- どこか遠くで、女の子達の笑い声が響いた。はっきりと聴こえないけれど、楽しそうなお喋りのやり取りに心が吸い寄せられる。だけどそれでも、机に突っ伏した僕の顔を上げる為の燃料には足りないみたい。
それどころか僕は、何故かここから離れたくないと、強く思っている。
カーテンのかかっていない窓から差し込む夕日の強い赤が、目にすごく痛かった。
「……はぁ…」
誰も居ない放課後の教室で、眠るわけでもなく席に突っ伏している様は、とても変かもしれない。それが自分のものじゃない席ならなおさらだ。
赤い光から顔を背け、右手で机の表面を撫で回す。つるつるとした白い机は、僕の体温が移ったのか少し温かった。
教卓前の列、前から二番目の──天原くんの席。それが、僕の今座っている場所の名前。
『なにやってんのかな、僕』
放課後になりクラスの皆はそれぞれに教室を後にして、気付けば僕はひとりぼっちだった。何をするわけでもなく、ぼんやりとこの席を眺めていて、気が付いたら座っていたというわけだ。
この行動の理由は、自分でもさっぱり見当が付かなかった。
『やっぱりさっきのお誘い、乗るべきだったかなぁ……。ちょっとは気が紛れたかもしれない』
目を閉じて思い返す。あの休み時間に感じた胸の痛みは、今ではすっかり消えていた。
いや、別の出来事が痛み止めになったおかげで忘れられた、というのが正解かもしれない。
『綺麗……って思っちゃったんだよね』
のろのろと身体を起こして頬杖をつく。閉じた瞼の裏側に流れはじめる映像。それはあの休み時間の終わりに見た、天原くんのちいさな仕草。
薄い唇から舌が覗いて、白くほっそりとした指をなぞるなめらかな動作が、古びた映画のコマ送りのように何度も、何度も繰り返されて。
『もっと見てたかった、かも』
だけど。彼の隣に座るアイギスさんに、見咎められてしまったのだ。
僕が天原くんに視線を向けている事に気が付いた途端、彼女の大きく澄んだ蒼の綺麗な目が拒絶の色を帯びていく様に、居たたまれなくなって顔を背けた。
いつだってそう。僕が天原くんへのなにかしらの行動を取ろうとするたび、その隣にぴたりと寄り添う彼女が必ずと云っていい程それを阻むんだ。
どうして、と思う。アイギスさんが僕は『ダメ』という理由。
転校した初日から彼女から向けられる、容赦ない……拒否。彼女に出会ったはあの日が初めてのはず、なのに。
天原くんもアイギスさんの言葉に従うように、僕には決して近付く事がなかった。多分、視線すら向けてもらっていない。……転校初日の、朝の挨拶の時交わった視線が、最初で最後。
なんでも、僕が『ダメ』なのはアイギスさんではなく、天原くんに対してのものらしい。順平君から聞いた。
どうしてなんだろう。天原くんにとって、僕は『ダメ』。そんな筈無いとも、それで間違っていないとも思ってしまうのは。
胸が、またじくりと痛む。
『僕はただ、仲良くしたいって、それだけなのに』
──ああ、そうだ。
天原くん。一目見た時から、僕は彼に近付いてみたいと思っていた。
その姿を気が付けば目で追い、囁かれる噂話には黙って耳を傾けてしまうぐらい、それはとても強い想い。
彼と仲の良い人たち。岳羽さんとアイギスさん、そして順平君。
彼等は天原くんと同じ寮らしいけど、そんなのでは説明のつかない、友達とかそういう枠を飛び越えた強い何かを感じた。……羨ましいと思った。
『僕はその輪に、入れ、ない……?』
仲良くしたい。側に居たい。……あの指に、触れたい。
日々膨れていくこの気持ちは、だけどどうしても叶う気がしない。叶ってはいけない気も、する。
『あれ、僕、珍しく弱気……』
今まで、人と接する事にこんなに後ろ向きになった事なんて、きっとない。頭を抱えたい気持ちになって、長い長いため息をはいた。
「望月」
体の中の空気を全部吐き出すようなため息に、誰かの静かな声が重なる。脳裏に広がる、深い蒼。
……、この声、は。
目を開く。恐る恐るという表現が合いそうだなとか、我ながら呑気に考えながら。
「天原、くん」
全然気が付かなかった。さっきまで閉まっていたはずの教室前側の扉が開けられていて、何度も僕の頭の中の映像に出てきた天原くん本人が、そこに佇んでいた。
感情の色の全く見えない、光を飲み込んでしまいそうな青みがかった灰色の瞳が。僕を、見て──。
カサリ。
「あっ、ご、ごめんね! 僕!」
廊下から吹いてきた風の所為なんだろうか、黒板横にピンで留められていたプリントが微かな音をたてる。その音が引き金になって、はたと思い出した。
