掴んだ指は、思っていたよりも冷たくて。そして──。





「あ、あの、」

 階段を一段上がったところで足が止まる。そのままゆうるりと僕を振り返り、天原くんが少し首を傾けた。
 あたりに人は居なくて廊下はとっても静かだったけど、僕の声、なんだかぼそぼそと聞き取り難い。でも彼の耳にはちゃんと届いてくれたみたいだ。

「なに」
「えと、なんで、上なのかな、って……」

 僕はまだ月光館の建物の構造をよく覚えていないからここまで何も云わずに着いてきたけれど、天原くんが上がったのは確か屋上に繋がる階段……だったと思う。僕達は一緒に帰る事になったはずなのに、これじゃ校門とはまるで正反対の場所へ出てしまう。そうじゃなかったとしても遠回りだ。
 情けなくぼそぼそとそれを伝える僕に、天原くんは傾けていた首を元に戻して、それから納得がいったという具合に頷いた。

「望月が」
「僕?」

 もう一度深く、今度は肯定の意味で頷かれて。

「手、離したくないみたい、だから」

 なんとなく、と呟いてから薄い唇が閉じた。

「ぁ。……ごめん」

 気持ちを言い当てられて、僕また情けない声を出した。

 そうなんだ。僕は教室で天原くんの指を掴んでからずっと、迷子の子供みたいに指をぎゅっと握って離すことができなかった。というよりも、かけらも離そうとする意志がなかった。彼の指がなんだか自然に手に馴染んで、これが普通だと思えてくるし安心する。
 そして天原くんもそんな僕に首を傾げこそすれ、手を振り払ったりはしなかった。もしそうなっていたら、僕はまた一人になる不安でどうしようもなくなるんだろう。繋いだままの彼の左手の指と僕の右手が少し、ううん、かなり嬉しい。

「外、出たら。多分女の子騒ぐし」
「うん」
「……一部男もうるさいと、思うけど」
「え、なんでだい?」

 訊いてみてから、ああそういえばこの人はたくさんの人に好意を寄せられている人なんだっけ、と思い出す。そんな彼と僕が手を繋いでいるところを万が一見られたりしたら、きっと僕は皆の嫉妬の炎でじりじりと燻されちゃったりするんだろう。それはとっても怖い話だ。
 でも、そんなことを想像しても僕は手を離せなくて。だから彼は気を遣ってくれて、人目につきにくい屋上へ誘ってくれてるんだと思った。とても優しい人なんだ。

 天原くんがゆっくり首を振るって、僕を見たままもう一段上がる。器用だなぁ。

「どうでもいい。……行こう」

 腕がほんの少し引かれて、早くおいでと促される。たったそれだけの動作に、僕の心臓が身体の中で跳ね回りだした。

「あ。う、うん」

 どうしよう、なんだか。

「……しあわせ、かも」

 階段に足をかけながらぼけっと天原くんを見上げて、口を滑り落ちていく僕の言葉。

「そう、」

 階段へ向き直る彼のその目が、また少し細められたのが一瞬見えて。

『ああ、やっぱり僕──』

 しあわせだと思う気持ちとは別の、暖かい何かがもぞりと心の中で目覚めるのを確かに感じていた。










 教室に居たときは目に痛かった夕日の赤も、もうずいぶんと柔らかい色合いに変わっていた。空のはじっこに綺麗な藍色──天原くんの髪の色みたいだとかちょっと思った──が伸びはじめていて、結構遅い時間なんだなぁ、なんて今になって思い出す。

 屋上へ出た僕達は、そのまま設置されているベンチに向かうことなく階段踊り場の外壁にもたれかかって座り込んでいた。
 僕がまだ彼の指を握ったままだから、僕らはお互いすぐ近くに座っている。上手い具合に冷たい風も当たらないし、扉の方角からは死角になっていてすぐ誰かに見つかって大騒ぎに、にはならなそうな場所だ。

 迷わず僕をここへ連れてきた天原くんに、ここにはよく来るの?って聞いてみたら、首から下げた音楽プレイヤーを弄りながら彼がちいさく頷いた。そこに繋がったイヤホンは、肩に下げられたままだ。

「ここだと、昼ご飯邪魔されない」
「お昼ご飯?」

 そういえば、天原くんは教室でお菓子を食べるところはよく見るけど、お昼ご飯を食べているところは見たことがなかった。僕はいつも購買部でパンとか買うけど、そっちでも彼の姿を見ることはなかった。
 そっか、ここにいつも居るんだ。でも、どうして屋上なんだろう。

