- お風呂あがりの濡れた髪をタオルで適当に拭きながら、ベッドに空っぽの机と椅子、そして床に置いたスポーツバッグしか物の無い部屋に戻る。こんながらんどうの部屋を見ても、なんだか明日この家を出るのだという実感がまだ湧いてこない。随分と色んな所を転々としてきたから、いい加減こういうことにも慣れてしまったんだろうか。
ぺたぺたと歩いて、なんとなくベッドではなく椅子をひいて腰掛けた。座った時につっと額から鼻筋を伝った雫を拭った拍子に、ふと机の引き出しが気になる。全部確認したはずだけど、なにか、心の中がむずむずする感じ。
とりあえず順番に開けてみるけど、やっぱり引き出しはどれも空っぽ。だけど、大丈夫そうだなと、開けた最後の引き出しに。
「ノート。……じゃ、なくて」
分厚いワインレッドに染まった革の表紙の、見覚えのある日記帳がぽつんと置かれていた。
思わず手に取って表紙と裏表紙を確かめる。意外とずっしりとした重さのこれは、生前の父が僕にくれたものだ。色が気に入って買ったけど自分は日記を付けないからとか云っていた。僕だって小学校に上がったばかりで、あの時は、日記なんてつけなかったけど。
よくよく考えてみれば宅配用の荷物を纏めている時に見つけて、僕自身の手でこの引き出しにしまったような覚えがある。なんでそんな事、忘れていたんだろう。
「……、」
座る場所をベッドに移して、ぱらぱらと日記のページを捲る。自分で年号や日付けを記入するタイプのこの日記帳は、初めのページから暫くは白紙が続く。
ノートを使い始める時の、昔の僕の癖。
「……"僕は"」
そして印刷された罫線に沿って綴られる、ちいさな頃の僕の文字。今はもう直ったけれど、この頃は筆圧がすごく高くて、シャーペンの芯をよく折って無駄にしていたっけ。記憶の通り、綴られる文章にはところどころ芯の折れた痕跡が見られた。自分でも少しおかしくなってしまう。
そんな拙い、僕の文字が織り成すのは。
『僕は、7歳の時に交通事故に遭いました。ずっと前に住んでいた巌戸台という街の、ムーンライトブリッジという大きな橋でした』
なんだかまるで、誰かに宛てた手紙のような。日記とはいえない、記録。
『車の中には僕のお父さんとお母さんも居ました。今はもうどこにも居ません』
……以前、小学校での宿題で"家族との思い出"というテーマの作文を書かなければならなくなった事がある。その時僕は遠縁の親戚に引き取られていて、その人たちのことを書けばいいと思った。思い出なんてろくに無かったけれど、それでも作文ぐらいならなんとかなると。
だけど書いている途中で、では両親との思い出はと。ふと考えた時に、心臓が冷えきったのを今でも覚えている。
薄らいでいた。優しかったあの人たちとの、思い出が。全部、なにもかも。
『あの日はお母さんのお友達の結婚式で、夜遅くまでお祝いの会を開いていました。僕は普段はもっと早い時間に寝なければいけなかったんだけど、皆で歌ったりご飯を食べたりするのが楽しくて、わがままを云って頑張って起きていました』
今にして思えば仕方のないことだと思う。思い出というものは少しずつ忘れていくものだし、ましてや僕は、両親と一緒に居られた頃本当にちいさな子供だったのだ。覚えている方が無理がある。
でもあの時の僕にはそれがとてもいけない事のように思えた。あんなに大好きで、愛してくれた二人を忘れようとしている自分が、許せなかった。
『真面目なお母さんはちょっと困った顔をしていたけど、明るいお父さんが『いいよいいよ。奏のわがままは珍しいしな』って笑ってました。お母さんも最後には『朝ぐずっても容赦しないからね』って笑いました』
だから僕は少しでも二人の記憶を繋ぎ止めたくて、父から貰った白紙の日記帳にそれらを書き綴った。事故の日の事から始まって、それから、覚えている限りの思い出をたくさん。たくさん。
思い出を書き終えたら、今度は新しく降り積もっていく日々の出来事を。
だけど成長するにつれ、いつしかそんな事をしても意味はないのだと、吐息と共に胸の一番奥へと仕舞って、日記の事自体忘れてしまったけれど。
『それから後の事は、よく覚えていません──』
これは確かにちいさな僕が書いた、僕への手紙。例えいつか僕が、両親のことを綺麗に忘れてしまったとしても、これを見てまた思い出せるようにと。
──さらさらと。何かが流れるような音がする。
閉じた瞼の隙間から、柔らかい光が差し込む。包み込んでいる空気は、暖かくもなく冷えてもいない。
