- さらさらと。どこからか砂が降り積もる。
朧げなそれを、僕は両手を差し出し受け止めてみた。
きらきらと。僕の手のひらの上に、あっという間にちいさな砂の山が出来上がる。
だけど指の隙間から、果敢なく粒はこぼれていく。光になって消えてしまう。
受け止める。こぼれ落ちる。止まらない。
──止められない。
さらさらときらめく、手のひらの砂。
僕は、どうしようもないくらい、それが──。
ひとつぶのなみだ
ひどく懐かしい夢を、見たと思う。
暗い場所から意識が浮き上がり、ゆるく開いた目で見るものは光に染まって真っ白で。
そこで初めて、ああ僕は夢を見ていたんだな、と気が付く、そんな淡い夢を。
横になったまま首を巡らせて、脇のサイドテーブルに置かれている目覚まし時計を確かめる。起きようと思っていた時間より少し早いけど、二度寝をするには物足りない。微かにまとわりつく眠気を抱いて、このまま時間まで寝転がるのもありだとは思ったけど、先に朝食の準備をしてしまおう。今日もまだやることは多いのだし、早めに行動を始めた方がいいに違いない。
自分の体温で暖まったブランケットを払いのけて、シーツから身体を起こす。
ぱた……
「……あ」
ちいさな音。思わず声がこぼれた。
起き上がった時、パジャマの太腿に大粒の雫が落ちていった。ぼんやりと水の染み込んだ布を眺めながら、固く冷えた指を持ち上げてそっと目元をおさえてみる。指先に触れる肌の、目尻から顎へと刻まれた、なみだの通り道。少しだけあたたかい湿り気が、雫は生まれてさほど時間の経っていないものだと教えてくれた。
ふ、と息をはく。ため息にもならない呼気。
夢の内容は覚えていない。だけど、こんな風に目覚めた朝、僕は必ず一粒のなみだをこぼす。
夢がかなしかったのか。こわかったのか。──うれしかったのか。
どれだけ朝を重ねてみても、その答えがなみだのように僕の中から落ちてくる時は、訪れなかった。
「奏、目が赤い」
「うん」
広いリビング、二人きりの朝の食卓。暖かい湯気を立ち上らせるマグカップをテーブルに置いて、目の前の人が鮮やかに笑った。形の良い唇に刻んだ、いっそ意地の悪いといえる微笑みは、普段以上に親子ほど離れている年齢を忘れさせる。
ぼんやりして少し焼き過ぎてしまった目玉焼きを口に運びながらそんなことを思った。
「で、またか?」
何がとは云わずに焦茶の瞳が僕を捉える。一応問うてみたけれど答えはわかっているぞ、と告げる目。
こんな目をしている時のこの人──伯父は、本当に母と似ていると感じた。あの人もこういう目をして、幼い僕の隠し事を一番に見破ってきた。よく母さんに内緒とか云いながら無駄な買い物をしていた父が、やっぱり易々と見抜かれて慌てていたなんて日常の一時を今でも覚えていたりする。
「ん。今日もなんでか、わからない」
「そっか。……お前のそれはとうとう治らなかったな」
治るものかもわからないけど、と伯父は再びコーヒーのマグカップに口をつけ表情を消す。心を砕いて、何かを見つめるときの顔。
「別に、問題ないよ」
「問題はなくてもすっきりしないだろ? 起きたら、理由も分からず泣いてるなんてさ」
「それはそう、だけど」
トーストの耳をホットミルクで流し込みながら僕は首を傾けた。伯父はこのおかしな出来事を、一緒に暮らしはじめた日の翌朝に早速目撃して以来、何かと気にかけてくれる。僕には昔の事故のことがあるから、言葉以上に心配してくれているのだ。
最初は夢を見て、眠りながら泣いたのだと思った。だけど目が覚めて開けた視界は乾いてクリアなもので、水の揺らぎなんてどこにもない。それでもベッドから身体を起こすと、瞼からなみだがぽとりとこぼれていく。
なんでもないように云ってみせたけど、自分でも確かに不思議な事だとは思っている。でも。
「もう、慣れちゃった」
ちいさな時から何度も、毎日とは云わないけど毎月とまで間隔の空かないこの現象は、既に僕の日常の一幕だ。今さらどうしたいとも思わないし、日常生活に支障がないのなら、どうでもいい。それに──。
「軽く云うなよ」
器用に片眉だけ釣り上げて、伯父は苦笑を漏らす。ぐいっとカップを呷って続ける。
「何か分からないけど、朝起きた時に突然ぽろっと涙するんだぞ。こっちはそれなりに心配になるだろ」
それなりとか、少しひっかかる言葉があったけどあまり追求はせずに、僕は椅子から立ち上がり空になった皿を片づけ始める。この人のこういう発言にも、僕は慣れちゃっているのだ。