「教室だと、トモとかうるさいから」
「どうして? 確か、友達、だよね? うるさいってどうして?」

 トモっていうのは多分、同じクラスの友近君のことだろう。前に天原くんが彼をそう呼んでいるのを聞いたことがある。
 僕は、この予期せず得られた彼の事を知る機会を逃すまいと身を乗り出して質問を被せる。ずっとこうして話してみたいと思ってたからすごく、嬉しい。
 フェンス越しの昏く移ろっていく空に向けられた天原くんの目は、そんな僕を疎ましく思っているわけではなさそうな穏やかな色をたたえていて。

「……うん、友達。でも、放課後のこととか、お弁当のこととか。聞いてくるからうるさい」
「お弁当?」
「うん。自分で作ってて。意外だとか、少し分けろとか。しつこい」

 うるさいなんて口で云ってはいるけど、彼の声にはどことなく楽しそうな響きが混じってる。……仲、いいんだな。
 こうやって落ち着いて聞いてみて分かったんだけど、彼は表情よりも主に声に感情が表れる人なんだ。だけどそれがほんのわずかな変化だから、見逃し……この場合は聞き逃しか……聞き逃しやすいだけで。

 平淡に聞こえる、でもそこに確かな感情を宿すこの声の響きは、どこか懐かしい感じがする。

「……、」
「え、何?」

 いつの間にか、僕はじっと彼の目を凝視していたみたいだ。不意に彼が僕を見上げて交わった視線に、何かを問いかけられたような気がして、思わず声が出る。

「……いや」

 瞬きをして天原くんの首がコトと傾けられて、そんなはずないな、と呟くのが見える。僕は彼のその子供みたいに幼く可愛らしい仕草だけにこころをやっていて、呟きの意味自体を全然気にしていなかった。

「……。望月は」
「うん?」
「今までずっと、海外?」
「うん、そうだよ。日本に来たのは物心ついて以来ってやつ、かな?」

 実際今までどんな国に居たかとか、実はちょっと曖昧にしか覚えていないんだけど僕はあまり気にしてない。ちいさい時の記憶なんて多分そんなもの。色んなところを次々に巡って暮らしていたから、それぞれの場所に思い出らしい思い出がないだけ、なんだ。

「なん、だよ……な」

 彼にしては珍しく──と思えるほど会話したわけではないけど、自然とそう思った──歯切れの悪い言葉。プレイヤーを弄っていた指を、自分の唇をなぞるように動かす。

「ごめん、ただの勘違い」
「え、何を? 急に一人で納得されても……」

 突然謝られたって、僕としては何が何やら。
 でも天原くん的には話が終わってしまったようで、口元の手を下ろしてまた空へ視線を向けてしまう。──お願いだから、急に僕一人放り出さないでください。

「ねね。天原くん?」

 右手で掴んだ指を少し引くと、すぐに彼の視線は僕へと戻ってくる。それだけの事なのに、なんか、すごく嬉しい。

「僕が誰かに似てたとか」
「ん……」
「前の学校の、友達、とか。だから勘違い?」

 彼も転校続きだったって聞いているからそういうことなのかな。出来るだけ、さっきの彼の動きを真似て首を傾げてみる。

「いや……そうじゃ、なかったけど。……」

 驚いたというか、思いもよらなかった、というのかな。そんな声色。

「云われてみれば」

 灰色の視線が僕の左目のあたりを漂っている。……いや、多分その下。黒子を見てる、のかな。
 そろりと。彼の白い右手が持ち上がった。殆ど無意識なんだろう、それはとてもゆったりとした動き。

「似てる、かも、しれない」

 ゆっくりと戸惑いがちに伸びてくる指を、ぼんやりと僕は眺める。あと10センチ。……9センチ。もう少しで僕に、届く。

「誰に?」

 誰の面影を、彼は僕に見ているんだろう。飲み込まれそうな程静かな青灰色の瞳の底に灯る、光。
 それは失した誰かを偲んで揺らめく炎の色で。

 ……5センチ、4センチ。近付いてくる細い指。

「僕は……誰に似てるの?」

 違う、そうじゃないよ。だって僕は、ちゃんとここに──。

「奏さん、ここですか!!」

 ……多分今僕、座ったまま飛び上がったと思う。

 突然、階段のドアが開く大きな音がして──ドアが壊れるんじゃないかと思った──屋上に澄んだ女の子の大声が響き渡った。
 天原くんも驚いたように手を止めている。僕に触れるまで、その距離たったの2センチ。

「やっと見つけました」
「アイギス」

 カツカツと固い足音を引き連れて、天原くんの向こう、夕闇を背に現れた凛とした姿。僕を迷いなく射抜く、美しい蒼い目を持つ金色の少女。天原くんの保護者とか、絶対の盾とか、クラスメイトに密かに称される……アイギスさん。

