うけど、表情を笑顔の形に整えることの方が今の僕には辛かった。こうしている間にも胸からわいてくる感情が、僕の体を全て焼け焦がしてしまいそうな気がして。

「そっかー。じゃあまた今度ね」

 彼女は残念そうだけど笑ってくれた。ありがとう、と胸に手を当て誘ってくれた事への感謝の言葉を伝えて、彼女が席に戻るのを見送る。
 女の子が席につくのと次の授業の先生が教室に入るのはほぼ同時だったから、僕は慌てて正面へ視線を向けた。

『あ……』

 その途中で、天原くんがお菓子を摘んでいた人指し指をぺろりと舐めるのが見えて。痛みの伴わない、だけど胸のそれとは比べ物にならないくらい熱い熱に、顔一面が浸食される。

 だけど僕は、その事に気が付かない程熱心に、その光景にただ魅入られていた。





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2006.10.29
2007.03.10加筆修正