「でもね」
僕は重ねた皿たちを曲げた左腕に載せながら、おかわりのコーヒーをカップに注ぐ伯父の手の動きを目で追う。大きくて骨張ってて、でも繊細そうな手。それが動作を終えてテーブルの影に消えたのを見て、僕は視線を少し上げた。静かに続きを待っている伯父の目線と、ぶつかる。
「つらくないから」
なみだを流す時って、確かもっと頭の中で何かががんがんと響いて、目の奥がじんと熱くなって、鼻だって詰まっちゃって。とにかく顔中ぐしゃぐしゃの酷いあり様になるものだったと思う。泣き声で喉もひどく涸れた気がする。
でも僕の目からこぼれるなみだは。
たった一粒だけ落ちて、胸がほっとしたような気分になって、それでおしまいなのだ。
「大丈夫。うん」
「……」
瞬きをして僕の顔を見ていた伯父が、しょうがないな、と云いたげに息をはいて笑った。
「ま、いいか。……お前準備終わったの? 明日だろ、行くの」
「うん、あとは着替えとか、それぐらい」
対面式のキッチンに向かい、流し台に食器を置いて答えた。スポンジを濡らして洗剤を手に取る。
明日から僕は幼い頃に住んでいた隣の県の街へ一人戻って、学校付属の寮で暮らすことになっている。今日はそのための準備をしなければならない。とはいっても荷物はほとんど宅配で送り終わっているから、あとはすぐに使う着替えや簡単な身の回りのものをバッグに詰め込むだけ。
「そか。しかしお前の作った飯が食えなくなるのは残念だよなー」
「……ちゃんと自炊、してね。買い食いばかりしないで」
へーい、と気の抜けた返事が返ってきた。この人は掃除も洗濯もきちっとこなすけど、なぜか料理だけ壊滅的に出来ないからきっと期待は出来ない。もうじき伯父も海外出張へ出るから、今までみたいにかわりにご飯を作ってあげるなんてことはできそうにもない。心底心配だ。
「ああ、そうだ」
空輸便で送れそうな保存のきく食品を考えながら洗い物をしていたら、いつの間にか伯父が隣にやってきていた。流し台の食器に加わる、空になったコーヒーのマグカップ。
「お前、ここの鍵持ったままにしておいて」
「え。叔母さんに貸すんじゃなかったの」
「さっき電話あって、もっと良いマンション偶然見つけたんだと。とりあえず帰ってきた時他探すのも面倒だし、ここはこのまま残しとく」
「そう」
「……あと、奏さ」
頭に手を置かれる。どうしたのかと、伯父の顔を見上げて。痛むように細められた目と視線が合って手が止まる。
「寮に入るとか。俺に変に遠慮してるみたいだけど、そういうのこれっきりにしろよ」
苦い声。責めるでもなく、ただただ胸の痛みを訴える声。本当の想いがどうかなんて、僕はこの人から読み取れた試しがないから分からないけど。
「うん……」
「今まで出来なかったけど。これからはあいつらの分まで、面倒いくらでも見てやるから」
伯父と僕の母は兄妹で、二人はよく似ていて仲も良かった。両親が結婚する際両方の家から出た反対の声を、この人が殆ど抑え込んでくれたという。他にも色々と、本当に僕たち家族のことを一番考えてくれた人で。
今目の前に居るこの人と、あの両親が亡くなった事故の後一人病院で目覚めた僕を、泣き腫らした瞼で迎えてくれた面影が、重なった。
「……ありがとう。でも」
「ん?」
「あの街に、戻ってみたくなった、だけだから」
だからそんな泣きそうな顔しないでと、上手くはないけどなんとか笑って、僕は途中だった洗い物を再開した。お湯が流しっ放しでもったいない。
「……それでも、心配するのが親ってものだよ」
いくらか痛みの薄れた声がぼそりと呟いたと思ったら、髪の毛をぐしゃぐしゃに混ぜるように頭の上の手のひらが動く。僕は、また食器を洗う手を止めて、その少し痛いぐらいの感触を、静かに受け入れてみた。
それから、残っていた荷物を纏めたり送られてきた資料で転居先の寮や学校への道の確認をしたり、あと伯父の荷物整理も手伝っていたりしたらあっという間に夜になっていて。夕食はいつの間にか伯父がとった出前ですませることになった。
……やっぱりこれからの伯父の食生活が果てしなく不安だ。
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2006.11.29
- 不器用に甘える奏さんが書きたかった気がする。
あれー。これって甘えるっていえるんだろうか(……