……僕はいつの間に眠ってしまったんだろう。目を覚ました時特有のぼんやりとした感覚こそなかったけれど、確かに眠っていたような気がする。光を感じるという事はもう朝なんだろうか。ああ、髪、乾かさずに寝てしまったから、ひどく跳ねていそう。
「……っ」
そんな事を考えていて、ふと。
『……。誰か、居る』
多分僕は仰向けに寝ているのだと思うけど、その僕の腹のあたりに何かが覆いかぶさっているような感触を感じる。特に重さを感じはしないのだけど、確かに誰かの──もしくは何かの──息遣いを感じた。
そろりと、瞼を開いてみる。
白。
白。
白。
この目に映り込むのは、ひたすら白く澱みのない、広い空。
『……砂?』
そして何処とも知れない場所から降り注ぐ、さらさらと流れる白い砂。その流れを追って首を横に巡らせると、空との境界線を見出すことの出来ない程真っ白な地面へ降り積もり、ちいさな小山を形作っていた。一向に大きさが変化しないのは下の方から朧になって消えていってしまうからなんだろうか。
空も大地も、そして降り注ぐ砂も。ただ全てが白かった。
「ここ、どこ……」
どう記憶を辿ってみても、こんな場所で眠った覚えはない。ぽつりと呟いた声が自分でも困惑するほど心細く、静かに空気に溶ける。
「ここは、君だよ」
突然聞こえた、どこかくぐもった幼い声に驚いてぎくりと身体が強張る。まさか返事が返ってくるとは思っていなかった。
「……おねがい、こわがらないで」
僕の強張りを恐怖に依るものととったのか──実際にそうだったかもしれないけど──幼い声に震えが混じる。嫌わないでと縋るように、腹の上で何かが蠢く感触。
僕は頭と肩を地面からゆっくり持ち上げて、その蠢くものの姿を目にした。
そこに。
「……君は、」
黒、が。
ただただ清廉な白の空間の中で、そこだけ鋏で乱雑に切り取りどこかへ捨ててしまったかのような、ぽっかりとした黒い影。だけどよく目を凝らして見れば、影は細部は分からないけれどちいさな子供の形をしているようだった。
「僕は、ずっとここで眠ってたんだ」
だからなんだろうか。正体の分からない真っ黒な影に抱きつかれているというのに、恐怖や嫌悪感を少しも抱かないのは。それどころか、じわりと暖かい気持ちにすら、なる。
「ここ、で?」
「そう。ここは君そのもの」
「ここが、」
寝転がったまま首を反らし、立っていれば頭上を見上げる形になって、もう一度この白い空間を眺めた。視界の隅にはきらめく砂の小山。
──ここが、僕?
「ずっと居たかった。けど、呼ぶ声が……止まらない。はじまってしまう」
影がすり…と、多分頭だと思う部分を僕の薄い腹に寄せてくる。そのとても幼い仕草が、今にも泣き出しそうだという不安を切に訴えかけた。
僕は、僕の些細な変化に怯えるこの影へゆっくりと顔を戻して、右手でそっと触れてみた。頭の片隅ですり抜けてしまうかと思っていたけれど、それは僕に柔らかく少し冷たい皮膚の感触を伝えてきて。
「……。ねぇ、一つだけ君にききたいことがあるんだ」
「何、を」
思いのほか指に心地よい感触が嬉しくて、僕は自分の唇が頬笑みを浮かべていることに気が付けていなかった。
そんな僕を見上げて、影がすんと鼻を鳴らしたような気配をこぼす。
「僕は、君からずっと大事なものを奪い続けた」
「……え」
「無知な僕が犯した罪。……そして、その逃れられない事実すら、愚かにも僕は忘れゆくんだ」
濡れた声が震えた。ちいさな影が、泣いている。
「それでも」
「……」
「こんな罪に塗れた僕が、もしも。永遠にここに、君に、眠っていたいと、望んだとしたら」
影がちいさな腕を僕の腰に回して、その存在を、ここに自分は確かに在るのだと主張するように、強く強く押し付けてきた。始めは少しも感じなかった重さも、今はまるで僕を潰そうとしているように乱暴にのしかかってきて、痛みすら感じる。
──それなのに。
「君は。僕を、」
「……僕は」
するりと、言葉が落ちた。
この拙い愛情を寄せてくる影が。本当は、なんであろうとも。僕に何をしたのだとしても。
理性とか感情とか、そういった心の中のものを全てとっぱらって、最後に残った純粋なものが。
「君を、受け入れるよ」
そう叫び、願ってる。きっとずっと、ずっと昔から──。
「……君は、本当に。……」
影が、また僕に頭をすり寄せる。触れたところから伝わる、ちいさくしゃくり上げるような振動が気持ち良かった。
「あの日。あの場所に居たのが、君で本当に良かった……」
「……え。それって」
心にちりと嫌な感触がひっかかって、僕は腹に重く覆い被さる影を見つめる。だけど影は、僕が瞬きをしたほんの一瞬の間に存在も重さも嘘のように消え去っていた。……いや、違う。僕の頭の横へ場所を変えて、立っている。