 二人きりの時間が終わった事を、その視線に告げられる。だって、僕は『ダメ』だから……。

「順平さんから奏さんが教科書を取りに教室に戻ったとお聞きましたので、お迎えにきました。……どうして綾時さんと一緒なのですか」

 後半、じろりと僕に伸ばされた天原くんの右手を見てアイギスさんの声が一段低くなる。……怒ってる。
 僕は情けないけど、アイギスさんのその目が震え上がりそうなほど怖くて仕方がなくて、彼女にまともに向き合うことも出来ずにただただ天原くんの指を掴んでいた。まるでちいさな子供が縋りついているみたい。

「僕が、」

 ふと、暖かさを感じて彼の指を握る手を確かめる。
 天原くんの右手がいつの間にかそこに降りていて、ぽんぽんと、まるで僕を優しくあやすように手を叩いてくれていた。

 彼の表情は見えない。彼は僕とは反対側のアイギスさんを見上げているから。

「僕が此所へ、連れてきた」
「っ、奏さん。わたしは綾時さんはダメだと以前」
「話、してみたかったから」

 天原くんはゆっくり首を振るって、アイギスさんの言葉を遮った。あまり大きくはないけど固い、芯の通った強い声。
 彼の声を正面から受け止めたアイギスさんの表情が、困惑に歪む。

「あ、あの、」

 何を云ったらいいのか分からず、だけど勝手に口から言葉が漏れた。手を見下ろして伏せたままの僕の顔に、アイギスさんの視線が突き刺さってくるのを感じる。
 そんな筈無いと思うんだけど、でもなんだかこのままだと天原くんとアイギスさんが喧嘩を始めてしまいそうな気がして。そんなのは僕、絶対に嫌で。

「望月」
「っ、ごめん。あの、僕」
「望月が謝ることじゃ、ない。……迎えがきたから、今日は帰る」

 僕に向き直った天原くんが右手で、もう一度僕の手をあやす。そして掴まれたままの左手を軽く持ち上げて、目を細めて首を傾げた。そうだ、指、離さないと。

 ……そこで僕はやっと、彼の指をものすごく強く握っていたことを自覚する。
 なんてこと。これじゃきっと彼は痛かったはず……。

「ご、ごめんね……」
「平気だから」

 泣きたい気持ちになりながら、ゆるゆると握りしめた手をほどく。案の定掴んでいた天原くんの指二本、赤くなっていた。それでも彼は気にする様子もなく、そんなことよりと静かに首を振る。

「一緒に、帰れなくて、ごめん」
「ううん。気にしないで……」
「奏さんっ!」

 天原くんの背中に、アイギスさんが耐えきれないと云いたげな声をぶつけた。それにちいさく肩を竦めて、天原くんはブレザーのポケットに手を入れてから、僕の目の前に突き出す。

「望月。手、出して」
「え、……手?」

 天原くんに頷かれ、僕はよく分からないまま両手を皿のようにして差し出す。そこへ握りこぶしだった彼の手が翳されて、ぽとぽととちいさな透明のビニール袋に入った白やピンクの固まりが数個落ちてきた。
 ……これは、マシュマロ?

 意味が分からずにぽかんと口を開けて、手のひらの上のお菓子と天原くんの顔を交互に見る。

「お詫び。余り物で、悪いけど」

 立ち上がりながら、彼は口の動きだけで『次は一緒に帰ろう』と、笑った。
 ──はっきりと、唇に笑みを刻んで。

 顔が、身体が、燃え上がってしまいそうな程熱くなったような気がする。

「……心拍数、体温共に上昇を確認」

 アイギスさんが、僕の顔を睨みながらぼそりとよく分からない事を口にした。

「じゃあ望月、また明日」
「あ、ああ、うんっ」

 天原くんは表情をいつものものに戻して、いつの間に移動したのかアイギスさんの隣で僕を見つめていた。僕は慌てて立ち上がって──手の上にマシュマロを乗っけたままだから、ちょっと苦労したけど──そのまま階段への扉に消えていく彼を見送る。

 だけど。

「……」
「えと、アイギスさん? ……ま、まだ僕になにか……」

 早く帰ろうとあんなに訴えていたはずのアイギスさんが、何故か残って僕をじっと見つめたままだった。

 ……あ、違うかも。彼女が見てるのは、もしかすると。

「ずるい、です」
「え」

 僕の手のひらの、マシュマロに注がれる視線。

「奏さんは、人にお菓子を分けたりしないのに。貴方はダメなだけじゃなく、ずるいです」

 びしっと音が聞こえそうな程きっちりした動作で指をさされた。分けるっていうか、お詫びだって云っていたんだけど、これってずるいのだろうか。
 でもなんだか今のアイギスさんは、まるで大事なものを取られて拗ねてしまった女の子みたいな目をしていて、いつも以上に可愛かった。さっきまで怖いと思っていた人とは、なんだかまるで別人。