僕が今、どこに座ってるのか、をだ。
「あああ、あの。えと、別に何かしてたとかそんなんじゃなくて、なんかその、」
我ながらすごい挙動不審。でも他に何と云えばいいんだろう。君の指の事を考えていたらいつの間にかここに座っていました、とか? うっわ、確実に退かれる。
「望月」
「はい!!」
教室にすっとんきょうに響いた僕の声。間抜けすぎる。授業中に突然名前を呼ばれたって、こんな声上げたりしない。
慌てたらいいのか謝ったらいいのか、すっかり分からなくなっている僕へ、静かに彼が近付いてきて身体が固まる。
「ごめん」
天原くんが僕の脇に立ち一言。突然の謝罪に意味を図りかねている間に、そもそも僕の返事なんて待っていなかったんだろう、天原くんは腰を曲げて机の棚に手を差し入れた。
目の前に、青の細い糸が広がる。さらりという音がしそうな程滑らかに流れる髪の毛。その向こうに見える天原くんの綺麗な顔。触れてしまいそうな程近いそれに、思わず椅子ごと身体を引くと、がたがたと椅子の足が床を擦る音がことのほか大きく響いた。
「あ、あのっ……天原くんっ」
慌てふためく僕に構わず、ややあって彼はゆっくり姿勢を元に戻す。いよいよどうしていいのか分からずに彼の顔を見上げると、細い髪の毛の合間から、青灰色の目が僕を伺っていた。
「忘れたから」
「へ?」
机の棚へ差し入れられていたその手には、教室に入った時には持っていなかったと思う、現国の教科書。
「取りに、戻ってきたの?」
「……、うん」
すっと目を逸らされた。表情こそ変化が見えないけど、もしかして。
『照れて……る?』
彼って案外照れ屋なのかもしれないと思って、僕の心の中に暖かいものがぽっと灯った。
「……望月は、何してたの」
先程より気持ち早い口調。やっぱり照れてるんだ……。いや、今はそんな一面を見て嬉しいなーとか和んでいる場合では。
「あ、えと。……僕もよく分からないんだけど」
「そか」
もっと上手い言い訳の一つでも云いたいところだけど、どうにも説明がつかない。
だけどあっさり彼は納得してしまったようだ。左目に掛かる前髪を払ってから一言呟いて、手にした教科書を鞄に仕舞いはじめた。
……僕が云える立場ではないんだけど、正直ちょっと拍子抜けする。
「え……。それだけでいいの?」
「何が」
鞄に向けていた彼の視線が再び僕へ向けられる。顔を伏せているから、自然と上目遣い。
「いや、だって僕の行動、なんか変だし……」
自分でいうのも悲しいけど、これが普通とは思われたく無いし。
「思春期には、よくあること」
「……そういうもの?」
「多分。ジュンぺーとか、典型的」
実際そういうものなのか甚だ疑問ではあるけど、彼が云うと説得力があるように思えてくる不思議。
強張っていた体が解けてきて、背もたれにぐったりと寄りかかる。
「よかったぁ。僕てっきり天原くんに嫌われるかと」
「どうして」
「だって、勝手に君の席に座ってたし……」
なんだそんなこと、と滑らかに唇が紡ぐ。鞄の金具の音がちいさく鳴って、天原くんが顔を上げた。
「別に。勝手に座ったからって、何が起こるわけでも、ないし」
「そうだよねー……」
「気にしなくていい」
僕の目をまっすぐに捉えて、すっと細められる瞳。
ほんの僅か、遠めに見たらきっと分からなかっただろうその変化を、僕は──。
『……笑った』
そう、本能的に感じとった。
「じゃあ」
「え、あっ?」
視線が合わさっていたのはほんの少し、唐突に彼が身体を翻す。そのまま入り口へまっすぐと。
──置いていかれる。そんな言葉が僕の中の暖かい気持ちを、あっという間に吹き飛ばしていく。
「ま、って!」
気が付いたら身体が動いていて。縫い付けられたように離れがたかった彼の席から飛び出して。もつれそうになる舌を必死に鼓舞して。
「あのっ」
「望月?」
「よかったら、一緒にっ、」
追い縋って手を伸ばし。掴んだ、白い指。
やっと手にしたその感触を手放したくない一心で、僕は吸い込んだ息を思いっきり音に変えてはき出す。
「一緒に、帰ろうっ!?」
振り向いた彼の目がまんまるくって。きっと僕今すごく情けない顔してるんだろうなって、他人事みたいに思った。
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2006.11.03
2007.03.10加筆修正
- 思春期、ってよい響き。