影が腕を空へ差し伸べた。その指から線を引けば、さらさらと降り注ぐ砂をまっすぐに示す。
「砂は止まらない。そしてほんの一時過ぎるだけで尽きてしまうくらい、それは残り少ない」
「尽きる……」
「僕の罪だ」
その砂がどこから降るのか、ましてやあとどれだけの砂があるのかなんて、僕からは全く見えない。だけどはっきりと確信を持って、影は云う。砂は、尽きる。
目の前がどんどんと白んできたような気がする。それとは気が付かせない、抗いがたい眠気が僕を絡み取りはじめていた。
「だから僕は、こんな僕にも出来るありったけの手段を使って、君に償ってみせる」
「……僕に?」
「たとえ、ただの抜け殻の、仮面の一つになったって」
「っ……」
「僕が君を、苦しみから守るよ」
なみだに満ちた声が震えて。
嗚呼、いけない、と。
君は、そんなことをしなくてもいいんだと、咄嗟に叫びそうになった。
そうだ、受け入れて、守りたいと望んだのは僕だ。僕のなかで、いつからか一人で泣いていたこの子を。
強く抱え込んで、あのおおきな冷たい光から隠して──。
だけど僕には叫ぶことは許されず。
代わりに眩く白く染まっていく視界の中に唐突に現れた蒼い扉のようなものを見つけて、そして意識が急速に白い闇へと引きずり込まれた。
弾かれたように飛び起きる。途端に強い日の光が目を灼いて、慌てて片手で顔を覆った。
「……寝て、た?」
しんとした部屋に落ちる独り言。枕元には昨日見つけた日記帳が無造作に置かれていた。これを見たままいつの間にか、ブランケットもかぶらず眠ってしまったんだろうか。記憶は完璧に飛んでいる。暖かい時期でよかったと、的外れな安心を一瞬覚える。
「なんだろ。なんか、すごく」
心がざわめく。
大切な夢を見た気がする。とても大事なものと久しぶりに話せた、夢だったはず。忘れてはいけなかったのに、意識が覚醒するほんの僅かのショックでそれらは全部振るい落とされて、どこかに消えていってしまった。
「……」
忘れて、しまった。
「……あ」
ぽたり。ぽたり。
目を覆っていた手が、濡れる。
「……え、なんで、」
信じられないものを見る気持ちで、僕は手のひらを見つめた。
なみだの雫が、手のひらにいくつも、いくつも落ちていく。いつもの一粒のなみだとは、全然、違う。
だって途方もなく。
「つらい……の?」
胸の中いっぱいに苦いものが詰め込まれたような感覚。それはずっしりと重くて、僕の胸をぎりぎりと苛む。
「……っ」
なみだを握りしめるように固く閉じた手を、胸に強く押し当てた。ぽたりと、また一粒なみだがこぼれる。
僕が誰に、何をしてしまったのか、これっぽっちも思い出せないのだけど。だけどそれでも。
「……ごめん、なさい」
虚しすぎる謝罪の一言しか、今はこのなみだを止める手立てが思い付かなかった。
耳の中で、さらさらと何かが流れる音が聞こえる──。
日記帳もきちんとバッグに入っているのを確認して、玄関に座り込んで靴を履く。
こんなに赤く腫れてしまった瞼を伯父に見られでもしたらまた心配させてしまうところだったけれど、今日は早くから仕事が入ったらしい。リビングのテーブルに見送りが出来なくてすまないと、簡潔なメモ書きが置かれていて正直ほっとした。すぐに申し訳ない気分に変わったけれど。
イヤホンを耳にかけてミュージックプレイヤーの電源を入れる。高い電子音が短く鳴って、気に入りの女性ボーカル曲が流れ出す。それから少し重いバッグを背負い立ち上がった。最後にポケットの中の地図を確認して、準備完了だ。
今日は盛大に寝坊をしてしまったから、急がなくてはいけない。あれから落ち着くまで暫くかかり、それから改めて時間を見たら昼すらとうに過ぎていて血の気が引いた音を自分ではっきり聞いた。しかも間の悪いことに、巌戸台へ繋がる路線が事故の影響でダイヤが大分乱れている、なんてニュース報道。悪いこととは本当に重なるものだ。
「……それじゃ」
ドアノブに手をかけて振り返り、静かな廊下に声を落とす。見送る人はここには居ないけれど。
「いってきます」
出来るだけ明るい声で、挨拶を残す。まだなみだが染みてじくじくと痛む胸を、強くおさえるかのように。
そして僕はドアを開けて、何かをはじめるために、あの街へ戻るのだ。
或いは。
僕が謝らなくてはいけない誰かを、そして僕達が犯していた罪を、夢ではなく現実に、見い出す為に。
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2006.11.29