『あ、そっか──』

 その可愛い蒼い目を見ていて、僕は急に気が付いてしまった。この人はただ彼が、天原くんが一番の人なんだ、って。
 肩の力が、ゆっくりと抜けていく。

 なーんだ。それなら僕と──。

「……あの、よかったら」
「なんですか」

 おずおずと両手を、『わたしもそれが欲しい』と目で訴えかけるアイギスさんに差し出してみる。

「お一つ、いかが?」

 ぴしり、と音がしそうなぐらいアイギスさんの身体が強張ったのが分かった。蒼い目が、探るように僕を見る。

「……」
「……」

 あのね。沈黙が、なんだかすごく、痛い、です。

「……ひ、一つだけ頂くであります」

 一拍置いて、弾かれたようにせわしなく階段と僕の手とを見比べたアイギスさんが、ぐっと顎を引いて決意の表情で頷く。
 ……階段から、微かに誰か──絶対天原くんだ──の笑う気配。

「う、うんっ!」

 さっきの僕みたいにおずおずと手を伸ばし、ひょいと一つ大きな動作で袋を摘んでいく彼女が本当に、本当に可愛くて僕は笑った。

「あ、ありがとうございます」
「うん」
「これで貴方はずるいではなくなりました。でも、やっぱりダメです」
「うん」

 またアイギスさんにダメだって云われてしまったけど、もう気にならなかった。
 彼女が本当に天原くんを大切にしているって感じて、怖くないと分かったんだ。

 それは、僕も同じ気持ちだから。

 そうなんだ。そうだったんだよ。
 僕は、あの人の側に居て、一番大事にしてあげたいって。ただそれだけの為にここに来たんだよ──。

「あのね、アイギスさん」
「なんですか」
「僕も、天原くんが好きだよ」
「っ。ダメ、ですっ!」

 同じ気持ちだったというのがただ嬉しくって、僕はそれを笑顔でアイギスさんに伝える。だけど彼女はまた拗ねた女の子の目をして、足音を響かせて階段を降りていってしまった。
 ……伝え方、おかしかったのかな?

 下の方から彼女の天原くんを呼ぶ声が響いてきて、やがて遠くなっていく。

「……行っちゃった」

 屋上にぽつんと残された僕。
 空はもうすっかり暗くなっていて、風も少し強くなってきている。ここから見えるグラウンドにも人の気配は全然なくて。

 でも、寒くないし、全然寂しくない。

「なんか、すごかったな……」

 まだ一日の終わりではないけれど、もう既に今日はすごく濃密だったと思う。
 ずっと気になっていた人とお話出来た。手を……指を掴んだだけだから厳密に云うと違うけど、繋いだ。少しだけだけど噂じゃない彼の事を知った。今度一緒に帰ろうって云ってもらえた。お菓子を貰った。そのお菓子がきっかけになって苦手だった子を分かることができた。

 僕はただ教室で、天原くんの席でごろごろと転がっていただけなのに。唐突に、降ってきたたくさんのしあわせ。

 ふと、手に乗せたままだったマシュマロの袋を一つ摘む。残りはズボンのポケットに仕舞って、摘んだ一つの封を破って口に放り込んだ。舌の上に柔らかい優しい感触が乗っかって、広がる甘いお砂糖の味。

「美味しい、な」

 この手で掴んだ指は、思っていたよりも冷たくて、このマシュマロみたいに柔らかかったりしない、男の子の指。
 だけどとてもとても甘くて、優しい指だった。皆に愛される人の暖かな指。

 もっと触れていたいと思った。触れてほしいと思った。

「……また明日。また会える」

 口の中のマシュマロはとろけて消えてしまったけど、魔法みたいに優しい甘さはまだ残ってる。 
 明日は、今日よりたくさんお話しよう。この甘さが、あの人を大切と思う気持ちがあれば、もっと彼に近付いていける気がした。

 もう一つ、甘いお菓子を口に放り込んで、僕は蒼く沈んだ空を仰いだ。





 ×


2006.11.16
2007.03.10加筆修正

綾時とアイギスは奏を取り合って、拗ねたり泣いたり喜んだりしていればいいんです。
そんなクラスの鑑賞生物的三人組が理想形。